第135話
面白くない。
なるべく触らないはずだった髪は、メイクをするのに邪魔だからと真っ先に触られた。にこやかに取り出されたヘアバンドによって前髪を上げられたし、耳にも髪をかけられて結局ピアスが見えている。
メイクをするなら髪が邪魔になるだろうことはわかっていたから、こうなるだろうとは思っていた。断ってこの部屋から出ていっても良かったのにそうしなかったのだから、自業自得だ。わかっているが、眉間に皺が寄る。
「一度、メイクしたかったんだよね」
弾んだ声が聞こえる。
私とは違って、仙台さんは随分と機嫌が良さそうだ。
「じゃあ、下地から」
ケースから小さな容器が取り出され、クリームのようなものをおでこや鼻の上にのせられる。
顔に触れなければメイクができないことを考えると当たり前だけれど、仙台さんが近い。でも、目が合いそうで合わない。彼女は真剣な顔をして、私の顔の上に置いた下地を塗り広げている。
落ち着かない。
どうしていいかわからなくて目を閉じると、待っていましたとばかりに目の周りにも下地が塗られる。
「次はファンデーション」
わざわざ説明してくれる理由はわからないけれど、宣言とともにケースからなにかを取り出すカチャカチャという音が聞こえる。そして、顔にファンデーションであろうものが塗られていく。
画用紙にでもなった気分だ。
下地だとかファンデーションだとか立派な名前がついているだけで、顔に絵の具を塗っているのとそう変わらない気がする。
黙って座っているだけだから楽と言えば楽だけれど、することがないからつまらない。喋ろうとすると仙台さんが喋るなと言うし、顔が気になって触ろうとすると触るなと言われる。
なにをしようとしても止められているうちに、憂鬱な気分になってくる。それでもしばらくすると、仙台さんの手が止まって私は目を開けた。
「もういいでしょ」
真面目な顔をして私を見ている仙台さんと目が合う。
「これからじゃん。今までのは準備でしょ、準備」
「飽きた。じっとしてるだけだし、つまんない」
私はケースの中からなにかを取り出そうとしている仙台さんの手を掴む。
「もう少し我慢しなよ」
「やだ」
「やだ、じゃなくて。あと十分でいいから顔貸して」
「じゃあ、五分」
そう言って手を離すと、仙台さんが小さく唸る。そして、私の顔をじっと見てからケースからなにかを取り出して、目を閉じろだとか開けろだとか指示してくる。結局、眉と目を触られているうちに五分が経って、私は「もういいでしょ」とまた口にした。
「五分なんて短すぎて終わらないんだけど」
仙台さんが不満そうに言う。
「でも、五分って約束したじゃん」
「じゃあ、あとチークとリップの二つ。すぐ終わるから」
いいと言っていないのに、仙台さんがケースの中からチークらしきものとリップを取りだしてテーブルの上に置く。
言い争っても疲れるだけだし、今さら部屋に戻っても顔は画用紙にされている。
「絶対にその二つで終わりって約束してよ」
ピアスに誓えとは言わなかったけれど、仙台さんが私の耳をちらりと見て「わかった」と言う。そして、チークを手に取って、絵筆よりも大きなブラシで私の頬を撫でた。
彼女が私にしていることは、顔に新しい顔を描いているようなものに見える。美術の成績と連動していそうな技術で、私には向いていない。美術の成績はあまり良くなかった。
「リップ、直接塗るから」
仙台さんが宣言する。
でも、触れたのはリップではなく彼女の指先で、ふわりと置かれた指が動く。
下唇の真ん中から端へ。
ゆっくりと私の唇を辿る。
過去に何度もこういうことがあった。
仙台さんは、意味もなく唇に触ったりしない。
心臓がぎゅっと縮んだような気がして、私は彼女の腕を押す。
「リップ塗るんでしょ」
抵抗することなく指先が離れて、仙台さんの指の代わりにリップが唇にくっつく。
勝手にこめかみがぴくりと動く。
