宮城の向こう側

第311話

 びっくりした。

 宮城が予想外過ぎる。

 私は青い空でも白と黒のペンギンでもなく、宮城の黒い髪を見る。


 後ろじゃなくて隣に立てば良かった。


 小さくはない後悔とともに肩に置いた手をほんの少し動かして、髪の先に触れる。


 あのままずっと私を見ていてほしかった。

 そう思う。


 でも、この場所ではペンギンを見てほしかった。

 そう思っている。


 宮城が私とペンギンを同時に視界に入れてくれれば、私の想いを両立させることはできるだろうけれど、人の意識はどちらかに傾く。私かペンギンのどちらかに意識が向くはずで、二つのものを平等に扱うなんてできない。


 だから、選んだ。


 視線を上げてペンギンを見る。

 可愛いけれど、宮城の視線を独占していると思うと腹立たしくもある。


 私が選んだことだが、せっかく私に向いていた視線をペンギンに渡したくはなかった。


 できることなら、ずっと私だけを見ていてほしかったと思う。ほかは見なくていい。私は宮城だけのものなのだから、宮城は自分のものがどこでなにをしているのかしっかりと見て把握しておくべきだ。


 そう思うのに、ペンギンに視線を譲ったのには理由がある。


 去年の夏休み。

 空飛ぶペンギンを見て笑っていた宮城がもう一度見たい。


 その想いを叶えたくて、この場所にやってきた。


 ――叶わなかったな。


 今の私からは宮城の顔が見えない。

 でも、宮城にはあのときのようにペンギンを見て笑ってほしいから今は私を見なくてもいい。私の前では不機嫌な顔しかしない宮城に笑顔が増えればいいと思っている。


 いつかペンギンがいなくても笑って、この場所じゃなくても笑って、そして、私の前で私を見て笑ってほしい。


 宮城の肩に置いた手に少し力を入れる。

 ペンギンから視線を移して、黒い髪を見る。


 こういうとき、宮城を抱きしめられたらいいのにと思う。


 たぶん、きっと、笑っているはずの彼女を体全部で感じることができたら、視線をペンギンに譲った後悔が消えそうな気がする。


 こんな場所で宮城がそれを許すわけがないけれど。


 私は宮城の体温を感じている手を離す。

 せめて、今日の宮城を、残しておきたい。


 それはほんの数秒でいい。


 私はスマホを取りだし、三歩下がる。

 そして、ペンギンから宮城の視線を奪う声を出す。


「宮城」


 なに、という声とともに宮城が振り向く。

 カシャリ、とスマホで宮城の写真を一枚撮る。


 笑顔ではない。

 でも、いつもよりも表情が柔らかい。

 少し、ではあるけれど、どこにいるときよりも楽しそうに見える。


「宮城」


 続く言葉があるわけではないけれど、彼女の名前を口にしたくなった。


 宮城はなにも言わない。


 さっきと同じように、私をじっと見つめてくる。

 さっきと同じように、私の心臓がどくどくとうるさい。


 宮城に見つめられているだけでここがどこかわからなくなって、彼女のことしか考えられなくなる。全部投げ出して、宮城に触れたくなる。


 高校生だった私を縛っていたペンダントを服の上から掴む。


 私はあの頃よりももっと、もっと、もっと宮城に縛られている。

 宮城のものだとわかるペンダントをつけていても足りないくらい彼女を必要としている。


 どうにかなってしまいそうで、もう一枚宮城の写真を撮る。

 宮城はなにも言わない。

 写真を撮ると不機嫌になる彼女が怒りもしない。


「仙台さん、ペンギン見てよ」


 棘のない声が聞こえてくる。


「見てる」


 正しくもなければ正しくしようとも思わない言葉が口から出る。私にとってペンギンはおまけだ。ペンギンを見るのは私ではなく宮城で、私はその宮城を見るためにここにいる。


「じゃあ、写真撮って」


 宮城の声に体が勝手に動く。

 シャッターを切って、宮城をスマホに閉じ込める。


「違う。ペンギンの写真」


 少し低い声が聞こえてくる。


「なんのために?」


 もう一度シャッターを切る。

 さっき撮った写真に比べると不機嫌そうに見えるけれど、可愛い。


 編んだり、結んだり、髪型も変えれば良かった。今のままでも可愛いけれど、宇都宮が選んだかもしれないスカートに似合う髪型があったはずだ。そもそも宮城は私にスカートを選ばせるべきだった。


「あとからペンギン見たいから写真撮って」


 宮城が私を見たまま答える。


「見るなら今ここで見なよ」

「……もういい。あっちのペンギン見る」


 そう言うと、彼女は私を見ずに歩きだす。

 考えるまでもなく“あっちのペンギン”というのは草原を模した場所いるペンギンのことで、私は宮城の後を追って彼女の隣を歩く。


 会話はない。

 黙って歩く。


 目的の場所はそれほど遠くないからすぐに着いて、宮城の視線がペンギンに向かう。私に視線を奪うチャンスは訪れない。


「写真もっと撮ってもいい?」


 私を見ない宮城の隣に立って問いかける。


「……写真ってなんの?」

「宮城の」

「さっきも言ったけど、ペンギン撮って。あとで写真見たいし」

「自分で撮らないの?」

「……撮る」


 そう言うと、宮城が鞄の中からスマホを出して、何故か私に向ける。けれど、写真は撮らずに眉間に皺を寄せた。


「仙台さんが撮ったペンギンも見たいし、仙台さんもペンギン撮ってよ」

「わかった」


 撮りたいものは宮城だけれど、写真を見たいと言われたら従わないわけにはいかない。私は仕方なくスマホをペンギンに向ける。


 カシャリ。


 私が写真を撮る前にシャッター音が聞こえてくる。


 音のほうを見ると、宮城のスマホは下を向いていた。


 彼女がなにを撮ったのかはわからない。

 地面を撮りたいわけではないだろうからスマホに収められたのはペンギンだとは思うが、私だったらいいのにと思う。


「仙台さん、ちゃんと写真撮って」


 不機嫌な声に指示され、私はスマホをペンギンに向け直す。


 見たいもの、撮りたいものは隣にいる。


 今、私が求められていることはペンギンに視線を向け、ペンギンの写真を撮ることだから、宮城を見ることも撮ることもできない。


 それは私にとって不満でしかないことだけれど、こんなことを不満に思うようになる日が来るとは考えていなかった。


 宮城がいる大学生活を思い描いていた高校三年生だった私は、そうなればいいのにと思いながらもそういう未来が来ることを信じられずにいた。


 あれから時を経て、宮城が隣にいる。


 それだけで幸せを感じられる私だったらいいのに、その先を望まずにはいられない。


「宮城、耳介の話覚えてる? アシカとアザラシの話」


 私は宮城のほうを向きたがる体を機械的に動かして、ペンギンをスマホに収めていく。


「覚えてる。アシカとアザラシの耳の話でしょ」

「そう」


 私たちはこの水族館へ来た日、家でアシカとアザラシの違いの一つである“耳介という耳たぶのようなもの”の話を二人でした。


「耳介見に行こうよ」


 写真を撮る手を止めて宮城を見る。


「動物園で見たじゃん」


 確かに彼女の言う通り動物園でアシカに耳のようなものがあることを確認したけれど、耳介は一度しか見てはいけないものというわけではない。


「水族館でも見ようよ」


 返事を待たずに宮城の腕を引っ張る。

 時間はまだある。


 私は楽しそうな宮城をスマホの容量が足りなくなるくらい撮りたい。だから、彼女が「ペンギンを見たから帰る」なんて言いださないように歩きだした。

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