第341話

「今日、バイトだから遅くなる」


 ジャムとバターを塗ったトーストを齧っている仙台さんに告げる。


「わかってる」


 土曜日の朝は平和で、静かだ。

 私がバイトだと言っても、仙台さんは「ご飯を食べるところを見ていて」なんてことを言ってきたりしない。


 私たちは少し遅めの朝食を穏やかな雰囲気で食べている。


「あと、カフェに来ていいのって今日だけだから」


 スクランブルエッグを食べようとしていた仙台さんの手が止まる。


「……行ってもいいのって、今日限定なの?」

「そう」

「昨日、バイト先に行っていいって聞いたばっかりなんだけど」

「いつでも来ていいとは言ってない」


 一度言った言葉をあとから都合のいいように使うことは仙台さんだってすることだから、私に文句は言えないはずだ。


「じゃあ、これから宮城と一緒に行ってもいい?」

「駄目。あとから来て」


 私は断言して、トーストを一口食べる。


 朝食として数え切れないほど食べているジャムとバターを塗ったトーストは、甘くて少し塩味があって美味しい。何度食べても飽きたりしない。


「宮城って本当にケチだよね」


 不満そうに仙台さんが言う。


「やなら来なくていい」

「今日、行くから」


 力強く言い切って、仙台さんがスクランブルエッグを口に運ぶ。


 高校のとき、彼女は文化祭のカフェに「行こうかな」と言ったくせに来なかった。今日だってあのときのように来なくてもおかしくない。


 と言うよりも、今日は来なくていい。


「無理しなくていい」

「絶対に行くから」


 仙台さんが笑顔を私に向ける。

 そして、トーストを齧った。


 私も残り少なくなったトーストを齧り、すべて胃に収める。ハムもスクランブルエッグも食べて、サラダのお皿も空にする。


 慌ててバイトに行かなければいけないような時間じゃないけれど、仙台さんが来るかもしれないと思うと落ち着かない。


「ごちそうさま」


 そう言って立ち上がると、仙台さんに声をかけられる。


「私が片付けとくから、宮城は用意しなよ」

「ありがと」


 短く返して、部屋へ行く。

 身なりを整えて、部屋の中をうろうろする。

 ベッドに座って、立ち上がる。

 また部屋の中を歩き回る。


 私はしなくてもいいことをして繰り返して時間を潰す。


 用意と言ってもすることはそれほどないし、部屋にいても穏やかな気分にはならない。私は始まったばかりの今日という日が、もう終わってしまえばいいと思っている。


 最低とまではいかないが、憂鬱な気分だ。


 仙台さんがカフェに来てもすることは変わらない。

 いつも通りやらなければならないことをするだけだ。


 わかっているのに、心臓の辺りがざわざわするし、手で胃をぎゅっと掴まれたようになる。

 気持ちが悪くなりそうで、ゆっくりと息を吸って吐く。


 バイトに行くにはまだ少し早いけれど、鞄の中身を無意味に確かめて部屋から出る。

 共用スペースに仙台さんはいない。


 やっぱり、彼女は来ないかもしれない。


 そう思うと、高校の頃に感じたようなすっきりとしない気分になる。見えない布が体に巻き付いているようでバイトに行きたくなくなる。


 はあ、と息を吐くと、仙台さんが部屋から出てくる。


「宮城、もうバイトに行くの?」

「うん」

「バイト、途中で帰ったりしないでよ」

「なんでそんなこと言うの?」

「今日、絶対に行くから。カフェに着いたら宮城がいないとかなしだからね」

「帰ったりするわけないじゃん」

「約束ね」


 そう言うと、頼んでいないのに仙台さんがピアスにキスをしてこようとするから、彼女の足を踏む。


「そういう約束はしなくていい」


 ピアスは、守られるかどうかわからない約束に使うものじゃない。仙台さんには“文化祭”という前科がある。


 私は彼女の足を軽く蹴ってから、首筋を緩く噛む。

 でも、跡はつけない。


 顔を上げて、仙台さんを見る。


「行ってきます」


 小さく言うと、「行ってらっしゃい」と返ってくる。


 バイトは嫌ではないけれど、仙台さんが来ると思うと嫌になる。それでも行かないわけにはいかないから、家を出て、重い足を引きずって浮かない気分のままカフェへ向かう。


 歩道を歩いて、電車に乗って。


 晴れているのか曇っているのかわからないままカフェに着いて、スタッフ通用口から中へ入り、更衣室で制服に着替える。途中で誰かがやってきて話しかけられたけれど、なにを話したのかよく覚えていない。気がつけば、私はキッチンで食器を洗っていた。


「志緒理ちゃん、葉月来てるよ」


 バイトが始まってから四時間とちょっと。

 澪さんの弾んだ声が聞こえてきて目の前が暗くなる。


 嫌だ。

 帰りたい。

 ――でも、キッチンにいれば大丈夫だ。


「……今日、来るって言ってたから」

「葉月にあの話、したんだ?」

「来ないでって言ったんだけど……」


 どうしても歯切れが悪くなる。

 澪さんは仙台さんが来て楽しそうだけれど、私は一つも楽しくない。


「志緒理ちゃん。ホールやったら?」

「え、やだ」

「そんなこと言わないでさ、せっかく葉月来てるんだし、オーダーくらい取りに行ってあげなって」

「今、そんなに忙しくないよね?」

「忙しくないから行くんじゃん。少しくらい話してきても大丈夫だから」


 澪さんが善意百パーセントの笑顔で言う。


「でも……」

「大丈夫、大丈夫。志緒理ちゃん、今日も可愛いから」

「そういうことじゃない」

「いいじゃん、いーじゃん。そういうことだって。葉月のところ、行ってきなって」


 百パーセントの善意が千パーセントになって、私の胃が締め上げられる。


「あたし、しばらく志緒理ちゃんと変わるから」


 勝手に澪さんがキッチンに宣言して、私の背中を押す。

 お節介というのは、澪さんのためにある言葉なのだと思う。


 彼女に悪気がないのはわかるけれど、こういう状況は望んでいない。けれど、文句を言うこともできず、私はホールに押し出されて仙台さんを見つける。


「葉月ちゃんのオーダー取りにいってきて」


 澪さんと結託しているのか、店長がにこやかに私の肩を叩く。


 仙台さんはここでバイトをしていたから、店長もよく知っている。だから、ホールに出たらこうなることは目に見えていた。


 私は行きたくないけれど、状況的に仕方なく、渋々と仙台さんのもとへ向かう。


 喉が渇く。


 上手く歩けているかわからない。

 仙台さんが私を見つけて小さく手を振ってくる。


 どうしよう。


 仙台さんの前で笑顔を作るなんて無理だ。

 でも、仏頂面で接客するわけにもいかない。


 ぎゅっと手を握りしめてから開く。


 口角を少し上げて、無愛想にならないように。

 澪さんのような明るい声は出せないけれど、低すぎないように。


「……ご注文はお決まりでしょうか?」


 私は仙台さんの前に立ち、努力に努力を重ねて定型文を口にした。

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