仙台さんは同じじゃない
第307話
今日の仙台さんは良くない仙台さんだと思う。
ベッドを背もたれにした彼女の視線は、ガイドブックに向かっている。
「宮城、聞いてる?」
仙台さんが魚だらけの本から顔を上げずに言う。
視線が私に向くことはない。
「……聞いてる」
私は隣にいるペンギンの頭をむぎゅりと押す。でも、仙台さんが部屋から持ってきたそれは文句を言ったりしない。大人しく私と仙台さんの間に座り続けている。
「水族館どこがいい?」
「どこでもいい。大体、仙台さんが計画は私が立てるって言ったんだから、仙台さんが全部決めてよ」
あとから宮城の部屋に行っていい?
夕飯を食べている最中にそう言った仙台さんは、お風呂から出るとすぐにペンギンのぬいぐるみと水族館のガイドブックを持って私の部屋へやってきた。
明日の目的地が決まった。
そういう話かと思ったら、「明日行く水族館のことで相談したくて」なんて言いだして今に至っている。
でも、私に意見を聞く必要なんてないと思う。一緒にペンギンを見に行こうという約束を更新してきたのは仙台さんだし、行く日を決めたのも仙台さんだ。計画を立てるとも言っていたのだから、仙台さんが行き先まできちんと決めるべきだ。
「せっかく本買ってきたのに」
「買ってきてなんて頼んでないし」
連休中にペンギンを見に行こうとしたときにスマホでいろいろ調べたけれど、どこへ行けばいいのかわからなかった。
でも、ペンギンを見られればそれで良かったのだから、悩む必要はなかったんだと思う。
今もそうだ。
ペンギンがいる水族館であればそれでいいのだから、わざわざガイドブック買ってまで選ぶ必要はない。
そもそも私は、仙台さんとの約束にガイドブックなんて使いたくない。
「本当にどこでもいいの?」
仙台さんがガイドブックから顔を上げて私を見る。
ずっと合わなかった目が合って、私はペンギンの手を引っ張りながら「いいよ」と答える。
「本当に?」
「仙台さんしつこい。いいって言ってるじゃん」
夏休みも冬休みも春休みも。
どこかへ遊びに行くという約束を私としたお父さんは、いつも仕事を選んだ。
正確に言えば、お母さんがいなくなったばかりの頃は約束を守ることもあった。でも、それは次第に破ることが当たり前のことになって、私は“特別な約束”をしなくなった。
入念に計画を立てても約束は果たされない。お父さんが買ってきたガイドブックが役に立ったところを見た記憶はない。
ガイドブックは良くないものだと思う。
約束は破られるためにあるし、期待は裏切られるためにある。
そんなことを思い出す。
「じゃあさ、目を閉じてぱっと開いたページにある水族館にしようか?」
仙台さんがいいことを思いついたというように言い、私は彼女にペンギンを投げつけた。
「ちょっと宮城、ペンちゃん投げないでよ。可哀想じゃん」
ぬいぐるみをキャッチした仙台さんが不満げに言う。
「そういう適当なのはむかつく」
「だったら、話し合いに参加しなよ。行きたい場所の候補くらい教えて」
「候補とかないし」
「それなら、じゃんけんしない? 私が勝ったら、行きたい場所の候補決めてよ」
ペンギンを床に置き、仙台さんがにこりと笑う。
「じゃんけんは絶対にしない。仙台さんズルするもん」
彼女とのじゃんけんは信用できない。
グーを出すと言った彼女を信じてパーを出したら、チョキを出したりする。
約束は守られるもの。
仙台さんといるとそう思えることもあるけれど、そうではないこともあると私は知っている。
この世界には“絶対”はない。限りなくそれに近づくことはあっても、絶対は絶対にないことで、そう考える私が矛盾していることもわかっている。
「ズルはしてないと思うけど」
平然とした声が聞こえてきて、私は即座にそれを「してる」と否定する。
「まあ、いいか。計画立てるって約束だし、自分で決めようかな」
そう言うと、仙台さんがガイドブックに視線を落とす。
ページが一枚めくられ、ペンギンが現れる。
またページがめくられ、アザラシが現れる。
ページは延々とめくられ続け、よくわからない魚たちが紙の上を泳ぎ続け、私を見ていた目をガイドブックが独占し続ける。
「仙台さん」
ペンギンの頭をぽんっと叩きながら声をかける。
「行きたい場所あった?」
仙台さんが視線を上げずに言う。
「ない」
つまらない。
こういう仙台さんは本当につまらない。
