私の知らない宮城

第136話

 初めまして。


 よくある挨拶を交わしてから三十分が経って、コンクリートで固められたようだった体が少しほぐれる。先輩は、考えているほど家庭教師は難しいものじゃないと言っていたが、初めてすることはどんなことだって緊張する。


 連休が明けて予定通り始まった家庭教師のアルバイトは、宮城に勉強を教えていたときのようにはいかない。


 どこまで勉強に関係のない話をしていいのかわからないし、どれくらいの距離感で接すればいいのかわからない。先生っぽくしていればいいと先輩に言われたけれど、先生のイメージが固まらないまま今日を迎えてしまった。


 花巻桔梗はなまきききょうです、と自己紹介をした私の初めての生徒は中学三年生で、今はテーブルの向こう側で問題集を穴が開くほど見ている。


 彼女の母親が出してくれた麦茶を飲む。

 懐かしい。

 放課後、宮城も私に麦茶を用意してくれていた。


「先生」


 花巻さんが顔を上げて、私を見る。

 家庭教師を始めるまで呼ばれたことのない“先生”という言葉がくすぐったくて、落ち着かない。


「わからないところあった?」


 テーブルの上のノートに視線をやると、整った文字で埋められている。この三十分でわかったけれど、花巻さんは勉強ができるらしく家庭教師が必要なようには見えない。彼女の母親からは高校受験に向けて勉強を教えてくれと言われたが、心配はなさそうに思える。


「わからないところはないんですけど、先生ってどうして家庭教師やってるんですか?」


 人の目を真っ直ぐ見て話す花巻さんと目が合う。

 彼女はショートカットで行動的に見えるけれど、声は落ち着いている。髪は、宮城とは違って耳にかけている。でも、校則を守っているとわかる制服を着ているところは宮城と同じだ。


「んー」


 私は小さく唸って考える。

 お金、と答えられたらいいけれど、先生としてその答えはどうかと思う。


「人になにかを教えることが好きだからかな」

「勉強よく教えてたんですか?」

「友だちにね」


 宮城を指す言葉として適当とは思えないが、バイト先でありのままを話すわけにはいかない。私はありふれた言葉で誤魔化して、このまま“友だち”のことを聞かれないように質問をする。


「花巻さんは勉強を教えるタイプ? それとも教えてもらうタイプ?」

「私は教えてもらうタイプです。お姉ちゃんによく教えてもらってました」


 あまり聞きたくない言葉が聞こえて、麦茶を一口飲む。


 良くできた姉とそれなりにできる私。


 子どもの頃は二人とも両親に可愛がられていたが、姉との差が明らかになってからは両親の愛情は姉にしか向けられなくなった。そして、両親の態度は私たち姉妹に溝を作り、今もその溝は埋まっていない。


 まあ、でも。

 今はそれも良かったことだと思える。


 子どもの頃と変わらない家族だったら、宮城と一緒に住むことにはならなかったはずだ。

 私はグラスを手に取って、麦茶と一緒に家族の記憶を胃に流し込む。


「今はお姉さんに教えてもらってないの?」

「スポーツ推薦で寮のある高校に行っているので」

「そうなんだ」


 テーブルの上に、空になったグラスを置く。

 明るそうではあるけれどスポーツが得意そうには見えない花巻さんから、彼女の姉をイメージすることはできない。けれど、そんなことは些細なことで、この部屋の空気が和らいだことの方が重要だ。

 緊張感があること自体はそこまで悪くはないが、ずっと続くと疲れてしまう。


 私と花巻さんは、それほど年齢が離れていない。

 でも、どこに共通点があるのかわからないから、私たちはぽつりぽつりとそれほど意味のない話をしながら勉強を続ける。


 週に二回、九十分。

 花巻さんの家庭教師という立場に慣れるには、もう少し時間がかかりそうだと思う。それでもほんの少し打ち解けた頃に九十分が経って、家庭教師のバイトが終わる。


 彼女の母親に挨拶をして玄関へ行く。

 靴を履くと、宮城とほとんど身長が変わらない花巻さんが「ありがとうござました」と頭を下げた。そして、にこりと笑って私を見送ってくれる。


 そう言えば、一緒に住んでから宮城が笑っているところを見ていないような気がする。宮城も花巻さんのように笑えばいいのにと思う。


 電車に乗って家へ向かう。

 花巻さんは、飲み込みが早くて手がかからない。

 素直さに欠ける宮城とは大違いだ。


 まあ、素直な宮城というのも気持ちが悪いけれど。


 私は、いつもとは違う電車に揺られながら失礼なことを考える。改札を通り抜けて、いつもの道を歩く。三階分の階段を上って、玄関を開ける。宮城の靴はあるが、共用スペースに彼女の姿はない。

