第72話

 納得できない。


 そうはっきりとは言わないが、そういう類いの言葉しか口にしない宮城はピアスを開けさせるという命令にこだわりがあるらしい。けれど、どれだけこだわられても返事は同じだ。大抵の命令は受け入れている私でも、受け入れられないものもある。


「絶対に開けさせないからね」


 念を押すように告げる。


「ピアスのどこがルール違反なの?」

「体にずっと残るような傷を作るのはルール違反でしょ。暴力の類似行為。っていうか、どんなピアスつけさせようとしてるわけ? 見せてよ」


 宮城の命令を受け入れるつもりはないが、彼女がどんなピアスを用意したのかは気になる。だが、宮城はピアスを出してくることなく、さっきよりも小さな声で言った。


「まだ用意してないけど、開けていいなら買ってくる」

「買って来なくていいし、私の耳にピアス開ける理由もわかんない」

「……先生が怒るか実験したいだけ。仙台さんもたまには注意された方がいいと思う」


 宮城が嘘か本当かわからない理由をぼそぼそと口にするが、それはあまり面白いものではない。どっちにしても、文句を言わずにはいられない理由だ。


「人で実験しようとしないでよ。もう少しマシな理由考えて」

「マシな理由があったらいいの?」

「よくない」


 宮城の本音がどこにあるのかはわからないが、ピアスを開けさせろというのは重すぎる命令だと思う。


 この先、違う大学に行って、宮城と会うことがなくなってもずっと体に残り続けるようなものはいらない。私だけ二人で過ごした時間を体に刻まれるなんて御免だ。


「じゃあ、ちょっと動かないで」


 宮城が嫌な予感しかしない言葉を口にする。


「なにするつもり?」


 返事はない。

 代わりに手が伸びてくる。

 けれど、その手は耳に触れることなく、肩の上に着地する。


 宮城が私に痕跡を残したがるのは意図的なことなのか。


 目の前にいるのに、彼女がなにを考えているのかよくわからない。この部屋に来たばかりの頃よりも会話の量は増えてはいるけれど、本心はわからないことが多い。


 用意しているわけでもないピアスをつけさせたいと思う気持ちが、衝動的なものなのか、それともやっと言い出せたものなのか私には判断がつかなかった。


 上辺だけの会話で、お互いの気持ちを近づけることは酷く難しいことに思える。けれど、体の距離をゼロにするのは簡単で、宮城が私の耳に唇をつけた。


 黒い髪が揺れて、シャンプーの柔らかな香りがする。


 過去に何度も触れている唇は、すんなりと体に馴染む。誰よりも近くに宮城がいることが当たり前のことように思えてくるけれど、それを受け入れるべきではないと思う理性は残っていた。


「ちょっと、宮城」


 肩を押す。

 触れ合っている部分から熱が離れて、耳元で声が聞こえる。


「仙台さんピアス開けさせてくれないから、これが代わり」


 近すぎる声に宮城の肩を押す手がびくりと震える。

 吐き出す息が耳を撫でるようでくすぐったい。


「大人しくしててくれればいいよ。傷になるようなことじゃないし、簡単な命令でしょ」


 スナック菓子のように軽い声が聞こえて、湿ったものが耳を撫でた。


 すぐにそれが舌だとわかる。


 ぴたりと押しつけられるそれは生暖かく、動くとぞわりとして落ち着かない気分になる。でも、こんなことは過去にもあった。理性に従わなければと思う反面、これくらいの命令は断るほどのものじゃないと納得しようとしている自分がいる。


