第164話

 駅へ向かう足が重い。

 理由は簡単で、そこが舞香との待ち合わせ場所だからだ。


 気を紛らわしたくて三毛猫を探すけれど、どこにもいない。


 そんなに早く歩いたつもりはないのに駅にはあっという間に着いてしまって、することもなくぼんやり待っていると舞香の声が聞こえてくる。


「志緒理、待った?」

「今きたところ」

「迎えに来なくても大丈夫なのに」

「近いし、気にしなくていいから」


 駅から家までは迷うような道ではないけれど、迎えに来た方が安心できる。私は「いこっか」と声をかけて、舞香と一緒に歩き出す。


「なんか元気ない?」


 舞香の話に相づちを打ちながら歩いていると、隣から心配しているとわかる声が聞こえてくる。


「暑いだけ」


 本当のことを言うわけにはいかないから、適当な理由を告げる。

 仙台さんとルームシェアをしている家に舞香が来ると思うと、緊張するし、気が重い。


「仙台さん、今日いるんだよね?」


 日陰を選びながら歩いている舞香が私を見る。


「いるよ。パンケーキ焼くって張り切ってた」


 舞香は仙台さんに会いたがっていたから、彼女は家で私たちを待っている。


「パンケーキ? 仙台さんって料理上手なの?」

「上手だと思う」


 仙台さんが作る料理はいつも美味しい。

 きっと、私以外の人が食べても同じ感想を持つはずだ。


 でも、ほんの少し、舞香には食べさせたくないと思う私がいる。心が狭いと思うけれど、この気持ちを穏便に処理する方法がわからない。舞香は大事な友だちで、この先もずっと友だちでいてほしい人なのに、こんなことを考えてしまう自分が嫌になる。


「そういうの準備されてると思うと、お客さんって感じでちょっとわくわくする」


 舞香が楽しそうに言う。

 私も彼女と同じくらい楽しい気持ちになるべきなのに上手くいかない。笑顔を作って、楽しそうにするのが精一杯だ。


「お客さんって感じじゃなくて、今日の舞香は本当にお客さんなんだからおもてなしされてよ」

「じゃあ、そうする」


 弾んだ声が聞こえる。

 たわいもない話をしている間も足は動いていて、一歩、一歩、家に近づいていく。


 家に向かって歩いているのだから近づくのは当たり前だが、遠ざかればいいと思う。なにかに足を引っ張られているような気がするほど、いつもは感じない重力を感じる。


 朝、仙台さんに『変なことは言わない』とピアスに誓ってもらったから、彼女についてはそこまで心配しなくていいはずだ。舞香も普段なら人が困るようなことは言わないから心配いらないけれど、今日はわからない。仙台さんが関係することは妙に鋭いから不安になる。


 大丈夫、絶対に大丈夫。


 心の中で呪文のように唱えていると、舞香が「猫」と言って足を止めた。


「猫?」

「ほら、あそこ」


 舞香が少し先の日陰に人差し指の先を向ける。

 指し示された場所に視線をやると、そこには確かに猫がいて、それはどこからどう見ても三毛猫だった。


「ほんとにいるんだ、猫」

「ほんとにって?」

「仙台さんから近所に猫がいるって聞いたんだけど、見たことがなくて。この前、一緒に探しに行ったときもいなかったのに」

「探しにって、仙台さんと?」


 舞香に聞き返されて、言わなくてもいいことを喋ったことに気がつく。


 仙台さんはわざわざ猫を探しに行くような人には見えないけれど、実際にあったことだ。舞香に話して困るようなことはなにもない。

 別に、これは普通の会話だ。


 わかっている。

 でも、舞香の前で仙台さんとの間に起こった出来事を話していると思考がまとまらなくなる。


 仙台さんと猫を一緒に探しに行ったことはおかしなことではないのに、どういうわけか後ろめたい気持ちになってしまう。


「そう。日曜日に仙台さんが急に猫探そうって言い出してさ」


 なるべくなんでもないことのように話す。


「志緒理って、仙台さんといつもそんなことしてるの?」


 舞香が私の言葉を待たずに中腰になって、猫を「おいで」と呼ぶ。でも、猫は来ない。

 日陰でぺたりと伸びているだけだ。

 私は猫を見ながらなんでもない話を続ける。


「してない。この前はたまたま。私がその猫見たことがなかったから」


 私の声に反応したわけではないだろうけれど、猫の耳がぴくりと動いた。


「なんか仲いいね。っていうか、それほぼデートじゃん」

「仙台さんとデートするわけないじゃん。大体、デートで猫探したりしないと思うけど」


 少し声が大きくなってしまって、それに反応するように歩道で伸びていた猫が体を起こす。そして、駆け出した。


「あー、逃げた」


 舞香が声を上げ、猫が私たちの横を通って走り去る。


「撫でたかったのに」


 残念そうな舞香の声とともに私たちは歩き出す。

 猫は仙台さんには撫でさせるのに、私たちには撫でられたくないらしい。


 思っていたよりもケチな猫だ。

 愛想が悪い。


 そんなことを考えていると、舞香が「さっきの話だけど」と言って私を見た。


「休みの日に猫探すのって、同棲してる二人が暇つぶしにするデートみたいな感じじゃない?」


 猫が逃げて、家が近づいてきて、別の話をしてもいいはずなのに舞香が話を戻そうとする。気が進まないけれど、無理矢理話を変えると隠したいことでもあるみたいになるから戻された話に答えを返す。


