仙台さんと三毛猫

第163話

 やっぱりいない。


 大学からの帰り道、不審者にならない程度にいつも周りを見て歩いているけれど、私はまだ仙台さんが言っていた三毛猫を見たことがなかった。


「猫の話、嘘じゃないよね」


 本当は近所に猫なんていないんじゃないかと思いたくなるが、そんな嘘を私につく意味はないはずだ。でも、そうなると、どこかに猫がいるはずで、私が猫を見つけられないのはその猫が私に姿を見せたくないからだということになる。


 なんか、むかつく。


 仙台さんには姿を見せて、私には見せないなんて酷いと思う。


 私は歩くスピードを速める。

 階段を上って三階。

 玄関のドアを開けて靴を脱ぐ。

 仙台さんの靴はない。

 当然、共同スペースには誰もいない。


 私の方が早く帰ってくることが多いから、開けたドアの向こうに誰もいないことには慣れている。


 子どもの頃からずっとそうだった。


 ただいまと言っても返ってくる言葉がないことが当たり前になっていた。仙台さんが家に来るようになるまで一人でいることが私にとっての普通で、それが寂しいことだということを忘れていた。


 でも、今は一人でいる時間が長いと寂しいと思う。


 それくらい仙台さんが私の生活に入り込んでいる。

 彼女が連れてきた感情は一人でいたときには知ることのなかった感情で、それがときどき煩わしい。


 私はため息を一つついて、自分の部屋に入る。

 本棚でくつろいでいる黒猫のぬいぐるみを手に取って、ベッドにダイブする。


 今日はバイトがない日だから、仙台さんが早く帰ってくる。

 彼女が三毛猫を撫でて帰ってくるかもしれないと思うと、胸がざわつく。


 私は黒猫のお腹を撫でる。

 仙台さんとは感触が違う。


 私の手の中にあるのはぬいぐるみで、仙台さんは人間だ。

 体温があるし、体の中に綿が詰まっているわけではない。手を置けば呼吸に合わせてお腹が動くし、強く押したら文句を言ったりもする。ぬいぐるみを触っているよりも面白い。

 また触らせてくれるなら、触りたいと思う。


 と言っても、あれから触る機会がないからぬいぐるみのお腹を触ることになっているわけだけれど。


 私は黒猫のお腹をむぎゅっと押す。

 キューと鳴く仕組みではないから、黒猫の体が曲がっただけでなにも起こらない。優しく撫でてもいつもと同じ顔をしているだけだ。


「つまんないの」


 自分のお腹の上に黒猫を置いて、頭を撫でる。

 仙台さんは猫が好きだと言っていた。

 そう聞いた日から何度か考えているけれど、クリスマスプレゼントとしてやってきたこのぬいぐるみが猫であることに意味はあるのだろうか。


 ……あるわけがない。


 私はベッドの上から、ティッシュカバーのワニを見る。

 黒猫はあのワニの友だちだ。

 仙台さんがそう言っていたことを覚えている。


 それがすべてで、ぬいぐるみはただのぬいぐるみだ。

 なにか意味があったとしても、今さらクリスマスプレゼントについて聞くわけにもいかない。


 仙台さんと一緒にいると知りたいことが日々増えていくけれど、ただそれだけだ。知りたいことのほとんどは知ることができない。代わりに、知りたかったこととは少し違うことが私の頭にインプットされていく。


 仙台さんは犬よりも猫が好きで、猫を探しに行くくらいだということ。

 仙台さんのお腹は、以前触ったときよりも気持ちの良さが増しているということ。


 望んでいたものとは違う新しい情報はたいしたものではないけれど、知ることができないものへの苛立ちを抑える効果はある。


 私は体を起こす。

 今日はやらなければならない課題がある。


 大学生は遊んでばかりいるというイメージがあったが、実際はそんなことはなかった。二年生や三年生になったら違うのかもしれないけれど、一年生の今は思っていた以上にやることがある。適当にサボりながら大学生活を送れると思っていたが、大きな間違いだった。


 いつまでもゴロゴロとしていられない。

 私は気が向かないままノートパソコンを用意して電源を入れる。机に資料を用意してキーボードを叩いていると、三十分もしないうちにドアをノックする音とともに仙台さんの柔らかな声が聞こえてきた。


「宮城、いる?」


 立ち上がってドアを開けると、私が口を開く前に「ただいま」と言われる。


「おかえり」

「お腹空いたし、早めにご飯作って食べない?」

「いいよ」


 いくつもある聞きたいことが喉の奥から出てくることはなく、口から出てくるのはいつも通りの言葉だけだ。

 私は部屋から出て、テーブルの横に立っている仙台さんの隣へ行く。


「宇都宮、予定通り来るの?」

「うん」


 約束の日は明後日で、日曜日の昼過ぎに舞香がこの家にやってくる。


 はっきり言うと、舞香と仙台さんが同じ空間にいるという状況は好ましくない。二人が一緒にいるところを見ていると、水の中に絵の具を垂らしたときのような言い様のない気持ちが広がっていく。でも、先月からの約束だし、今さら断るわけにはいかない。


「仙台さん、絶対に変なこと言わないでよ」


 私はなにをするかわからない仙台さんに釘を刺しておく。

 舞香の前で私に触れてきたりはしないと思うが、いらないことは言うかもしれない。


「言うわけないじゃん。宮城が困るようなことは言わないから安心しなって」

「仙台さんのそういう言葉、一番信用できない」

「じゃあ、ピアスに誓おうか?」


 そう言うと、仙台さんがそっと私の耳に触れた。

 耳たぶをもみほぐすように動く指がくすぐったくて、私は彼女の肩を押す。でも、指は私の耳から離れない。


「今じゃなくていい」

「なんで?」


 仙台さんがピアスを撫でて、耳の裏に指を這わせてくる。その手には誓い以外のものがあるような気がして、心臓の音が大きくなる。彼女のことを意識しすぎているだけだとわかっているけれど、耳に神経が集中していく。


 誓わなくていいと言っているのに、仙台さんが唇を耳に寄せてくる。生温かい息が耳の端に吹きかかって、私は彼女の足を蹴った。


「痛い」


 仙台さんが耳から手を離して、一歩下がった。


「痛くなるように蹴ったから」

「手加減してよ」

「手加減したら離れないじゃん」

「そうだけど。誓わなくていいの?」

「今誓ったら、舞香が来る頃に期限切れとか言いそうだからいい。日曜の朝に約束して」


 誓うべき約束の内容も、誓う日も私が決める。仙台さんは油断をすると勝手に約束の内容を増やしたり、減らしたりしてくる。


「相変わらず私の信用がないんだけど」


 仙台さんが不満そうに言って、冷蔵庫を開ける。


「猫がいたらもう少し信用してもいい」


 彼女のことは以前よりも信用しているけれど、なにもかもを信じられるわけじゃない。


「猫って、近所にいる三毛猫?」


 ぱたん、と冷蔵庫が閉まる音が聞こえる。


「そう。私、未だに見たことないもん」

「……ちゃんといるからね?」


 疑われていると思ったのか、仙台さんが困ったように私を見る。そして、「オムライスにしようか」と言った。

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