 命令通り大人しくしていると、耳たぶに硬い物が当たる。


 たぶん、それは歯で、こういうときはろくな事が起こらない。


「宮城、離れて」


 過去の経験が宮城の肩を押させる。

 でも、宮城は動かない。歯が耳たぶを挟み、強く噛んでくる。


「それ、痛い」


 言葉とともに肩を叩くと、耳たぶに歯が刺さる。


 ギリギリと力一杯噛まれる。

 耳が痛いなんて経験はこれまでした覚えがないけれど、今日という日が記憶に刻まれるほど痛い。


 いや、痛いというよりは熱い。

 吹きかかる息も、シャンプーの匂いもわからなくなる。


「痛いってばっ」


 バンッと宮城の体を叩くと、ビクッと彼女の体が震えた。

 簡単に近づいた距離は簡単に離れる。


「宮城、本気で噛みすぎ。こんなのピアス開けるより酷いじゃん。穴どころか、耳がちぎれるでしょ」

「そんなに噛んでない」


 ピアスを開けたことはないが、きっとこんなには痛くないはずだ。宮城はそれくらい私の耳に歯を立てていた。彼女のこの衝動がどこからくるのか私にはわからない。


「噛んでる。傷になるようなことしないなんて嘘でしょ、こんなの。ほんと、宮城って馬鹿じゃないの」


 傷ができていそうで、耳たぶを触って指先を見る。


 血はついていない。

 でも、信じられない。


 どこからか血が出ているような気がしてテーブルの下に置かれているティッシュを取ろうとすると、ワニのカバーが付いたそれが消える。


「それ、持ってかないでよ」


 私は、ワニを抱えた宮城に文句をぶつける。


「傷になってないから」


 宮城は言い訳のように言うと、ティッシュの箱をテーブルの上へ置いた。


 命令に従わなかった私の態度が気に入らない。


 そういうことだろうと思う。

 ただ、宮城は変わった。


 こういうとき、昔は私が嫌がることをして面白がっているようにしか見えなかったが、今は違う。楽しさの欠片も感じられない顔をしている。もっと言えば、不安そうに見える。


 自分から酷いことをしておいて勝手すぎる。

 自業自得だし、私が譲歩する必要はない。


「そういう顔しても駄目だから」


 私はテーブルの上に鎮座するワニからティッシュを取って、耳を拭う。

 薄っぺらい紙は白いままで、血はついていない。


「いつもと変わらないと思うけど」


 宮城がいつもとは違う顔で言ってワニを奪おうとするから、その手を叩く。


「鏡見れば」

「見ない」


 宮城の表情がさらに曇る。置き去りにされた子犬か子猫のように心細そうに見えて、私の方がなにか悪いことをしたような気分になってくる。


「――痛いのはなしだからね」


 宮城の行為を許容するような言葉が零れ出る。


 今の私たちはこういう行為をするべきではないけれど、少しくらいならいい。


 そんな風に思いかけているのは、私の意思ではなく宮城のせいだ。全部、宮城が頼りない顔をしているのが悪い。


「いいの?」

「命令でしょ」


 宮城のブラウスを引っ張って、命令に従う意思を伝える。


 そう、命令だから仕方がない。


 ルールの範囲内であれば、私には拒否する権利はないのだ。だから、宮城を受け入れるしかない。


「じゃあ、大人しくしてて」


 さっき聞いた言葉がもう一度聞こえ、体温が近づく。


 躊躇うように生暖かいものが耳に触れ、噛まれた後に残る痛みを舐め取るように這う。歯が触れた部分以上に舌先が押しつけられていく。離れては触れるそれに嫌悪感はない。


 歯が耳たぶに当たる。

 痛みが蘇って思わず宮城の腕を掴む。


 けれど、強く噛まれることはなく、今度は柔らかく噛まれた。どれくらいの強さなら許されるのか試すように、硬い物が耳を挟む。痛みを与えないことに心を砕いているとわかる歯が、緩く優しく触れる。


 与えられる刺激は小さなもののはずなのに、そこばかりに気持ちがいく。耳に神経が集まっていることがわかって、落ち着かない。


 宮城の呼吸を耳元に感じる。

 息を吐く音が近すぎて、胸がざわざわとする。

 そのくせ、宮城が手の届く範囲にいると安心する。


 でも、やり過ぎだ。

 与えられる刺激は、今の私たちに相応しくないものだ。


 宮城は極端すぎる。

 痛くなければなんでもいいわけではなく、私は彼女の額を押して体から遠ざける。


「ちょっと、宮城。痛くないけど、ヤバいから」

「それって」


 宮城が言いかけてやめる。そして、珍しく素直に「ごめん」と謝った。


 私は小さく息を吸ってゆっくりと吐いてから、ワニを二人の間に置く。そして、背中からティッシュを引き出して、宮城の痕跡を消すように耳を拭った。


「仙台さんって、今みたいなときどんな感じなの?」


 宮城がワニの頭を撫でながら言う。

 言いかけた言葉を飲み込んだくせにその意味をなくすような台詞を口にするから、ため息が出そうになる。


「自分で体験してみれば?」


 私は無責任な宮城の耳に手を伸ばす。けれど、大げさなくらい体を引かれて、伸ばした手が耳に触れることはなかった。


「冗談だから」


 軽く言って、笑ってみせる。

 ただでさえ近い距離をこれ以上縮めても気まずくなるだけだ。


 口から出てしまった余計な言葉は、冗談にくるんで捨ててしまえばいい。

 けれど、宮城がやけに真剣な声で言った。


「――ピアス開けさせてくれるなら、いいよ」


 いいよというのは、宮城に同じことをしてもいいということで、思わず彼女をじっと見る。


 耳に穴を開けるという犠牲を払えば、同じことができる。


 それは酷く魅力的な言葉に聞こえて、一瞬迷う。そして、迷った自分に嫌気がさす。


「馬鹿じゃないの。そんなことより、羽美奈が私と宮城が一緒にいるところ見たって」


 危うい会話を打ち切って話を変えると、宮城の意識が羽美奈という単語に向かった。


「それっていつ?」

「映画見に行った日。羽美奈もあそこにいたみたい。偶然会ったって言っといたけど」

「信じてた?」

「たぶん。まあ、私は信じてなくてもかまわないけど」

「私だって仙台さんと出かけることなんてもうないし、関係ない」


 宮城が冷たく言って、ワニの頭を叩く。

 私は不機嫌そうな彼女を見ながら、ベッドに寄りかかった。


「ほんとはまた出かけたいと思ってるでしょ」


 わざとらしく言うと、即座に答えが返ってくる。


「仙台さんと出かけることはもうないから」


 こういうとき、宮城は潮が引くようにさっと引く。あまりに潔く引くから怖くなる。誰にでもそうなのか、私にだけそうなのかわからないから、それ以上なにも言えなくなる。


 近づきたくなったら人の気持ちなんてお構いなしに近づいてきて、気がすんだら私を遠ざけるのは酷いと思う。


「二人で行くところもないしね」


 言いたいことはこんなことではないけれど、他に言葉は見つからない。私はため息を一つついてから、宮城にワニを投げつけた。

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