第340話

 バイトは楽しいわけではないが、嫌いじゃない。


 たまにオーダーを取りにいったり、料理を運んだりすることがあるけれど、なんとかなっている。高校時代に戻って文化祭のカフェをもう一度やれと言われたら断る以外の選択肢は存在しないが、このバイトだったらまたやってもいいと思う。


 ただ、仙台さんにバイトをしている姿を見せてもいいかと問われたら――。


 見せたくない。

 絶対に。

 ここに呼ぶなんてあり得ない。


「志緒理ちゃん、ホール頼める?」


 澪さんに言われて、「行ってくる」と短く答える。


 今日のカフェは忙しい。


 更衣室で「葉月ここに呼んであげたら」と無責任に言っていた澪さんも真面目な顔で働いている。ホールは苦手だけれど、嫌だなんて言っていられない。


 息を吸って吐いてからホールへ出ようとすると、澪さんが「先輩来てるけど、放っておいていいからね」と付け加えてきて、思わず足が止まる。


 もう一度息を吸って、ゆっくりと吐く。


 澪さんの言う先輩は能登さんで、避けられるものなら避けたい人物だ。


 舞香のバイト先で会ったときの記憶が悪すぎる。

 私の中の能登さんはあのイメージのままで、あれから更新されていない。


 制服の胸を押さえて、ホールへ出る。


 見たくないのに店内を見回してしまって、いつもの場所にいる能登さんに手を振られる。私は曖昧に笑ってから、カフェへ入ってきたお客さんを席に案内する。


 ここで働くようになってから店内で何度も能登さんを見ているけれど、彼女から声をかけられたことはない。それは私がホールへ出るときは忙しいときで、声をかけられても相手をしている余裕がないときだからだ。


 だから、能登さんに曖昧な笑顔を向けるだけで済んでいる。


 澪さんの気遣いのおかげもあるけれど。


 私は能登さんの視線を感じながら、ホールでやるべきことをやる。居心地は悪いが、何事もなくホールの仕事ができるのは澪さんのおかげであることを考えると、彼女の提案を無下にはできない。


 仙台さんをここに呼ぶべきかもしれないと思う。


 ――いや、やっぱり無理だ。


 今、私を見ているのは能登さんだけだから居心地が悪いくらいで済んでいるけれど、仙台さんに見られていたら絶対に緊張する。しなくてもいい失敗をするに違いない。


「志緒理ちゃん、もうホール大丈夫だから。ありがとう」


 それなりに時間が経ってから店長に声をかけられ、私はキッチンへ戻る。

 食器を洗っていると、澪さんに話しかけられる。


「志緒理ちゃん、もしかしなくても先輩のこと苦手だよね?」

「苦手っていうか……」


 能登さんは澪さんと親しい。

 そう考えると、どうしても歯切れが悪くなる。でも、嘘でも苦手じゃないとは言えない。


「志緒理ちゃん、いい子だねえ。まあ、先輩のこと苦手な人そこそこいるからさ、気にしなくていいよ。悪い人じゃないんだけど、良さがわかりにくい人だから」


 澪さんが明るく言って、「苦手でいいから、嫌わないでくれると嬉しいかな」と付け加える。


「がんばる」


 達成が難しそうではあるけれど、ほかに言うことがなくそう答えるとオーダーが入り、澪さんが「期待してる」と言ってサンドイッチを作り始める。


 魔法みたいに澪さんの手が動く。

 仙台さんのように料理が上手なのか知らないけれど、あっという間にサンドイッチが作られ、お皿に綺麗に盛り付けられる。


「志緒理ちゃん、ドリンクお願い」

「わかった」


 私はアイスティーを用意する。


 澪さんは、今でも私にとって苦手な人だ。でも、バイトを始めてから“いい人”という言葉がプラスされた。もっと彼女のことを知ったら苦手という言葉が消えるのかもしれないと思う。