「そんなことないと思うけど。舞香って同棲してる相手が猫探しに行こうって言ったら、それがデートになるの? 私はデートじゃなくて猫探してるだけじゃんって思うけど」

「同棲してる二人で行ったら、猫探しでもなんでもデートでしょ」


 舞香が即答して、そういう相手はいないけど、と付け加えた。


「そうだ、志緒理。デートと言えば、亜美! 彼氏と別れたって言ってたよね」


 仙台さんの話はそこで終わって、私たちは一人地元に残った亜美の話をしながら歩く。猫がいた場所から五分もしないうちに家に辿り着いて、玄関のドアを開ける。靴を脱いで舞香と一緒に共同スペースに向かうと、仙台さんがボウルを持って立っていた。


「ただいま」


 声をかけると「おかえり」と返ってくる。


「今からパンケーキ作るの?」

「そう。焼きたての方が美味しいし、帰ってくるの待ってた」


 仙台さんが卵を割りながら言って、舞香に「久しぶり」と声をかけた。


「家出事件から結構経ったもんね」


 舞香がしみじみと言って、仙台さんがあははと笑う。


「あのときは本当に助かった。また家出事件があったらよろしく」

「あれ、家出じゃないから。ちょっと舞香の家に泊めてもらってただけだし、変な事件にしないでよ」


 心外だ。

 あれは事件というほどのものではなかった。ちょっと友だちの家に避難していただけで、すぐに帰るつもりだった。でも、二人はちょっとした出来事を大きな事件に仕立て上げて喜んでいる。


「これ、お土産」


 ひとしきり盛り上がった後、舞香が小さな袋を仙台さんに渡す。


「ありがと。気を遣わなくていいのに」

「別にたいしたものじゃないから。中身ただのクッキーだし、二人で食べて」


 舞香がにこりと笑って私を見る。

 二人ではなく私だけで食べると言いたいところだけれど、舞香にそんなことを言っても仕方がない。


「ありがと」


 余計な言葉はつけずにお礼だけを言う。


「私、これからパンケーキ焼くし、二人は部屋で話してたら?」

「え、手伝うよ」


 舞香がボウルの中身を混ぜ合わせている仙台さんを見る。


「一人で大丈夫。宇都宮、宮城の部屋見たいでしょ。あと宮城がいると邪魔になるから連れてって」


 仙台さんがあまりにも失礼なことを言うから、思わず足を蹴りそうになってぐっと我慢する。高校時代なら邪魔にしかならなかったが、今は昔よりは役に立つ。


「じゃあ、志緒理連れて行くから。部屋、どっち?」


 せめて文句の一つでも言いたかったけれど、舞香に腕を引っ張られて自分の部屋に案内することになる。


 二人の連係プレーに太刀打ちできない。

 どういうわけか二人の息が合っている。

 打ち合わせなんてしているわけがないのに、あまりにもスムーズだ。


「少し狭くなってるけど、高校の時と雰囲気変わらないね」


 部屋に入ってすぐに舞香が言う。


「大きなもの以外はそのまま持ってきてるから」

「ワニもいるんだ」

「連れてきた。とりあえず、そこら辺に座って」


 そう広いとは言えない部屋の中を見ている舞香に声をかけると、彼女は私の向かい側に腰を下ろした。


 一つ屋根の下で他人と暮らすことについてのあれこれはもうすでに何度か話しているし、舞香の好奇心を刺激するようなものは仙台さんしか残っていない。だから、仙台さんがいなければ大学にいるときとそう変わらない会話が続く。


 パンケーキが永遠に焼き上がらなければいいと思う。

 でも、そんなことはあり得ない。


 トントン。


 会話が途切れたタイミングで控え目な音が二回響く。

 それは仙台さんがドアをノックした音で、私は一度部屋から出る。


「パンケーキ焼けたけど、どうする?」


 甘い香りが漂う中、仙台さんが穏やかな口調で尋ねてくる。


 私は仙台さんを部屋に入れたくない。

 それは、仙台さんを部屋にいれる最初の日を今日にしたくないからだ。まだ部屋に一度も入れていない彼女を部屋に入れるなら、舞香がいる今日じゃない日がいい。


 できれば共同スペースで食べたいが、舞香が変に思わないか気になる。

 どうしようか考えていると、部屋のドアが開いて中から舞香が顔を出した。


「どうしたの?」

「パンケーキ焼けたって」


 考えがまとまらないまま舞香に伝えると、私の部屋でパンケーキを食べると思っている彼女から「運ぶの手伝う」と返ってくる。


 どうしよう。

 運ばなくていいとは言えない。


 言葉に詰まって仙台さんを見ると、「そうだ」と思い出したように言った。


「宇都宮、私の部屋も見る?」

「見たいけど、いいの?」

「いいよ。じゃあ、パンケーキは私の部屋で食べよっか」


 仙台さんがにこりと笑った。

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