第43話

 学校へ来れば、私の気持ちはあまり関係がない。教室も廊下も浮ついた雰囲気で、誰もが夏休みを待っている。


 仕方がないとは思う。

 長い休みを歓迎しない生徒なんて少ないだろうし、こっちに合わせろなんて無理な話だ。少数派は少数派らしく、大人しくしているしかない。


 私にとって、夏休みは長すぎる。


 家にいても一人だし、友だちと遊びに行くとしても毎日は誘えない。受験生になってしまった今年は、特にそうだ。いくつか約束しているけれど、去年と比べると少ない。みんな塾があったり、予備校があったりと去年とは違う予定がある。この先約束がもう少し増えても、去年を超えることはないはずだ。


 つまらない。


 一人でいることに慣れてはいるけれど、一人でいることが好きなわけじゃないから長い休みは嫌いだ。


「志緒理、皺になるよ」


 お弁当を食べ終えた舞香が向かい側から手を伸ばして、私の眉間を人差し指でぐりぐりと押してくる。


「それ、気持ち悪い」


 指が近づいてくるだけでぞわぞわとする眉間を触られ続けたくはなくて、舞香の手を掴んで机の上に戻す。


 昼休みでざわつく教室は、落ち着きがない。舞香もクラスのみんなと同じで、楽しそうに笑いながらもう一度手を伸ばそうとしてくる。けれど、隣にいた亜美の手の方が一瞬早く私の眉間をつついた。


「眉間ってどうして気持ち悪いんだろうねえ」


 亜美がのんびりと言う。


「気持ち悪いと思うなら、やらないで」


 私は彼女の脇腹をつついて、指先から逃げる。


「それ、反則」

「眉間攻撃も反則だから」


 違和感の残る眉間を撫でてから購買で買ってきたパンを胃の中に収めると、舞香が取ってつけたように言った。


「今日、志緒理元気ないじゃん。だから、元気づけてあげようと思ってさ」

「そうそう」


 浮かれた気分ではないだけで、元気がないわけではない。でも、二人には元気がないように見えるらしく「何かあった?」と問いかけられる。


 何かはあったけれど、何があったかは言えない。


 放課後、仙台さんとの間にあったことは誰にも話さないという約束だ。それに約束がなかったとしても、雨の日にあったことは人に話せるようなことじゃない。


「昨日、寝るのが遅かったから眠いだけ。何か奢ってくれたら、すぐに元気になるのになー」


 あまり寝ていないのは本当で、眠たいというのは嘘だ。

 言えない部分を上手く伏せて説明するなんて面倒で、半分くらい嘘を混ぜてそれらしい答えを口にする。


「奢ってか。なにがいい?」


 リクエストに応えるつもりがあるのか、舞香が私を見る。けれど、私が答えるよりも先に亜美が口を開いた。


「アイス食べたい。奢って」

「なんで亜美に奢らなきゃいけないの」


 舞香が呆れたように言うけれど、亜美は気にすることもなく放課後の予定を決める。


「奢らなくていいからさ、アイス食べに行こうよ。暑いし」


 確かに今日は暑い。

 今年に入って一番暑いかもしれない。

 廊下ですれ違った仙台さんも、ぱたぱたと手で顔を扇いでいた。


 彼女は暑がりのくせに、学校では真夏でもブラウスのボタンを一つしか外さない。今日もボタンを一つしか外していなくて、二つ目はきっちり留めていた。だから、雨の日につけたキスマークを見ることはできなかった。


 もちろん、二つ外したところで見えたりしないし、もう消えているはずだ。それでも、確かめたいと強く思った。


 こんな風に思うのはおかしい。

 それはわかっている。

 わかっているけれど確かめたいと思うのは、昨日、跡が消えているか見ることができなかったせいだ。


 放課後、いつものように仙台さんを呼び出した私は、ブラウスのボタンを外させて自分がつけた跡を見ようと思った。

 でも、命令できなかった。


「キスマークってさ」


 無意識のうちに口が動いて、しまったと思う。でも、言ってしまった言葉をなかったことにする前に舞香が食いついてくる。


「キスマーク?」

「そう。どれくらい残ると思う?」


 諦めて、私は気になっていたことを二人に尋ねる。


「え? なに? 志緒理、そういうことしたの?」


 舞香が目を輝かせて、私を見る。


「相手もいないのにするわけないじゃん。茨木さんがさ、この前キスマークつけてたから気になって」


 キスマークをつけた茨木さんは見ていない。それでも咄嗟にそんな話をしたのは、仙台さんから聞いたことが記憶にあったからだ。


 キスマークを消すときは、切ったレモンを乗せたらいいと茨木さんが言っていた。


 そんなことを思い出したから、目立つ場所にキスマークをつけた茨木さんを見かけたっておかしくはないと思って口にした。


「ああ、なるほどね」


 こういう言葉がすんなり返ってくるあたりが茨木さんという感じだ。

 日頃の行いの大切さがわかる。

 そして、こうやって事実が捏造され、噂になって広まっていくのだとわかる。


「結構、残ってるんじゃないの? ねえ、亜美」

「私に振らないでよ。わかんないから」

「えー、杉川君とはしてないの?」


 杉川君というのは、最近できた亜美の彼氏だ。違う学校に通っているけれど、二人で一緒に勉強をしているという話をよく聞く。


「清く正しいお付き合いだから」


 キスマークをつけないことが“清く正しい”ことなら、私と仙台さんは清く正しくないということになる。でも、私たちは付き合っているわけじゃないから、清さも正しさも関係がないと言われればそれまでだし、私は清さも正しさも求めていない。


 ただ、清くも正しくもない私たちがこれからどうなるのかはよくわからない。


 私は、私自身を持て余している。

 それに最近は、仙台さんをいつ呼んだらいいのかよくわからなくなっている。


 嫌なことがあった日に仙台さんを呼ぶ。


 そういう私の中のルールは崩れていた。

 だから、次に仙台さんを呼ぶタイミングが掴めない。

 昨日呼んだばかりだから、今日呼ぶのは気が引けるし、明日は早すぎるような気がする。


 窓の外を見ると、絵の具で塗ったみたいに真っ青な空が目に入る。


 仙台さんがずぶ濡れで私の家にやってきてからすぐに梅雨が明けて、嫌になるくらい晴れている。仙台さんの制服が濡れることはもうないだろうし、その制服を脱がすこともない。

 今日は蒸し暑くて、くらくらする。


 もう少し涼しければいいのに。


 太陽に恨みはないけれど、私は雨粒の一つも落としそうにない空を睨んだ。

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