第3話

「暴力は契約違反」


 仙台さんが二人の間の決まり事を口にする。

 けれど、足を使って顎を上げたくらいで暴力と言われるのは心外だ。私がしたことは契約の範囲内のことで、彼女に指摘されるいわれはない。


「こんなの暴力じゃないし」

「暴力だね。蹴られたし」


 不満そうな声とともに、指先で親指を弾かれる。


「顎に当てただけだけど」


 今の状態を怒られるなら、行儀が悪いくらいのものだと思う。


「ふうん」


 仙台さんが低い声で言って、私の足首をさっきよりも強い力で掴んだ。


 彼女は、納得していない。

 鋭い目で私を見ている。


 嫌な予感がして足を引っ張り上げようとしたけれど、仙台さんは離してくれなかった。それどころか、足の甲に唇を押しつけて強く吸った。

 舌先が足を這う感触とは違う感覚に、びくりと体が震える。


「やめて」


 私は命令していない行動を取る彼女を止めようと声を上げたが、言葉は何の意味も持たない。彼女は足裏に指を這わせると、親指を噛んだ。


「痛い」


 足の指に強く立てられた歯は、ぎりぎりと肉に食い込んでいる。声は部屋に響いただけで、痛みから解放されることがない。


「仙台さん、やめてってば」


 視線を下げると、彼女のつむじが見える。

 私は抗議するように、仙台さんの頭を掴んで揺すった。


「命令だから。やめて」


 今まで出したことない強い声で告げると、指に食い込んだ歯が離れた。そして、噛み跡を確かめるみたいに舌が這う。


 足の指がべたりと濡れていく。

 温かな舌に背筋が寒くなる。


 やっぱり人の舌は気持ちが悪い。でも、嫌じゃないことに気がついて、私はその感情を振り払うように彼女の髪を引っ張った。


「やめて」


 ついさっき口にした言葉をもう一度繰り返すと、仙台さんがようやく顔を上げた。私は奪い返すように、ベッドの上へ足を引き上げる。


「足、貸して。履かせてあげる」


 満足したのか爽やかな笑顔で仙台さんが言って、ソックスを手に取る。


 これじゃ、どちらが命令しているのかわからない。

 今の状況は不満でしかない。


「履かせなくていいから、こっちも脱がせて」


 そう言って左足を仙台さんの太ももの上に乗せると、彼女は黙って従った。


「他に命令は?」

「ない」


 言い切って、私は立ち上がる。


「何か飲む?」


 テーブルの上、空になったグラスを見て尋ねると彼女は「いらない」と短く答えた。


「夕飯、食べてく?」


 帰る。


 私は彼女がそう答えると知っている。これまで何回かした同じ質問は、すべて同じ答えを返されていた。だから、今日だけ違う答えが返ってくることはないはずだ。それに、食べると答えられても困る。


 それでも、何となく問いかけた結果、私は初めて「食べる」という言葉を耳にすることになった。


 裸足でスリッパを履き、仙台さんを従えてキッチンへ向かう。スーパーの袋の中から、カップラーメンを取り出してお湯を沸かす。


 対面キッチンの向こう側、カウンターに座る仙台さんの前に蓋を開けたカップラーメンを二つ置くと、彼女は不思議そうな顔をした。


「なにこれ?」

「カップラーメン。見てわからない? もしかして、お金持ちの仙台さんはカップラーメン見たことがないとか?」

「カップラーメン見たことがないくらいお金持ちだったら、今の高校じゃなくてごきげんようって挨拶するような学校に通ってるんじゃない?」


 呆れたように仙台さんは言うけれど、彼女の家は裕福だと聞いたことがある。


 ブランド品を身に付けているというわけではないが、品の良さそうなものを持ち歩いている。おそらく、夕飯にカップラーメンが出てくるなんてことはないはずだ。手作りの夕食を食べているに違いない。


 家族に愛されていそうな仙台さん。

 クラスメイトじゃなかったら、話をする機会すらなかっただろう仙台さん。


 ――吐き気がする。


 私は、二人分のお湯を沸かす電気ポットをじっと見る。


「それに、カップラーメンくらい食べたことあるし。あっ、もしかして宮城家って貧乏?」

「仙台さんに週に一、二回五千円払っても困らないくらいお小遣いもらってるけど、それが貧乏なら貧乏なのかもね」


 からかうように言った仙台さんに、素っ気なく答える。

 夕飯にカップラーメンを出すような家だけれど、それは我が家にお金がないからではない。金銭面で言えば、裕福と呼ばれる部類に入る。


「……貧乏じゃないか。で、夕飯これなの?」

「お弁当の方が良いなら、買ってくるけど。それとも、家に帰って食べる? 私はどっちでも良いけど」


 母親がいないから。

 そして、私に料理を作る才能がないから。


 夕飯がカップラーメンである理由は、その二つだけだ。


 それなりに料理ができる父親はいるけれど、仕事が忙しくて子どもが起きているような時間に帰ってくることはほとんどない。娘をそんな環境下に置いている罪悪感からか、父親は高校生に渡すにしては明らかに多すぎるお小遣いをくれる。


「これ食べてく」


 仙台さんがカップラーメンの蓋をいじりながら言い、電気ポットのお湯が沸く。


 容器の線までお湯を入れて。

 キッチンタイマーを三分にセットして。

 二人でラーメンを啜る。


 一人で食べても、二人で食べても、カップラーメンはカップラーメンで味は変わらない。それでも、一人で食べるよりはマシに感じる。


「ごちそうさま。遅くなったし、帰るね」

「うん」


 仙台さんとは、共通の話題がない。

 クラスで属するグループが違うし、趣味も違う。


 話すことがなければ黙って食べるしかなくて、カップラーメンなんてものはすぐに食べ終わる。だから、夕飯を一緒に食べたという実感がないまま、仙台さんは帰っていく。


「四巻、買ったら読ませてよ」


 部屋にブレザーとコートを取り戻ると、仙台さんが本棚を見ながら言った。


「今度来るときには読めると思う」

「じゃあ、来週かあ」


 もう来ない。

 今日したことを思い返すとそう言われても仕方がなかったけれど、彼女はまた私の部屋に来るつもりらしい。


 仙台さんは変な人だ。

 学校ではまともなのに。


 私の言うことを聞く彼女に失礼な感想を抱きつつ、ブレザーとコートを手渡す。


「送るね」


 いつものように二人で玄関を出てエレベーターで一階まで降り、エントランスまで歩く。


「じゃあ、またね」


 仙台さんが立ち止まらずに手を振る。


「バイバイ」


 私は、遠のいていく背中に声をかける。


 来年、三年生になってクラスが変わっても、仙台さんは五千円で買われてくれるのだろうか。


 私はそんなことを考えながら、エレベーターに乗り込んだ。

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