第161話
私はマグカップを手に取って、半分よりも少なくなった中身を見る。
宮城は用もなく私の部屋にやってきたりはしない。
今、彼女が隣にいるのは紅茶を飲むという用があるからで、その用が済んでしまえば部屋へ戻ってしまう。
「宮城ってさ、動物好きでしょ」
のんびりと紅茶を飲んで、マグカップをテーブルの上へ戻す。
宮城の紅茶がどれくらい残っているかわからないが、彼女は私が紅茶を飲み終えるまでは部屋から出ていったりしない。
「別に好きなわけじゃない」
「そう? 犬、詳しいじゃん。ボルゾイとか、私知らなかったし。あとティッシュカバーもワニとかカモノハシだしね」
キッチンから私の部屋へ引っ越してきたカモノハシのティッシュカバーを引き寄せて頭を撫でると、横から手が伸びてきてティッシュを一枚抜き取った。
「犬もティッシュカバーもたまたまだから」
素っ気ない声からは、本当にたまたまボルゾイを知っていただけなのか、たまたま動物のティッシュカバーを選んだだけなのかわからない。でも、好きでもないものを詳しく覚えてはいないだろうし、ティッシュカバーに選んだりしないと思う。
「じゃあ、好きな動物いないの? たとえば犬は?」
「普通。仙台さんは?」
私はマグカップを置いて、猫のような宮城を見ながら答える。
「猫の方が好きかな」
「そうなんだ。犬っぽいから犬が好きって言うのかと思った」
そう言うと、宮城がティッシュをもう一枚抜き取り、二枚をくるくると丸めて小さなボールを作った。
「そんなに犬っぽくないと思うけど」
「犬だと思う」
宮城が断言して、手にしたティッシュのかたまりをゴミ箱に向かって投げる。
ポコン。
ティッシュのボールはゴミ箱に弾かれて、床の上をコロコロと転がっていく。
「仙台さん、取ってきて」
宮城がティッシュのかたまりを指差して当たり前のように言う。
「やらないから、そういうの」
「言ってみただけだから別にいい」
素っ気ない声が聞こえてくるが、宮城は動かない。当然、ティッシュも動かないから、白いかたまりが部屋に転がったままになっている。
「宮城、ちゃんと自分で捨てなよ」
「捨てたいなら、仙台さんが捨てれば」
あまり機嫌が良くないらしく、宮城が私を見ずに言う。
どう見ても宮城は自分でティッシュを拾う気がない。犬と主人ごっこをしたいわけではないが、私は渋々立ち上がって投げられた白いかたまりを拾ってくる。
「はい、どうぞ」
ティッシュで作られたボールを手渡して、宮城に「気がすんだ?」と尋ねる。
「気がすまない」
渡したばかりのティッシュのかたまりが床に置かれる。
「他にもやらせたいことがあるわけ?」
「お手」
完全に私を犬扱いした命令とともに、宮城がこちらに向かって手を出してくる。
馬鹿馬鹿しい。
宮城に付き合う必要はない。
そう思って、すぐに考え直す。
私は言われた通りに右手を出して、宮城の手のひらにのせる。そして、その手を掴んで引っ張った。油断していた宮城の体が私の方に傾く。そのまま捕まえて抱きしめる。
「もっと命令していいよ」
近くなった距離と伝わってくる体温に心臓が少しうるさくなったけれど、気づかないふりをする。
「もうしない。大体、さっきの命令じゃないから。離してよ」
宮城があからさまに嫌そうな声を出して私の体を押してくるが、離すつもりはない。
「命令みたいなものじゃん。離す以外ならなんでもきくから、命令しなよ」
宮城は命令をしてくるどころか、なにも喋らない。
私はこの距離のままでいたいだけで、彼女が命令をしてくるかどうかは関係がない。宮城が迷っていればその時間の分だけ、体温が交わる距離でいられる。
「宮城」
耳元で名前を呼ぶと、小さな声が聞こえてくる。
「……じゃあ、お腹触らせて」
そう言うと、いいと言う前に宮城がカットソーの上から私のお腹を触った。予想していなかった行動に思わず自分から抱き寄せた宮城の体を押し離すが、彼女の手だけが服を掴んでいて離れない。
「なに、その命令」
「さっきお腹触らせてくれるって言ったじゃん」
宮城が不満そうにカットソーを引っ張ってくる。
確かにさっき「仙台さんがお腹撫でさせてくれるなら考える」と言ってきた宮城に「いいよ」と答えたけれど、あれを本気で言っているとは思わなかった。
そんなことを本気で言ってくる彼女を想定していなかったから驚いたが、交換条件が生きているならお腹の一つや二つ触られるくらいかまわない。
「代わりに宮城のお腹撫でてもいいなら、どうぞ」