 お腹がぐぅと小さく鳴る。

 宮城には遅くなると伝えてあるから、彼女はもう食事を済ませているはずだ。それでも私は聞かなくてもわかっていることを聞くために、宮城の部屋のドアをノックした。


 一回、二回、三回。


 宮城が共用スペースへ出てきて、中を覗く間もなくバタンとドアが閉められる。


「ご飯食べた?」


 なにか言われる前に私の方から尋ねる。


「食べた」

「なに食べたの?」

「カップラーメン」


 宮城が不機嫌な声で答える。


「ちゃんと作りなよ」

「なに食べたっていいじゃん。一人なんだし。用事ってそれ?」

「お茶いれるし、一緒に飲まない?」


 そんな用事ではなかったが、とりあえずそういう用事にしておく。夕飯がまだなら一緒にと思ったけれど、食べてしまっているなら用事にならないから仕方がない。


「仙台さん、ご飯は?」

「あとから食べる」

「先に食べなよ」

「じゃあ、宮城はお茶飲んでて」


 部屋に戻ろうとする宮城の腕を引っ張って、椅子に座らせる。電気ケトルでお湯を沸かしながら、冷蔵庫を開ける。


 宮城ではないが、一人で食べるものを今から作るのも億劫だ。


 鍋にお湯を沸かして、レトルトのシチューを入れる。ぐつぐつと温めている間にマグカップにお茶を注いで、宮城に出す。そして、お皿にご飯をよそって、その上からシチューをかける。


 ご飯とシチューは別々にするものだと思っているが、今日は洗い物を増やしたくない。初めてのバイトでそれなりに疲れているから、過去に宮城がしたように一緒に盛り付けて食べることにする。

 シチューをテーブルの上に置いて椅子に座ると、宮城が「ねえ」と言った。


「……バイト、生徒ってどんな子だったの?」

「いい子だったよ。普段から勉強してるっぽいし、礼儀正しいし」

「へえ」


 興味がなさそうに宮城が言う。


「あと、素直な感じだったかな。宮城と違って」


 わざとらしく言って、シチューを一口食べる。ごくんと飲み込んで宮城を見ると、彼女は指先でテーブルをトンと叩いた。


「仙台さんの前で素直になる必要ないから」

「宮城って、誰の前なら素直なわけ?」

「仙台さん以外」

「言うと思った」


 素直な宮城は気持ちが悪いけれど、たまには素直な宮城も見たいと思う。


 たとえば、耳を見せてと言ったら見せてくれる宮城とか。


 花巻さんとは違って、宮城は今日も耳を隠している。髪が邪魔で、私に見せるためだというピアスを見ることができない。大学でも隠しているとは思うけれど、宇都宮がピアスを見たいと言ったら素直に見せそうだ。


 ため息が出そうになって、シチューと一緒に飲み込む。

 私はもう一口シチューを食べてから、口を開く。


「宮城。せっかくピアスしてるんだし、耳見えるようにしなよ」


 テーブルの向こう側、宮城が眉根を寄せる。

 そして、少し考えるような顔をしてから髪を耳にかけた。

 私は思わずスプーンを落としそうになって、お皿の上に置く。


「仙台さん、約束してよ」


 宮城が私の隣まで来る。


「どんな?」

「明日、仙台さんがご飯作って」

「……いいよ。なに食べたい?」


 宮城に手を伸ばして、約束を誓う代わりにピアスに触る。

 本当は耳にキスをしたいけれど、今の宮城は私の知っている宮城とは違うような気がして動けない。


「仙台さんの好きなものでいい」


 私は頭の中でメニューを考えながら「わかった」と答えた。

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