宮城のものと私のもの

第305話

「それ、私の――」


 家に帰ってきて「ただいま」を言うより先に、口にすることではないと思う。


 でも、共用スペースに入ってすぐに目に飛び込んできた光景が、それを言わせるようなものだったのだから仕方がない。


「なに?」


 平坦な声で言った宮城の前には、カップラーメンと箸置きが置いてある。


 私にプリンを一緒に食べるから早く帰るようにと命じておきながらカップラーメンを食べているのはどうかと思うが、宮城がカップラーメンを食べていること自体はそれほど珍しいものではない。


 問題は箸置きだ。


 彼女は今、三毛猫の箸置きを使っている。

 それは私の箸置きで、宮城のものではない。


「なにって……」


 使っている箸置きが私のものだと指摘するか迷う。言えば、絶対に機嫌が悪くなる。でも、聞きたい。


「箸置き、壊れたの?」


 当たり障りがなさそうな言い回しに変えて、宮城の目の前にあるものについて言及すると、彼女の視線がそれに向かった。


「箸置きって、壊れるようなものじゃないじゃん」


 宮城が眉間に皺を寄せながら言う。


「そうだけど」

「これ食べ終わったし、今から片付ける。仙台さん座ってて。あと、おかえり」

「ただいま。これからプリン食べるんでしょ。あとからまとめて洗えば?」

「今、洗う」


 箸置きが宮城のものである黒猫ではなく、私のものである三毛猫だった理由は明かされない。それどころか宮城は椅子をガタガタと鳴らして立ち上がり、食べ終わったカップラーメン、使った箸、箸置きを片付けていく。


「仙台さん、そこに座っててって言ったじゃん」


 せかせかと動き回る宮城を立ったまま見つめていると、乱暴に言われる。逆らうことに意味はないから、私は言われた通りに椅子に腰掛ける。


 水道から水が流れ出る音が聞こえてくる。


 三毛猫の箸置きをあえて使っていたのか、偶然使っただけなのかはわからない。


 でも、宮城にとっては決まりが悪いことなのか、箸と箸置きを洗うなんてすぐに終わることをゆっくりと時間をかけてしていて、私のほうを向いてくれない。


 少しは変わったのかな。


 ルームメイトではなくなった宮城の態度にそんなことを思う。


 カップラーメンを食べていた宮城はいつもと変わらなかった。

 でも、箸置きは変わっていた。


 ほんの少しの変化でも、宮城の中でなにかが変わっているのなら嬉しい。


 宮城は、これからも私のものを当たり前のように使えばいいと思う。私のものを使って、私のものがほしくなって、私のこともほしくなればいい。


「プリンの用意しようか?」


 いつまでもシンクに向かい続けている宮城に問いかける。


「まだいい」

「いつまでそこにいるの?」


 三毛猫の箸置きを使って、私のほうを向こうとしない彼女がどういう顔をしているのか見たいと思う。


「今、行く」


 不機嫌な声の後、すぐに水が流れ出る音が止まる。けれど、宮城は私を見ない。


「……昨日付けた跡のこと、澪さんに言ったってほんと?」


 小さな声が聞こえてくる。

 なにを言われているのかはすぐにわかって、「ほんと」と答える。


 昨日、宮城が私につけた跡は目立たないように隠したけれど、完璧に隠せたわけではなかったから、澪に見つかったことに驚きはなかったし、見つけられたいとも思っていた。


 だから、首筋に残る跡について聞いてきた澪に「宮城につけられた」と答えた。


「澪さん、本当に信じなかったんだよね?」

「信じなかったよ。彼氏を見せろって言われた」


 妥当ではあると思う。

 澪ならそう言うと思ったし、宮城だと言ったことは私が誤魔化そうとしただけだと思われてもおかしくはない。


「……彼氏、見せるの?」

「いないものは見せられないし。澪にもいないって言っておいたけど」

「澪さん信じた?」

「信じてなかった」


 澪は、私に彼氏がいると決めつけている。

 おかげでかなり面倒なことになっているけれど、跡をつけたのは宮城だと信じられても面倒なことになっていた。


 本当ならたとえ冗談であったとしても「宮城につけられた」なんて澪に言うべきではなかったし、彼氏がいると誤魔化しておけば良かったのだと思う。誰かに彼氏の振りをしてもらえば、それで丸く収まった。