「仙台さんのお腹だけ触る。私のお腹は触らせない。命令していいって自分で言ったんだから、いうこときいてよ」
交換条件ではなく、後から言い出した命令の方で私を従わせようとするのは自己中心的で大人げない。これは聞き入れる必要のない命令だ。
わかっている。
でも、私はそういう宮城を突っぱねることができない。
「……まあ、いいけど。触りたかったら触れば」
これは高校時代についた癖のようなもので、宮城が間違っているとか、正しいとか、そういうことは関係なく最後には彼女の言葉を受け入れることになる。
それに、宮城は意気地がない。
どうせちょっとだけ触ってもういいと言い出すに決まっている。
「どうするの?」
問いかけると、宮城が掴んでいた服を離した。そして、そろそろと服の中に手を入れてきて、子どもがぬいぐるみかなにかを触るようにぺたぺたとお腹を触ってくる。
犬のように扱われているような気もするけれど、宮城が私に興味を持ってくれることは嬉しい。
「面白い?」
下を向いている宮城に尋ねると、少し低い声が返ってくる。
「普通」
素っ気ない声とは裏腹に、手はぺたぺたとお腹を触り続けている。脇腹に手を置かれるとくすぐったいが、伝わってくる手の感触や体温は心地がいい。
すぐに離れると思っていた手はなかなか離れていかず、私のお腹を触り続ける。おもちゃを扱うようだった手つきが、上質な布を撫でるようなものに変わっていく。指先がするすると脇腹を這って、上へと向かう。肌の表面だけを柔らかく撫でる指先は、くすぐったいを通り越して別の気持ちを呼び起こそうとする。
私たちの距離は変わらない。
一定の距離があって、宮城の手だけが私に密着している。
手は胸の下にまで伸びてきて、すうっと下りていく。
「……なんか、触り方エロくない?」
宮城の触り方は理性を留めているネジが緩むようなもので、彼女が望んでいないであろうことをしてしまいたくなる触り方だ。私は触られ続けてもいいけれど、宮城にとってはマズいと思う。
「エロくない」
宮城が強い口調で言って、腰骨の少し上にあった手を動かす。するりと肌の上を滑る手を捕まえると、そのままお腹がぎゅっと押された。
「宮城。食後に胃を押されるのはつらいんだけど」
食べた物が逆流するほどではないけれど、押さえられ続けたくはない。
「だったら、手離して」
言われた通りに手を離すと、また触り方がもとに戻る。
今、宮城がなにを考えているのか気になる。
私が宮城を触ったときに感じるように、宮城も気持ちがいいと思うのか、もっと触りたいと思うのか知りたい。そして、どうして触りたいと思ったのかを知りたい。
でも、聞いている余裕はない。
宮城の手は胃よりも上、下着の端に触れている。手はそこで止まって動かないから、それよりも上に進むつもりはないようだけれど、ネジがどこかに行ってしまう前に宮城を止めた方がいい。
「宮城、そこはお腹じゃない」
今度は服の上から強く宮城の手を掴む。
「自分からお腹を触ってもいいって言っておきながらなんなの」
不機嫌な声が聞こえてくる。
「どうしてもそのまま触っていたいならそれでもいいけど、知らないよ」
「知らないって?」
「宮城がどうなっても知らないってこと」
下を向いたまま私の方を向かない宮城の髪を軽く引っ張る。
私を見なかった宮城が顔を上げて、目が合う。
顔に唇を寄せて犬のように頬を舐める。
「このままだと理性がどこかに行く」
耳元で囁いて掴んでいた手を解放すると、服の中から慌てたように手が出ていく。
「変態。もう部屋に戻る」
私よりも変態という言葉に相応しい行為をした宮城が、床に置いてあったカモノハシで私を叩いてくる。
「待ちなよ。私、まだ全部飲んでない」
私はゆっくりと冷めた紅茶を飲む。
宮城はティッシュで頬を拭っただけで、私から逃げたりもしないし、ピアスに約束をしろとも言わない。でも、また下を向いて床とにらめっこをしているから、彼女がどんな顔をしているかわからなくなってしまった。
「仙台さん」
「なに?」
「……私はどんな動物なの?」
小さな声で宮城が言う。
「んー、猫かな」
野良猫とは言わないでおく。
「猫? なんで?」
「宮城、寒がりだから。こたつがあったら一日中入ってそう」
無難な理由を口にしてから、一つ提案をする。
「冬になったらこたつ買う?」
「絶対にいらない」
宮城が即答する。
予想通りの答えに、私はマグカップを空にした。
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