第2話

 舌先が足の甲を舐めたのは一度だけで、仙台さんがすぐに顔を上げて静かな声で尋ねてくる。


「もういい?」


 嫌なことがあった日は、仙台さんを好きにする。


 彼女とこういう関係になってから、そう決めている。

 そして、今日はその日で、だから私はまだ許さない。


「駄目」


 仙台さんに罪はないけれど、一回舐めたくらいで終わりにするのはつまらない。足を舐めるなんて馬鹿馬鹿しい命令を聞いてくれているのだ。ここまでするつもりはなかったけれど、従ってくれるならもっと楽しまなければ損だ。


「いつまで続けるつもり?」

「私の気が済むまで」

「ヘンタイ」


 仙台さんが眉間に皺を寄せ、低い声で言い捨てる。


 当然、楽しそうには見えないが、彼女を楽しませるためにしていることではないからどうでもいい。大事なことは、私が楽しいかどうかだ。


「仙台さんの役目は、変態の言うことを聞くことだから」


 にこりと笑って、床の上の彼女に告げる。

 ファンヒーターが暖かい空気を吐き出し続け、仙台さんが暑そうにネクタイをさらに緩める。ブレザーは、少し離れたところに脱ぎ捨ててある。ボタンが二つ外されたブラウスからは、鎖骨が見えた。


 仙台さんが、ふう、と小さく息を吐く。

 そして、犬か猫がするように私の足の甲を舐めた。


 べたりと触れる舌は濡れていて、熱くて、柔らかくて、なんだかイケナイことをしているような気持ちになる。


 ペットが私の足を舐めているのだったら、可愛いだろうと思う。でも、実際には舐めているのは人間で犬や猫ではない。


 仙台さんは雑誌に載っているモデルほどじゃないにしても、整った顔をしている。それでも人に足を舐められていると思うと、肌の表面を撫でるように這う舌先が少し気持ちが悪かった。


「宮城、楽しいの? これ」


 仙台さんが顔を上げる。


「まあ、それなりに」


 舐められている感触は面白いものではないけれど、仙台さんが私の足を舐めているというシチュエーションはかなり面白い。


 クラスの中でも目立つグループの人間で、先生にも可愛がられているあの仙台さんが私の足を舐めている。

 たいした取り柄もない平凡な私の言うことを聞いて、下僕みたいに足を舐めている。

 その事実は、私の精神を高揚させる。


「ふーん、楽しいんだ。じゃあ、気持ち良かったりする?」


 そう言って、仙台さんが親指の付け根辺りから足首に向けて舌を這わせる。彼女の体温が乗ったぬるりとした舌の感触に、手をきつく握る。胃がぎゅっと締め付けられて、奥歯を噛んだ。


「しない」


 短く答えて、仙台さんの前髪をつまむ。軽く引っ張ると、彼女が「やめて」と言って私の足首を強く掴んだ。


 少し長い爪が肌に食い込む。

 私は、人差し指で仙台さんの額をつついた。


「余計なことしないで」


 強い口調で告げると、「はーい」と気のない声が返ってくる。そして、足首を掴む手の力が抜けた。


 足の甲に舌が這う。

 躊躇うことなく、ゆっくりと、仙台さんが足の甲を舐め上げる。


 彼女が何を考えているのかはよくわからない。

 最初から、考えが読めない人だった。

 私なら他人の足を舐めるなんて絶対にしたくないことだけれど、彼女は文句を言いながらも足に舌を這わせている。


 お金が欲しいからだとは思えない。


 他に理由があるなら、何なんだろう。

 頭が良い人の考えなんて、想像するだけ無駄なのかもしれないけれど。


「仙台さんのこんな姿、友だちが見たらどう思うだろうね?」


 私は、仙台さんに問いかける。

 彼女の友だちは、私と交わることのないグループの人間だ。キラキラしていて、いつも楽しそうで、学校生活の良いところを全部集めて自分たちのものにしている。


「私の心配より、自分の心配をした方がいいと思うけど。この状況見たら、宮城のこと最低の変態だって言う以外にある?」


 仙台さんが顔を上げて、冷たく言い放った。

 こんなこと学校でバラされたら、最底辺へ真っ逆さまに落ちていく。今あるそれなりに普通の生活は確実になくなる。


 けれど、それは仙台さんだって同じだ。冴えない私のような人間の足を舐めていたなんて知られたら、今と同じ地位にはいられないだろう。


 だから、最低の変態だってかまわない。

 どうせ、仙台さんだって最低の変態の仲間だ。


「大丈夫。ここでしてること学校で話すのは契約違反だから、言わない」


 最初に決めたいくつかのルール。


 五千円を払って仙台さんを好きにするための決まり事はいくつかあって、その中には放課後にあったことは誰にも話さないというものがある。


 だから、これはみんなが見ることのない秘密の遊びで、私はもちろん仙台さんも誰かに言うはずがない遊びだ。


「それよりさ、お喋りはいいからちゃんと舐めてよ」


 私は足の甲を使って、仙台さんの顎をくいっと上げた。


 彼女が目を細める。

 何か言いたげに、鋭い視線で私を見る。

 五千円を払うようになってから、仙台さんがこういう目をしたことは一度もない。


 私は、反抗的な彼女にぞくぞくする。

 仙台さんの言うことを聞くつもりはないけれど、喋る権利くらいは与えてあげようと思う。


「言いたいことがあるなら、一つだけ聞いてあげる」


 私は足の甲で顎を支えたまま、彼女を見た。

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