第71話

 宮城の部屋に入って、ブラウスのボタンを一つ外す。

 微妙な空気は相変わらずだけれど、慣れてきた。


 五千円を受け取って定位置に座ると、宮城が麦茶とサイダーが入ったグラスを持ってきてテーブルの上に置く。そして、少し迷ってから私の隣に座った。今までに比べると少し距離があるけれど、夏休みが終わってから初めて埋まった片側にほっとする。


 何もかも元通りとはいかないが、元通りに近づいてきている。


 上手くいかないこともあるけれど、それは仕方がない。形だけでも夏休み前と同じようにしていれば、そのうち気持ちもそれに従うはずだ。


 宮城がなにも言わずに教科書とプリントをテーブルの上に広げる。やる気があるのかないのかはわからないけれど、大人しくプリントを埋めていく。

 私も教科書とノートを開いて、宿題を始める。


 昨日、宮城に言った「私と同じ大学受けなよ」という言葉は無責任な言葉だ。行けるわけがないという宮城にそんなことはないと告げたが、今のままでは難しいと思う。


 夏休みに入ってから、二人で勉強をした。

 宮城が私に「わからないから教えて」という回数は確実に減っている。それでも、合格ラインに届くとは思えない。


 ただ、今からでも真面目にやれば受かるかもしれない。それには本人のやる気が必要で、私は宮城が同じ大学へ行くと言うなら勉強を教えるつもりはある。けれど、強制はできない。


 同じ大学に行ったからといって、なにかあるわけじゃない。

 終わりの日は決まっていて、私もそれに同意している。


 なんとなく同じ大学に宮城がいれば、楽しそうだと思っただけだ。


「仙台さん」


 宮城の声が聞こえて、私は顔を上げる。


「わかんないところあった?」

「そうじゃなくて。今日のあれ、なに」


 やっぱりね。


 宮城が二日連続で私を呼び出した理由。

 それがなにかは予想していたが、なにもわからない振りをする。


「あれって?」

「廊下で手、掴んできたじゃん」

「宮城の落とし物拾おうとしただけだけど」

「手首掴んだりする必要ないよね?」

「ちょっと手が当たっただけでしょ、あんなの」

「あれ、当たったって言わないと思う」


 面倒だ。

 口にしたくないことを追求されても困る。

 それに、本当のことを言ったら宮城だって困るはずだ。


 宮城を友だちに返したくなかったなんて思ったことは、お互いのために黙っておくほうがいい。


「……なんて答えさせたいの? 宮城が言ってほしいこと言ってあげるから、言いなよ」


 私は平和的解決に向けた提案をする。


 口にしてほしい言葉があるなら、それを言って終わりにしたいと思う。この話を長引かせてもお互いが満足する結果にはならないのだから、適当でもなんでも早く終わらせた方がいい。


 けれど、宮城がこんな答えで満足しないことも知っている。


「そういうことしてほしいんじゃない」

「じゃあ、なに」

「掴んだ理由教えてよ」

「宮城に触りたかったから、触っただけ」


 掴んだ理由の一端を口にする。


「なにそれ。ちゃんと答えて」

「答えた」

「じゃあ、触りたかった理由ってなに?」


 そういうことは聞かない方がいい。

 その方が平和な時間を過ごせる。


「宮城さ、私が答えないってわかってて聞いてるよね?」


 矢継ぎ早にされる質問を途切れさせるために尋ねるが、返事はない。私は仕方なく次の台詞を口にする。


「理由がなくても、触りたくなることくらいあるでしょ」


 そう言って、宮城に手を伸ばす。

 いつもよりは少し離れているけれど、隣にいる宮城にはすぐに手が届く。頬に触れて、手のひらを押しつける。宮城の顔が不機嫌そうに歪んだけれど、手は離さない。


 くっついた部分から流れ込んでくる体温が心地良くて、頬から手を滑らせて首筋に触れる。


 今、これ以上のことをしたいわけではないが、私の宮城への感情は不純だと思う。


「理由もなく触りたくなったりなんてしない」

「そう言うなら、宮城は私に触るときってなにか理由があるんだよね?」

「それは――」


 宮城が言葉に詰まる。そして、続きを口にするかわりに私の手を剥いだ。


「仙台さん、わけわかんない。学校でもここでも、変なことばっかりする」


 宮城が低い声で言って、視線を落とす。


「私もわけわかんないから。――宮城、早く今日の命令しなよ」


 このまま何事もなくいられる自信がない。私は、宮城の前では理性を止めているネジが役に立たないことを知っている。


 いつもと同じ形を整えてはいるけれど、私たちはまだ元の形に戻ることができていない。形は、ちょっとした刺激で簡単に崩れてしまう。


 このままなにかが起こってしまうよりは、命令された方がいい。宮城は当たり障りのない命令しかしないはずだから、今よりはマシな状態になる。


「じゃあ、ピアス開けさせて」


 視線を上げずに宮城が口にした“ピアス”という単語はあまりにも予想外のもので、思わず聞き返す。


「ピアス?」

「そう。仙台さんの耳にピアス開ける」


 昨日、耳を触った仕返しなのか、宮城が顔を上げて私の耳たぶを引っ張る。


「絶対に嫌だ」


 宮城に向かって断言する。

 ピアスのように後に残るものは困る。


 宮城はすぐに跡をつけたがるし、実際に私に跡をつけてきた。今まではそれを許してきたけれど、それはその跡がすぐに消えるものだからだ。


 でも、ピアスは違う。

 今までと同じように受け入れるわけにはいかない。


「なんで駄目なの?」

「校則違反だから」


 遠慮するつもりのない手がふにふにと耳を触り続けていて、私は宮城の腕を掴む。そのまま強く引っ張ると耳たぶをつまんでいた指が素直に離れて、声が未練がましいものに変わる。


「仙台さん、スカート短いし、髪も染めてるし、もう違反してるじゃん」

「これくらいは許容範囲内でしょ」

「仙台さんって、いつもそうだよね」

「そうだよねって?」

「勝手にルール作って、それが当たり前みたいな顔する」

「いいじゃん、ルールくらい作ったって。それに、スカートも髪も先生に怒られないんだから、違反ってほどじゃないってことでしょ」


 校則はそれほど厳密ではない。

 文字ではきっちりと決まっているが、その校則を運用する先生は文字ほどきっちりしていない。大体守っていれば怒られることはないし、校則を守っていると見なされる。


 私はその“大体の範囲”に収まるように行動するというルールを作って、それを守っているだけだ。


「そういうのずるい」

「ずるいと思うなら、宮城もやればいい。もう少しスカート短い方が可愛いよ」


 宮城の中途半端な丈のスカートを掴んで少しだけ引っ張ると、怒られない範囲の短さを作る前に手の甲を叩かれた。


「いい、この長さで。そんなことより、今度でいいからピアス開けさせてよ」

「他の命令にしなよ。そういうのルール違反だから」


 きっぱりと言い切る。

 けれど、宮城は諦めそうにない顔をしていた。

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