積極的に行き先を決める話し合いをしたいわけではないけれど、ガイドブックをめくってばかりいる仙台さんは面白くない。水色のページから視線を上げない彼女は、私のことなんてどうでもいいように見える。
私がいても私が見えていないのだったら、私なんていないのと同じだ。存在している意味がない。一人で部屋にいるのと変わらないと思う。
私は顔を上げようとしない仙台さんの首筋に手を伸ばし、ぴたりと指先をくっつける。
ゆっくりと指を滑らせて柔らかな肌を撫で、鎖骨を強く押す。
「宮城。明日、出かけるってわかってるよね?」
仙台さんがガイドブックから顔を上げ、私を見た。
「わかってるけど、なに?」
「跡つけられると困る」
仙台さんが私の手を掴む。
「つけない。触るだけだし、はなして」
私には仙台さんにたくさんの跡をつける権利がある。
彼女は私だけのものだから、どれだけつけたっていいし、見える場所につけて私のものだとわかるようにしてもいい。
拒否することは許さない。
でも、今日は跡をつけたいとは思わない。
私を見てほしいだけだ。
「仙台さん」
名前を呼ぶと、私を掴んでいた手が離れる。ペンギンをベッドの上へ置き、距離を詰める。首筋にもう一度手を押し当てて、喉を撫でる。宮城、と小さな声が聞こえて、首筋に柔らかく歯を立てる。
お風呂上がりの彼女は私と同じ匂いがする。
体も温かくて、私も同じように熱くなる。
もっと彼女の体温を感じたくて部屋着の裾をまくって脇腹に手を押しつけると、仙台さんの体が小さく震えた。
首筋から顔を離し、仙台さんを見る。
「なんでびくってするの?」
問いかけると、私を見ていた目がまたガイドブックに向かいそうになって脇腹に強く手を押しつけた。
「……そういうことするつもりかと思って」
ぼそりとはっきりとしない声が聞こえてくる。
「そういうことって?」
「そういうことはそういうことでしょ」
仙台さんがなにを言っているかはわかる。
けれど、こんなとき彼女はもう少しはっきりと言うはずだと思う。
おかしい。
そう思うけれど、こういう仙台さんがこの先どうなるのか知りたくて彼女の脇腹を撫で上げる。
「宮城。そういうことしたいの?」
またはっきりと言うことを避けた言葉が聞こえてきて、胸の下に手を這わせる。
手のひらからわかるくらい仙台さんの体が硬くなる。
もう少し上。
手を少し動かしたところ。
私はそこに触れたことがある。
今も触ろうと思えば触れる。
どくん、と心臓が鳴る。
小さく息を吐き出して指をほんの少し動かすと、交わっていた視線がそらされ、どうしていいのかわからなくなる。
「宮城」
強く名前を呼ばれて、手を離す。
ペンギン一個分距離を取って、仙台さんが見ていたガイドブックを奪って開く。
「続きは?」
聞こえてきた声に「しない」と返して、ページをめくる。
「そういう気持ちがないなら、そういう触り方しないでよ」
「意味わかんない」
「わからないことないでしょ」
仙台さんが私からガイドブックを取り上げ、テーブルの上へ置く。でも、彼女は喋らない。急に部屋が静かになって、私の居場所なのに居心地が悪くなる。
「……澪さんって元気?」
なにを話せばこの部屋を支配する沈黙という言葉を追い出せるのかわからないまま、ずっと頭にあったことの欠片が口から出てくる。
「元気だよ」
「ふうん」
「それだけ?」
本当に聞きたいことは能登さんのことだ。
彼女が仙台さんになにか言っていないかずっと気になっている。
ただ、仙台さんは能登さんの話をまったくしないから、私と能登さんが舞香のバイト先で会ったことを知らないのだとは思う。知っていたら、私になにか聞いてくるはずだ。
だからといって、能登さんのことを忘れることができずにいるのだけれど、私が急に能登さんの名前をだしたら仙台さんが変に思うだろうから気にすることしかできずにいる。
「澪さんって今もカフェでバイトしてるの?」
私は関係があるようなないような話を続ける。
「ときどきね。バイト、興味あるの?」
「興味ない」
「知ってる」
諦めたように仙台さんが言って、また部屋が静かになる。でも、今度はすぐに仙台さんが沈黙を部屋から追い出した。
「水族館、この前行ったところでいい?」
「うん」
「キスしていい?」
仙台さんが水族館のおまけのように付け加えてくる。
「駄目」
「なんで?」
「なんででも」
そう言って、私はベッドの上からペンギンを引きずり降ろして抱きしめた。
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