最近の私は仙台さんに甘すぎる

第339話

 おはよう。

 朝の挨拶はいつだって変わらない。


 喋りすぎた日曜日の前も後も私と仙台さんは「おはよう」を交わしている。もちろん「おやすみ」も「いってきます」も「ただいま」も変わらずに存在していて、私はそんな毎日にほっとしている。


 仙台さんがいつも通りになってくれて良かった。


 私だけしか見ようとしない元気がない彼女も悪くはないけれど、元気はないよりもあるほうがいい。


「志緒理、今日バイトだっけ?」


 隣に座っている舞香に声をかけられ、彼女を見る。

 今日最後の講義が終わったばかりで、舞香は元気がいい。仙台さんも大学でこれくらい元気があればいいと思う。


「うん」


 短く答えると、舞香がわざとらしく作った笑顔で「へえ」と言ってくるから「なに?」と尋ねることになる。


「いやー、志緒理がバイト続けてるのすごいなって思って」

「すごくない。普通じゃん」


 バイトなんて誰でもしているもので、誰でも続けているものだから、私が続けられていることも当たり前のことだ。今さら驚くようなことじゃない。


「文化祭でカフェやったとき、志緒理めちゃくちゃ嫌そうだったじゃん。だから、未だにカフェでバイトしてるの信じられない」

「まあ、楽しくはなかったけど」


 文化祭でやったカフェは、あまりいい思い出がない。

 来ると言った仙台さんは来なかったし、ホールスタッフの真似事は大変だった。


「私は楽しかったけどね。それにしても、なんでコンビニとか本屋にしなかったの?」

「コンビニも本屋も、結局接客しないといけないじゃん」

「それはそうだけど。でも、カフェでバイトできるならさ、澪さんのところのバイトが終わったら今度は私と一緒にバイトしようよ」


 舞香が悪意のない笑顔を向けてくる。


 バイトは、しなければいけない理由があるからしているだけで、その理由がなくなったらするつもりがない。だから、舞香とバイトをすることはあり得ないことで、これは良くない流れだと思う。