 バイトは私にいろいろなことを教えてくれる。


 バイトがなければ、澪さんとこうしてお喋りをするような仲にはならなかった。苦手じゃなくなる日が来るかもなんて冗談でも思えなかった。


 そして。

 仙台さんがあんな風に寂しいなんて私に言ってくる日を知ることもなかった。


 おかげで私は調子が狂いっぱなしで、いつもの私に戻れない。


 本当に嫌になる。


 絶対に仙台さんをここに呼びたくないけれど。


 ここで働いている姿なんて見られたくないけれど。


 絶対に絶対に本当に絶対に嫌だと思っているけれど、寂しいと言っていた仙台さんを思い出すとその気持ちが揺らぎそうになるから思い出したくない。


 私は仙台さんを頭の中から追い出して、仕事に集中する。


 キッチンの仕事をこなして、ホールにも顔を出して、仙台さんのことは思い出さない。あっという間に時間が過ぎて、カフェを出て、電車に乗っても仙台さんのことは思い出さない。


 三毛猫が現れない道を歩いているときも、階段を上っているときも、玄関のドアを開けた今も、澪さんが私に言った言葉を思い出さない。


 私は玄関のドアを閉めて、鍵も閉める。

 玄関には仙台さんの靴があって、眉間に皺が寄る。


 息を吐いて、人差し指で寄った皺を伸ばす。

 静かに廊下を歩いて共用スペースに入る。


「おかえり」


 私が声を出す前に仙台さんの声が耳に飛び込んでくる。


「ただいま」


 大きくも小さくもない声で言うと、にこやかな仙台さんにもう一度「おかえり」と言われる。


「宮城のこと待ってた」


 ただいまを繰り返す前に仙台さんが椅子から立ち上がる。私に近寄ってきて当然のようにキスをしようとするから、お腹を押して距離を取る。


「見たらわかる。ご飯食べた?」

「ちゃんと食べてワニに報告した」

「ならいい」

「宮城はこれからどうするの?」


 今日はバイトが忙しくて疲れたから、お風呂に入って寝る。


 そう言いたいけれど、邪険に扱っているようで言いにくい。私を待っていた彼女のために時間を割かないことが酷いことのように思えてくる。


「……仙台さんに話があるからそこにいて」


 特別な話はない。

 でも、ほんの少しでも仙台さんと一緒にいるべきだと思う。


 私は自分の部屋へ行き、日曜日にワニと交換したカモノハシに「ただいま」と告げる。


 いつもティッシュカバーに挨拶をしているわけではないけれど、ご飯を食べた報告とただいまをワニに言うことを仙台さんに約束させた私がしないわけにはいかない。


 鞄を置いて、カモノハシの頭を撫でる。


「まかない美味しかった」


 夕飯のことも告げてから、共用スペースへ戻る。


「プリン買ってあるし、一緒に食べない?」


 仙台さんの声が聞こえてテーブルを見ると、プリンとスプーンがもう置いてある。


「食べない選択肢ないじゃん」

「宮城はプリン食べたくない?」

「……食べる」


 仙台さんの向かい側に座って「いただきます」と言うと、仙台さんの「いただきます」が追いかけてくる。


 プリンの蓋を開けて一口食べる。

 ちょっと固めの焼きプリンで、じんわりと卵の味が口の中に広がる。


「それで宮城。話ってなに?」


 仙台さんがプリンを一口食べて、私をじっと見る。


 どうしてもなにか話さなければならないのなら、言いたいことは二つある。

 一つは合コンの話で、正確に言えば仙台さんが舞香と話したという合コンの話だ。


 舞香にどんなことを聞かれて、どんなことを話したのか。


 それを知りたい。

 でも、聞いても仕方がないと思っている。


 友だちとなにを話したかなんて根掘り葉掘り聞くようなことじゃないし、聞いたところで面白い話はでてこないだろうから聞く意味がない。


 そうなると残った話題は一つで、あまり積極的にしたい話じゃない。


「話あるんじゃないの?」


 私が黙っていたせいか、仙台さんがまた尋ねてくる。


「忘れた」

「忘れたって、嘘でしょ。なにかあるんでしょ」


 問い詰めるというほど強い口調ではないけれど、仙台さんが急かすように言う。


 私はスプーンでプリンをすくって、口に運ぶ。

 ゆっくりと味わうと、少し甘すぎるような気がする。

 もう一口食べて、仙台さんを見る。


「宮城」


 名前を呼ばれて、私はスプーンを置く。

 嫌々。

 渋々。

 どうしようもないから重い口を開く。


「……仙台さんって、今でも私がバイトしてるカフェに来たいの?」


 本当は別の話をしたほうがいいのだけれど、別の話がない。


 帰り道に三毛猫がいなかったことなんてわざわざ言うことではないし、今日の大学がどうだったかなんて話はもっとしなくていいことだ。だから、こんな話をすることになっている。


