第162話

「猫、ほんとにいるの? って言うか、もう帰ろうよ。私、猫がどうしても見たいわけじゃないし」


 外へ出て十五分ほどしか経っていないのに、宮城が不満しかない声で言う。

 猫を探しに行こうと言って宮城を連れ出したのは私で、彼女は最初から乗り気ではなかった。


「そんなに慌てて帰ってもすることないじゃん。もう少し歩きなよ」


 歩道に影を作る街路樹の下を歩きながら、宮城を励ます。

 ふらふらと二人で歩いているけれど、道路の端にも車の影にも三毛猫はいない。


 まあ、いないとは思っていたけれど。


 三毛猫を見るのは大学から帰ってくるときで、昼下がりの日曜日にいることがあるのかどうかわからない。


「もう少しってどれくらい?」

「もう少しはもう少し」


 彼女は余るほど時間があっても、用事がない限り私と一緒に出かけたりしない。買わなければいけないものがなければ一緒に買い物に行ってはくれないし、食べたいものがなければ外で食事をしようという話にはならない。


 一緒に出かけるには理由が必要だ。


 だから、たまには宮城と出かけたいという欲求を満たすために、近所でときどき姿を見る猫を探すという理由をわざわざ作った。

 理由なんてなくても出かけられたらいいのにと思う。


 もしも、私が宇都宮なら理由もなく一緒に出かけることができるだろうけれど、私は宇都宮ではないし、宇都宮になりたいわけでもない。


 空を見上げる。

 梅雨が終わっていないとは思えないくらい太陽が輝いている。街路樹を揺らす風すらない町を歩いていると、外よりも家の中にいた方がいいような気がしてくるが、もう少しこの時間を堪能したい。真夏なら干からびて行き倒れているかもしれないけれど、今はそこまでの暑さではないから猫を探し続けることにする。


「仙台さん、近所を見るだけだって言ったのに。嘘つき」


 そう言うと、宮城が私の肩をぐいっと押した。

 三毛猫を見かけるのは、家から五分もしない場所だ。

 今日は家を出てから十五分ほどふらふらと歩いているから、近所と言うには少し遠いところにいるような気がする。


「確かに言ったけど。せっかく可愛い格好してるんだし、少しくらい遠くまで行ってもいいでしょ」


 天気が良くて暑そうだし、スカートの方が涼しいよ。


 そう強く勧めた結果、宮城は私と同じようにスカートをはいている。メイクをさせてもらえなかったのは残念だけれど、可愛い格好をさせることができたからそれなりに満足はしている。


「これ、仙台さんが着ろって言ったんじゃん」

「まあ、そうだけど。もう少し歩けばファミレスあるし、寄ってく?」

「やだ。暑いし、帰りたい」


 眉間に皺は寄っていないが、声が低い。

 本当に帰りたそうで、私はそんな宮城をケチだと思う。


「じゃあ、ファミレスに行かない代わりにもう少し探そうよ。猫可愛いし、機嫌が良ければ撫でさせてくれるしさ」


 宮城が帰りたくても、私はまだ帰りたくない。


「ほんとに猫いるの?」

「いるって」


 たぶん、この辺りに猫はいない。

 三毛猫を見かける場所から離れてしまっている。

 時間もいつも見かける時間とは違う。


 もしかしたらこの辺りに出没することがあるのかもしれないし、早い時間に姿を見せることもあるのかもしれないが、確率は低そうだ。


 自分を不誠実だと思う。

 見つかる確率が低そうなことを宮城にさせている。

 でも、これくらいの不誠実さは許されるはずだ。


 節度があるとは言い難いけれど、私はある程度の我慢をしてなんでもないルームメイトを演じている。普段は宮城の意思を尊重して生活しているのだから、この程度のイベントを楽しんでもいいと思う。


「そうだ。ボルゾイってさ、町の中を普通に散歩してるの?」


 歩くスピードが目に見えて落ちている宮城に問いかけて、これ以上“帰る”という言葉を口にできないようにする。


「してると思うけど、なんで?」

「ボルゾイが散歩してるところ、生まれてから一度も見たことがないから」

「私も見たことない」

「そっか」


 会話があっさりと途切れて、車道の向こう側に視線を向ける。ボルゾイが歩いているということはないし、三毛猫が歩いていることもなかった。


 私は宮城の“帰る”という言葉を封じるべく、会話の糸口を探す。大学のことや家の中のことをいくつか考えて、ついさっき頭に浮かんだ名前を口にする。


「宮城、宇都宮っていつ来るの?」

「……まだ決まってない」


 宮城が、どこからか聞こえてくる子どもの声にかき消されそうなほど小さな声で言う。


「もう七月だし、早く決めなよ」

「仙台さんこの前いつでもいいって言ってたけど、本当にいつでもいいの?」


 いつでも良くない。

 もしくは宇都宮には来て欲しくない。


 宮城の声は私にそんなことを言ってほしそうに聞こえるが、そんなことを言うつもりはない。私はどちらかというと、宮城が残念だと思うようなことを告げる。


「いつでもいいけど、できれば今度の日曜日がいいかな。後半になるとお互い試験でしょ」

「……わかった」

「で、いつにするの?」

「舞香と相談して決める」


 私の意見はどうでも良さそうに宮城が即答する。

 ただ、私の意見を取り入れるつもりがなくても七月の後半にある試験のことを考えたら、予定はおそらく今度の日曜日になる。それでも宇都宮の意見を尊重しようとしている宮城にもやもやとした気分になる。宮城が友だちを優先することくらいわかっていたが、楽しくはない。


「決まったら教えて」


 水底に沈んでいく石のように暗い場所へ行こうとする気持ちを引っ張り上げて、足を一歩前へ出す。


 右、左、右。

 足を交互に出してゆっくりと進んでいく。


 宮城が私の隣を歩く。

 足が動くたびに、涼しげな色をした宮城のスカートが揺れる。


 どんなものでも宮城が着たいものを着ればいいけれど、できることならスカートから伸びる足を見たいと思う。足フェチではなかったはずだが、宮城の命令のせいで足が好きになっていてもおかしくはない。


「仙台さん、なに見てるの?」


 足。

 と言ったら、蹴られそうだと思う。


「歩道のタイル」


 私は視線を上げて、足に近い部分を答える。


「面白い?」

「結構ね」


 ――宮城と宇都宮のことを考えているよりは。


 本当に言いたいことは心の中にしまって、前を見る。

 足を見てばかりいるわけにもいかない。

 でも、前を見ていても面白くはなくて宮城を見ると、行進するほど元気よくというわけではないけれど、足の動きに合わせるように腕が動いていた。


「そうだ、宮城」

「なに?」

「手、繋ごうか」


 私は動いている宮城の腕をつつく。


「やだ」

「なんで?」

「暑いから」

「じゃあ、家に帰ったら繋いでもいいんだ?」

「そういう意味じゃない」


 思った通りの答えが返ってくるが、思った通りの答えを返してこない宮城は気持ちが悪いからこれでいいと思う。


「猫いないし、帰ろうか」

「もう少し探すんじゃなかったの?」

「涼しい方がいいし、早く帰ってもいいかなって」


 宮城よりも愛想の良い三毛猫を彼女に見せられないのは残念だけれど、このまま猫を探していても見つかるとは思えない。私は家へ帰る道を選んで歩く。


「好きにすれば」


 素っ気ない声が聞こえてくる。

 私は足を速める。

 宮城が同じスピードで隣を歩く。

 早く帰ろうと思う。

 家の中で手を繋いでもなにも変わらないけれど。

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