 私は仕方なく、丁度良く出てきた名前を利用することにする。


「そうだ。澪さんで思い出したけど、舞香、澪さんの合コンの話どうするの? 昨日、行こうかなって言ってたけど」


 仙台さんと舞香と澪さん、そして私。

 仙台さんの部屋に四人で集まったときに、私と舞香は澪さんと連絡先を交換することになり、さらに仙台さんが巻き込まれてメッセージを交換し合うグループが結成された。


 後から澪さんに『変な鳥』なんて意味のわからない名前をつけられたそのグループで、私たちは今でも連絡を取り合っている。


 合コンは昨日、その『変な鳥』で澪さんから誘われた。


「うーん、迷ってるんだよね」

「なんで?」

「志緒理も仙台さんも行かないから」


 なにか言いたげにじっと私を見てから、舞香が立ち上がる。

 私も一緒に立ち上がり、二人で講義室を出る。


「一応さ」


 廊下を歩きながら舞香が言い、さらに言葉を続ける。


「仙台さんに合コンのこと聞いたら、澪さんの友だちに変な人はいないって言ってたけど」

「仙台さんに合コンのこと聞いたんだ?」


 そんなことは聞いていない。

 仙台さんはなにも言っていなかった。


「気になったから」


 舞香はなにも悪くない。

 澪さんがいる『変な鳥』では話せないことだから、仙台さんに直接聞いたのだとわかっている。


 けれど、こうして舞香の口から仙台さんの話を聞くというのは面白くないことで、心の中に黒い霧がかかって視界がぼやけそうになる。


「仙台さん、元気だった?」


 舞香も仙台さんも悪くないけれど、こうして話をしていると悪く思えてくるから、早くネックレスがほしいと思う。


 仙台さんの首にネックレスをつけることができたら、すべてが解決するわけじゃない。わかっているけれど、なにかがあればもう少し“良い私”でいられるはずだ。


「元気だったけど。それ、私に聞かなくても志緒理のほうが知ってるんじゃない」

「んー。仙台さん最近忙しいみたいで調子悪そうだったから、ちょっと気になって」

「そうなんだ。昨日だけじゃなくてずっと元気そうだったけど、仙台さん大丈夫なの?」


 どうやら仙台さんは、舞香とはずっと“普通”に話しているらしい。


 バイトで澪さんに会ったときにも仙台さんの話を聞いたけれど、ずっと“普通”にしていると言っていた。


 それは、寂しいなんて言う仙台さんは私の前にしか存在しないということで、私が彼女にとって“ほかの人とは違う存在”だと思わせてくれる。


 だから、私は仙台さんにほかの人には絶対に言わないことを言ったり、しないことをすることになる。


「大丈夫。最近は元気そうだし、聞いてみただけ」


 にこりと笑って答えると、舞香が安心したように「そっか。大丈夫ならいいけど」と言った。


「やっぱり志緒理は合コン行かないの?」

「行かない。でも、澪さんの友だちなら大丈夫だとは思うよ」


 一緒にバイトをしてわかったが、澪さんは強引なところがある人だけれど本当に人が嫌がることはしない。ときどきカフェにやってくる友だちも明るくて元気で、私が知り合うようなタイプではないけれどいい人そうな人ばかりだ。


「もうしばらく迷っとこうかな」


 舞香が呟くように言い、私たちはバイトの話や最近買った漫画の話をしながら大学を出て、駅で別れる。


 仙台さんと約束の日曜日を一緒に過ごしてから二回目のバイトになる今日は、仙台さんにもバイトがあるから、彼女は寂しくなったりしないはずだ。


 ずっと仙台さんがバイトに行く日は私にとって良くない日だったけれど、今は彼女の寂しさが紛れるそれなりに悪くない日だと思っている。


 はあ。

 電車に乗って、小さく息を吐く。


 私がこんなにも“寂しい”という言葉に弱いとは思わなかった。


 あるべきものが欠けた時間がどんなに長くても、布団の中で丸くなっていればやり過ごすことができる。心に空いた穴は目を閉じて見えないことにできるのだから、足りないことは普通のことで、満たされることを望むことはくだらなくて馬鹿げたことだ。


 ずっと、ずっと、お母さんがいなくなってから、ずっと。


 そう思おうとしてきたし、そう思ってきたはずだ。


 だから、寂しいなんて言葉は取り立てて言うほどのことでもなくて、心の中に転がして見ない振りをしておくだけで済むようなものだったのに、仙台さんがわざわざ「寂しい」なんて言うからおかしなことになってしまった。


 それなりに人が乗っている電車が揺れる。

 窓の外が揺れて、ため息が漏れる。


 いつか仙台さんに話してもいいと思ってはいたけれど、その“いつか”があの日曜日になるとは思っていなかった。


 話したことに後悔はないが、自分の過去を誰かと共有したことがなかったから少し落ち着かない。


 仙台さんは“寂しい”と言う前の彼女に戻っている。お母さんの話を聞いてもなにも変わらない。私を“可哀想な子ども”のように見たりはしない。


 そういう彼女の隣は居心地がいいけれど、布団の中に潜り込んでいた子どもの私を知られてしまったようで心の奥がざわざわする。


 電車がまた揺れて、しばらくして駅に停まる。

 いくつか駅を見送って、電車を降りてバイト先のカフェへ向かう。スタッフ通用口からカフェへ入り、更衣室で制服に着替える。


「志緒理ちゃん、おっはよー」


 エプロンを着け終わった頃に澪さんの声が更衣室に響く。


「時間的にこんばんはだと思う」

「こんばんはには少し早いし、こんにちはって感じでもないからおはようでいいじゃん。とにかく今日もよろしく!」


 澪さんが隣にやってきて無駄に大きな声で言い、私は小さくはないが大きくもない声で「よろしく」と返す。


「志緒理ちゃん、相変わらずテンション低いなー」

「澪さんが高すぎるだけじゃん」

「普通だって。志緒理ちゃんが低すぎるの」

「そんなことないと思う。私、行くね」


 このまま澪さんと話をしていると大きな声で「よろしく」と言えと言われそうで、私は少し早いけれど仕事に向かおうとする。でも、澪さんが私の腕を掴んだ。


「待って。志緒理ちゃんさ、葉月ここに呼んであげたら」

「ここって、このカフェに?」

「そう」

「……なんのために?」

「葉月、志緒理ちゃんに会いに来たいって言ってたから。あたしは葉月に来たいなら来ればって言ったんだけどさ、志緒理ちゃんがバイトしてるところ見られたくないって言ってるから行かないって。だから、葉月呼んであげたら?」


 澪さんが一気に喋って、掴んでいた私の腕を離す。


「……それって、仙台さんに私に言えって言われたの?」

「葉月からはなにも言われてないよ。あたしが勝手に言ってるだけ。まあ、あたしは来ても来なくてもどっちでもいいんだけど、考えるだけ考えといて」


 全開の笑顔で澪さんが言い、私の背中をぽんっと叩いた。

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