「突然どうしたの?」

「澪さんから、仙台さんがカフェに来たいって言ってるって聞いた」

「……なるほどね」


 ため息交じりの声が聞こえてくる。


「おかげで仙台さんにカフェに来たいのか聞くはめになってる。ほんと、澪さんってお節介だよね」


 一気に喋ると、仙台さんが困ったように笑う。


「まあね。そこがいいところでもあるんだけど」


 自分から振った話ではあるけれど、素直に澪さんを褒める仙台さんを見ていると、椅子から立ち上がって部屋に戻りたくなってくる。


 仙台さんと澪さんは、仲良くすべきだと思っている。

 それでも面白くないものは面白くない。


「仙台さん。……澪さんに、カフェに行きたいから私を説得してとか言った?」

「言うわけないじゃん。大体、澪が宮城にそんな話すると思ってなかった」

「ほんとに?」

「本当」


 仙台さんが真面目な顔をして言い切る。そして、「宮城」と私を呼んだ。


「バイトしてるところに私が行ってもいいの?」


 柔らかな声が聞こえてくる。

 彼女は「行きたい」とは言わない。

 私の言葉を待っている。


「……そんなに来たいの?」

「宮城が行ってもいいって言うなら」


 やけに真剣な声で言う。

 私の許可を得たい。

 それはわかっている。


 けれど、“いい”と言いたくないと思う。


 私はやっぱり、仙台さんに働いているところを見てほしくない。いいところを見せたいわけではないが、彼女がカフェに来ると良くないところを見せることになるはずだから気が進まない。


「……来ないで」


 小さく答えると、仙台さんが軽い声で言った。


「だよね。言うと思った」


 食い下がってくるのかと思ったけれど、仙台さんはそれ以上なにも言わずにプリンを食べる。


 罪悪感が刺激される。

 酷く悪いことをしたような気がする。


「おいしい」


 仙台さんの優しい声が聞こえてくる。

 私もプリンを食べる。

 甘い。

 美味しいのかわからない。


「仙台さん、私がバイトしてるときにカフェに来ないって約束破るんじゃないかと思ってた」


 ぼそりと言うと、仙台さんがプリンを食べる手を止めた。


「酷くない? ……と言いたいところだけど、本当は黙って行こうと思ってた。でも、この前の日曜日、宮城が優しくてすごく嬉しかったから、宮城を裏切りたくないって思った」


 ずるい。

 こういうときに、そういうことを言うのはずるい。 


「仙台さん、それちょうだい」


 私は彼女の前にあるプリンの容器を指さす。


「それって、私のプリン?」

「そう。今、仙台さんが食べてるヤツ」

「食べかけなんだけど」

「いいからちょうだい」


 仙台さんを睨むと、彼女のプリンが私の元へやってくる。

 私は自分のプリンではなく、仙台さんのプリンを食べる。


「宮城。私のプリン美味しい?」

「美味しい」


 テーブルの上にあった二つのプリンは同じものだ。

 でも、味が違うように思える。


 仙台さんのプリンのほうが美味しい。


 私は仙台さんからもらったプリンを全部食べてから、彼女を呼ぶ。


「仙台さん」

「なに?」

「今のプリンのお礼に、どうしても来たいって言うならカフェにちょっとだけ来てもいい」

「え?」

「澪さんが呼べばって言うし」

「澪が?」


 向かい側から聞こえてくる声が少し大きくなる。


「そう」

「私には来ないでって言ったのに、澪のいうことならきくんだ? いつの間にそんなに仲良くなったの?」

「仲良くなったわけじゃないけど、そういう話になった」


 仙台さんが私をじっと見て、眉根を寄せる。

 でも、それは一瞬で「ふうん」と低い声が聞こえてくる。


「来ないならそれでいい」


 私が話を打ち切ろうとすると、仙台さんが慌てたように笑顔を作って「絶対に行くから」と力強い声で言った。

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