 でも、嘘であっても「彼氏につけられた」なんて言いたくはなかったし、彼氏役を引き受けてくれそうな人を探して頼むなんてことはもっとしたくなかったのだから仕方がない。


「家庭教師の生徒には?」

「バレてなかった。……と思う。もし、バレても宮城だってことはバレないから大丈夫」

「なら、いい」

「いいって声じゃないけど」


 こっちを向いてくれないから、宮城がどんな表情をしているのかわからない。だが、声は不機嫌極まりないもので、なにか不満があるとしか言えないものだった。


「……私がつけた跡なのに、ほかの人がつけたみたいに思われるのもむかつく」


 宮城はやっぱり私を見ない。洗い物は終わっていて、ただそこに立っているだけなのに、顔を見せてくれない。


 どういう顔をして宮城がこんなことを言っているのか、知りたいと思う。


 私は立ち上がり、宮城に近づく。


「生徒にはバレてないはずだからわざわざ言わないけど、澪に言ってもいいなら跡をつけたのは宮城だってもう一度言うけど」


 そう言って洋服を引っ張ると、宮城が私を見た。


「言っても信じないから、言うんでしょ」


 単調な声が聞こえてくる。

 私たちの変化は微妙で、ルームメイトではなくなったというだけだ。それでも変化はしているから、昨日は許されなかったことが今日は許されるかもしれないと期待している。


 私は、今の宮城にどこまで踏み込めるのか知りたいと思う。


「……澪に信じてもらう努力をしようかな」


 どういう理由でもかまわないのであれば、私の首筋にある跡が“宮城のもの”であると知ってもらうことはできると思う。


 たとえば、宮城が寝ぼけて噛みついてきた。


 馬鹿馬鹿しいけれど、そういうことがあったと信じさせることができれば、首筋にある跡が澪の中でも“宮城のもの”になる。


「変な努力しなくていい」


 澪に“宮城のもの”と知ってもらうための努力は、あえなく却下される。

 仕方がないと思う。

 宮城というのはそういう人間だ。


「それより仙台さん」


 話を変えるように宮城が言い、椅子に座る。だから、私も大人しく宮城の向かい側に座ると、彼女は「罰ゲームだから」と言って私の足を蹴った。


「なんで? 早く帰ってきたじゃん」


 帰ってくる時間がいつも通りだったら罰ゲーム。


 朝、早く帰ってきてと言った宮城からそういう条件を出されたから、今日の私はいつもより確実に早く帰ってきた。いつもと変わらないと言われても文句があるくらいの時間で、遅いというのは言いがかりでしかない。


「遅かった。仙台さんなかなか帰って来なかったから、お腹空いてカップラーメン食べたくらいだし」

「今日、ダッシュで帰ってきたんだけど」

「でも、遅かった」


 罰ゲームでさせたいことがあるのか、宮城は譲ろうとしない。けれど、急いで帰ってこなければならない理由があったから、私も譲れない。


 宮城が早いと思う時間に私が帰ってきたら、宮城が私のいうこときく。


 そういう約束があって、私はそれを守ってもらいたいと思っている。


「じゃあ、じゃんけんで決めようよ」

「なにを?」


 宮城が怪訝な顔をする。


「私が早く帰ってきたかどうかの判定」


 遅い、早いの判定は宮城がする。

 それは宮城の気持ち次第ということで、私がどれだけ早く帰ってきても遅いと言われることはわかっていた。でも、“遅い”という判定を覆せないわけではない。


「私が勝ったら、時間より早かったってことにしてよ」


 彼女が納得するような条件を出せばいい。


 じゃんけんなら偶然の要素があるから、勝てば納得してくれるはずだと思う。それに私がしてもらいたいことは、宮城が嫌がるようなことではない。


「やだ」


 短く、はっきりとした声が返って来る。


「宮城。私、グー出すから」

「え?」

「行くよ。じゃんけんっ」


 勢いで押し切って「ぽんっ」と続けると、宮城がパーを出す。私の手ははさみの形になっていて、勝負が付く。


「仙台さん、なんでチョキ出すの。嘘つきじゃん」

「嘘じゃないよ。グーだそうと思ったらチョキになっただけ」

「ずるい」

「ずるくても勝ちは勝ち。それに本当に早く帰ってきたんだから納得しなよ」


 そう言って宮城の足に足先をぶつけると、不満そうな声が聞こえてくる。


「……私にさせたいことってなに?」

「今月の最後の日曜日、私にちょうだい。計画は私が立てるから、一緒にペンギン見に行こうよ。この前、いつかって言って行く日を決めなかったけど、やっぱりちゃんと決めておこうと思ってさ」


 にこりと笑って宮城を見るが、彼女は難しい顔をして私を見ているだけでなにも言わない。


 風邪で延期になっていた“ペンギンを見に行く”という約束を忘れられているとは思わないし、断られるとは思っていないけれど、「行く」の一言がないと不安になる。私は断られることがないように「約束だし、行こうよ」と付け加える。


「……行く」


 ぼそりと宮城が言う。


 ルームメイトではなくなったのだから、ルームメイトのときにした古い約束を新しいものにする。


 今日は、そういう約束をしたかった。

 愛想をどこかに置き忘れてきている宮城は、にこりともしない。でも、そういう彼女とペンギンを見に行きたかった。


「じゃあ、プリン食べよっか」


 私は立ち上がり、冷蔵庫へ向かった。

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