第306話
「やっぱり気になる」
隣から澪のそれなりに大きな声が視線と一緒に飛んできて、首筋に突き刺さる。
宮城が私に跡を付けてから一週間と少し。
首筋から跡は消え去り、私はいつもの私に戻っているのに澪の記憶は薄れない。
「なにが?」
ざわざわと落ち着きのない講義室で澪にだけ聞こえるように尋ねると、今度は私に合わせてボリュームを落とした声が聞こえてきた。
「葉月の首筋に跡をつけた人」
「宮城だって言ったでしょ」
事実を述べて、机の上のペンケースを指先で弾く。それは宮城からクリスマスにもらったもので、宮城のような黒猫がペンケースの端っこでくつろいでいるから意味もなく触りたくなる。
大学にいても、家庭教師をしていても、その衝動は止めることができない。
「それ信じるの無理じゃない?」
「無理だと思うなら、諦めなよ」
私は事実を告げているし、ほかの誰かの名前を口にするつもりもない。でも、澪は私の言葉を信じようとしないのだから、この話を何度しても無駄だと思う。彼女の疑問が解決されることはない。
私は今日もそのことに安堵しながら落胆している。
「じゃあさ」
諦めなよ、という私の言葉を講義室のざわめきに流して澪が言う。彼女は往生際が悪い。良いことを思いついた子どものような瞳で私を見てくるせいで、嫌な予感しかしない。
「葉月の家に行っていい?」
案の定、澪がろくでもないことを口にする。
「唐突過ぎない?」
「そりゃあ、こんなものは突然言うものだし、普通でしょ」
「まあ、そうかもしれないけど、今日結構忙しいんだよね」
「葉月が忙しいのはいつもじゃん。今日じゃなくていいから、志緒理ちゃんに遊びに行っていいか聞いといて。志緒理ちゃんと会いたいしさ」
私の手が“志緒理ちゃん”に反応して、勝手に青いピアスに触れる。
「わざわざ宮城に会いに来なくてもいいでしょ」
耳たぶを引っ張りながら、なんでもないことのように言う。
宮城に澪が遊びに来たいと言っていると伝えれば不機嫌になるだろうし、そんなことがなくても私は彼女に澪を会わせたくない。
大体、澪は宮城に聞かなくてもいいことを聞きそうで、家に入れたくない。
「志緒理ちゃんなら、葉月に跡をつけた相手知ってそうだから聞く」
予想通りの言葉が返ってきて、こめかみの辺りが痛くなる。
澪にそんなことを聞かれることがあったら、宮城はきっと嘘をつく。そして、彼女は嘘が上手くない。
私は宮城の嘘が下手すぎて、澪が事実を認識するようなことがあってもかまわないと思っているけれど、澪が強引に宮城の中から事実を引っ張り出すことは良くないことだとも思っている。
「宮城、恋愛系の話苦手だし、そういう話はしないと思うけど」
宮城は首筋なんて目立つ場所に跡をつけるようなことをするくせに、私にすべてを押しつけてどういう結果になっても不機嫌になる人間だ。自分の口から事実を告げることを望むわけがない。
私は宮城が望まないことをしたくない。
宮城が望む私でありたいと思っている。
「ええー、話そうよー」
黙っていれば美人に見える澪がイメージを台無しにするような声を出す。
「宮城に首筋の跡のことなんて聞かなくてもいいでしょ。そんなに気にすることでもないし」
「気になるって。だって、葉月だよ? あの付き合いの悪い。誰と付き合ってるか気になるじゃん」
「付き合いの悪い、は余計。あと、私に付き合ってる相手がいるって思ってるみたいだけど、恋人じゃなくてその場限りの相手かもしれないじゃん」
こういう話はたとえ話でも面白いものではないが、背に腹は代えられない。家へ遊びに来るという話の流れを変えたいと思う。
「一応、それも考えた」
「その結果は?」
「考えれば考えるほどわかんなくなる。その場限りの相手だとしてもマジで誰?」
「わかんないなら、そろそろ諦めて」
「能登先輩にも同じこと言われたんだよね」
「能登先輩に?」
澪と先輩の仲を考えれば、私のことが先輩に伝わっていてもおかしくはない。澪はそれくらい先輩と親しいし、私は澪に首筋の跡について口止めをしていない。能登先輩に伝わるのは必然だ。
それでも今日は良くない日だと思う。
澪の口から出てくるのはこめかみの辺りがキリキリするような話ばかりで、面白い話が出てこない。
「先輩に葉月についてた跡と志緒理ちゃんの話をしたら、詮索はやめなさいって」
有り難い言葉ではあるが、澪が詮索しなくなっても能登先輩が詮索しそうな言葉でため息が出そうになる。
澪も面倒くさいことを言いだすことがあるけれど、能登先輩はその三倍くらい面倒くさいことを言いだしてもおかしくない人だ。
「それだけ?」
なるべく表情を変えずに尋ねる。
「それだけ」
「だったら、能登先輩の教えに従って」
後々面倒なことになりそうだなと思いながら、澪に微笑みかける。
「そうするかあ」