リップはあまり好きじゃない。ベタベタする感じが苦手で、唇が荒れたときくらいにしか使わない。今もすぐさま塗られたそれを拭ってしまいたい気分になっている。仙台さんの手を押したくて仕方がないけれど、自分の手をぐっと握って我慢する。
手元が狂って、唇以外にもべたべたしたものがつくのは嫌だ。
爪が食い込むほど握った手が痛くなってきたころ、唇からリップが離れる。
「できた。それ、取っていいよ」
仙台さんがヘアバンドを指さす。
言われた通りに前髪を上げているそれを取ってしまうと、手鏡を渡された。
「感想は?」
催促されて鏡を見る。
映っているのは私で、でも、私ではない誰かが映っているように見える。
唇に視線を移すと、仙台さんと同じ色に塗られていた。
あまり似合っているようには思えない。目の前にいる仙台さんの唇と同じ色なのに、まったく違うものに見える。
触ってはいけないとわかっているけれど、指先で触れる。
いつもとは違って唇がべたべたしている。
リップを塗った仙台さんとキスしてもそれほど気にならないのに、自分の唇に塗られるとやけにべたついた感じがするのは何故だろう。
「宮城、感想」
催促されて、私は鏡ではなく仙台さんを見た。
「……顔色が良くなった」
「間違ってはいないけどさ。可愛くなったって言いなよ」
「変な感じしかしない」
「変じゃないって。可愛くしようと思ってメイクしたんだから可愛いに決まってる」
「あんまり似合ってない」
「可愛いって、本当に」
思っていた通り、仙台さんはからかっているとしか思えない言葉を口にする。本気で言っているなら眼科にでも行った方が良いと思う。眼科が必要ないなら、黙っていてほしい。余計な言葉は聞き慣れない言葉で、何度も言われると背中がむずむずする。
「自分でできるようにやり方教えてあげようか?」
私は仙台さんに鏡を返す。
「いい。しないから」
「自分でする気がないなら、私がしてもいいけど」
「しなくていい。もう気がすんだでしょ。これ落としてくる」
「待ちなって。せっかくメイクしたんだしさ、今からご飯食べに行かない?」
「行かない。仙台さんとは出かけないって連休前に言ったじゃん。それに、これはいいの?」
私は、仙台さんの首筋に触れる。
彼女につけた跡はまだ消えていない。
「……忘れてた」
「まだはっきり残ってるけど」
言うほどはっきりというわけではない。
隠そうと思えば隠せるはずだ。でも、隠して出かけたいなんて言われても困るし、隠されるのはつまらない。連休が終わっても消えなければいいのにと思う。
「やめとこうかな」
仙台さんが、はあ、とため息をついてベッドに寄りかかる。指先で確かめられるわけがないのに、仙台さんが手で首を触る。見えていた赤い跡が彼女の手で隠れて、私はその手を掴んだ。
「なに?」
仙台さんが驚いたように言う。
「動かないで」
「命令?」
「違う。でも、仙台さんのいうこときいてメイクさせてあげたんだから、私のいうこともきいてよ」
ベッドを背もたれにしたままの仙台さんと目が合う。
掴んだ手を引っ張って離すと、赤い跡が見える。
仙台さんは動かない。
指先で彼女の唇に触れる。
私の唇ほどリップは気にならない。今までキスをされても嫌だと思ったことはなかった。
指先を滑らせて顎を撫でて、赤い跡まで滑らせる。
命令をしたわけではないけれど、仙台さんは私の手を捕まえたりしない。首筋に顔を寄せて唇で赤い跡に触れると、仙台さんの喉が動いた。
「もう連休終わるんだけど」
「知ってる」
だから、目立つ場所に跡を残すつもりはない。
仙台さんのブラウスのボタンを一つ外す。
唇を滑らせて、鎖骨の少し上あたり。
首と肩の境目に近いところに唇を押しつけて、強く吸う。
唇から伝わってくる仙台さんの体温がいつもより少し高いような気がする。
「宮城、跡がつくって」
肩を叩かれて、唇を離す。
この間ほどではないけれど、赤い跡がついている。
でも、目立たない場所だから問題はないはずだ。
「仙台さん、私に触られるのやじゃないんでしょ」
「これって触る以上のことじゃない?」
「仙台さん、細かい」
首筋に顔を埋める。
今つけたばかりの跡に歯を立てる。
軽く噛んでから、舌を這わせる。
仙台さんとの距離が今日一番近い。
いい匂いがする。
バスルームに置いてある彼女のシャンプーを使っても、同じ香りになるとは思えない。メイクをしても、私と仙台さんはまったく違う。彼女の方が綺麗で、頭も良くて、同じことをしても同じにはなれない。
仙台さんの首に歯を立てる。
力を入れると、歯が皮膚に埋まっていく。
同化するわけではないけれど、近くなったような気がする。でも、すぐに仙台さんから、痛い、という声が聞こえて噛むのをやめる。うっすらとついた歯形を舐めて耳の下に唇をつけると、腕を掴まれた。
「これ、もしかして罰ゲーム?」
仙台さんが思い出したように言う。
「違う」
「じゃあ、なんなの?」
これは命令でもなければ、罰ゲームでもない。
ただ彼女にずっと跡を残しておきたいだけだ。
それはピアスのようなものでもいい。でも、仙台さんはそれを許さないからこういうことになっている。
「なんだっていいじゃん」
大学が始まって、家庭教師のバイトも始まって。
どんどん私の知らない仙台さんが増えて。
その中に私が少しくらいいたっていいと思う。
ちょっとした跡がついて回るくらい許すべきだ。
「よくない。なんで?」
仙台さんがいつもなら追求しないようなことを追求してくる。
でも、何度尋ねられても答えは口にしたくない。
仙台さんが私の知らないところで知らないことをしているから。
そんなことを言えるわけがない。素直に答えたとしても、それは跡をつける理由にはならないと言われるに違いない。
私は仙台さんの体温を強く感じるほど舌先を押しつけて、首筋を舐める。やっぱり彼女の体はいつもより熱い。
耳の下に唇をくっつけて軽く吸う。跡がついたかわからないけれど、舌を這わせて耳たぶに唇をくっつける。首筋に比べると冷たくて気持ちがいい。
「ちょっと宮城。これ以上はヤバい」
仙台さんが掴んだままの私の腕を強く握る。
それでも耳たぶを舐めて歯を立てると、背中に腕を回されて抱きしめられた。
「そういうのやだ」
仙台さんの体を軽く押すと、耳元で声が聞こえる。
「続けるつもりなんでしょ? だったら、私のしたいことも少しくらいは受け入れなよ」
「離して」
背中に回された腕に力が入る。
「もうしないから離してよ」
さっき軽く押した仙台さんの体を強く押すと、彼女の腕から解放された。
「宮城、すぐこういうことするのやめなよ」
仙台さんが鎖骨の少し上を撫でながら私を見る。
「仙台さんには言われたくない」
断りもなく相手に触れるのは私だけじゃない。
仙台さんだって私に触れるし、キスだってしてくる。それを考えたら、私がなにをしたって仙台さんは文句を言えないはずだ。
「宮城」
私を呼んで仙台さんが、はあ、と息を吐く。
「なに?」
「今度、ご飯食べに行かない?」
予想していなかった言葉が聞こえて、私は思わず「いいよ」と口にしてしまう。行きたくないわけではないけれど、流されるように答えを引き出されると面白くない。
「じゃあ、約束ね」
文句を言う前に、仙台さんが私の腕を掴む。距離があっという間に縮まって、髪の上からだけれど仙台さんの唇が私の耳に触れる。
ピアスの上、しっかりとキスをされる。
「なんですぐそういうことするの」
「指切りの代わり」
「普通に指切りしてよ」
「約束を忘れないためのピアスなんだし、これくらいいいでしょ。ちゃんと誓っておかないと、約束忘れちゃうかもしれないし」
仙台さんが当然のように言って、私は違和感に気がつく。
「待って。おかしいじゃん。私が言った約束を仙台さんが忘れずに守るためのピアスで、仙台さんが言いだした約束を私が守るためのものじゃない」
「宮城、細かい」
そう言って、私が外したブラウスのボタンを仙台さんが留めた。
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