半分くらい納得したような声で澪が言い、「あとからこの前のレポート見せて。お昼奢るから」と私を拝んでくる。いいよ、と返して五分ほどすると、先生が講義室に入ってきた。
講義が始まり、先生の声を聞きながら首筋に触れる。
跡はもうない。
ペンケースを撫でる。
同じ大学にいない宮城には会えない。
いくつかの講義を受けて、澪とお昼を食べて、また講義を受ける。今日はバイトがない。大学でするべきことをすべてしてから、私は真っ直ぐ家へ帰る。
電車に乗って、ミケちゃんが顔を見せてくれない歩道を歩いて、階段を三階分上って、玄関のドアを開けると宮城の靴がある。
共用スペースへ行くが、靴の主はいない。
鞄を自分の部屋へ置いてから彼女の部屋をノックすると、すぐにドアが開いた。
「おかえり」
宮城が顔を出し、大きくも小さくもない声で言う。
「ただいま」
私の声に宮城が視線を落とす。
でも、すぐに顔を上げて「仙台さん」と私を呼んだ。
「なに?」
「……動物園じゃなくて水族館がいい」
大きくも小さくもなかった声は明らかに小さくなっていて、聞き取りにくい。けれど、聞こえないわけではなかった。
「ペンギン見に行く場所?」
「そう」
私とペンギンを見に行く。
たぶん、“私と”ではなく、“ペンギンを見に行く”という部分が大事で、それが楽しみで行きたい場所を告げてきたのだと思うけれど、宮城が行きたい場所を告げてくるほど楽しみにしていそうなことが嬉しいと思う。
この前行ったところがいい?
それともほかのところにする?
朝早くから出かけて動物園にも行こうか?
宮城に聞きたいことがいくつも浮かんで、でも、それを口にする前にお腹をぐっと押される。
「仙台さん、ご飯作って」
私を押しながら宮城が強引に共用スペースへ出てくる。私はそんな彼女に押しやられ、冷蔵庫の前へ辿り着く。
どうやら宮城はこれ以上ペンギンの話をしたくないらしい。
こうなったら私に言えることは一つしかなく、それを口にする。
「食べたいものある?」
「なんでもいい」
素っ気ない声が返ってきて、冷蔵庫を開ける。
そこそこ中身が入っていて、肉も野菜もある。冷凍庫を開ければ電子レンジに放り込むだけで食べられるものもあるけれど、豚肉と茄子を生姜焼きにして、もやしときゅうりで中華サラダを作ることに決める。
フライパンと包丁を出す。
茄子を切って、宮城に中華サラダの作り方を教えながら豚肉を炒める。火が通ったら茄子を加えて炒めて、しょうがと調味料で味を付ける。
その間に中華サラダは、宮城によってきゅうりが薄いとは言えない薄切りにされ、電子レンジで加熱されたもやしと合わせられていた。
「醤油入れすぎた」
計量スプーンで計って入れていたはずの宮城が、眉間に皺を寄せて頼りないことを言う。
「いいよ。盛り付けるから、ご飯よろしく」
「わかった」
そう言うと、宮城が食器を持ってくる。それに生姜焼きと中華サラダを盛り付けてテーブルに運ぶと、そこには箸がもう用意されていた。
私の席が私の席ではない。
テーブルの上の違和感に、私は宮城の椅子に座る。
「仙台さん、自分の椅子に座ってよ」
ご飯を持ってきた宮城が不機嫌極まりない声をぶつけてくる。
「席替えするんじゃないの?」
「なんで?」
「だって、箸置きが――」
テーブルの上には、黒猫の箸置きと三毛猫の箸置きが置いてある。でも、それはいつもと違う場所に置いてあって、私の席には宮城の黒猫、宮城の席には私の三毛猫が置いてあった。
だから、私の箸置きが置いてある席に座った。
それなのに宮城はやけに不機嫌で、私の言葉を奪って「いつもの席に座って」と言ってくる。
逆らうことに意味はないし、逆らう必要もないから大人しく宮城の言葉に従うと、彼女も“いつもの席”に座る。
「仙台さんにあげたペンケースとお揃いにした。……三毛猫のほうがいいなら元に戻すけど」
ペンギンを見に行くという約束を更新した日、宮城は三毛猫の箸置きを使っていた。でも、それはその日だけで、宮城があれから三毛猫の箸置きを使うことはなかったけれど、私のものを使えばいいと思っていた。
だから、箸置きを戻す必要はない。
私は私のものを使っている宮城を見ていたいし、宮城に宮城のものを使っている私を見ていてほしい。
今日は良い日ではないと思ったけれど、そんなことはなかったと思う。
「黒猫でいいよ」
高校のときに交換したブラウスとネクタイが頭に浮かぶ。
宮城は交換が好きだと思う。
私は彼女を見て告げる。
「可愛いね」
宮城が。
誰よりも可愛い。
「箸置き?」
「まあ、そんなところ。ご飯食べよっか」
そう言って「いただきます」と続けると、宮城の「いただきます」という声と重なった。
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