第89話

 旧校舎を出て、昇降口へ向かう。


 学校に誰もいないわけではないけれど、誰もいないのではないかと錯覚してしまうほど廊下は静かだ。これで暗かったら怖くなって走り出していたかもしれないが、今日はまだ外が明るい。急ぎ足くらいのスピードで歩いて、誰ともすれ違わずに下駄箱の前まで辿り着く。


 靴を履いて、外へ出る。

 風の冷たさに震えながら、振り返る。

 仙台さんはいない。


 当たり前だ。

 十分してから来てと言ったのは私で、仙台さんはそれを守る。彼女がそれを守りたくないなら、目的地が一緒だからと言って私の隣にいるはずだ。


 今日は仙台さんを呼び出している。一緒に帰れば時間は潰れるけれど、私たちは学校では関わらない約束だ。


 ふう、と息を吐く。


 辺りが白く染まるほどではないけれど優しさの感じられないひんやりとした空気に、去年の今ごろよりも気温が低いとわかる。


 仙台さんがいないと寒い。


 ――違う。


 音楽準備室では仙台さんが近すぎて暑いくらいだったけれど、あれは他人の体温が近くにあったから暖かかっただけだ。仙台さんじゃなくても暖かかったはずだし、今、寒いのは外が寒すぎるだけで仙台さんがいないからじゃない。


 私は前を向く。

 のんびりしていたら、仙台さんに追いつかれてしまう。


 急に抱きしめてきたことだとか、私がここに残ることを否定するような言葉だとか。


 仙台さんがしたこと言ったことすべてが気になるけれど、そんなことを気にしている場合じゃない。深く考えてしまうと動けなくなってしまうし、仙台さんがすることすべてに意味があるように思えてくる。


 私は校門を出て、息が切れない程度の急ぎ足で家へ向かう。


 街の中、何人もの人とすれ違って、いくつもの店の前を通り過ぎる。そして、週に何度か寄るスーパーの前で足を止める。


 今日は冷蔵庫の中になにもないんだっけ。


 冷凍食品もなければ、レトルト食品もインスタントラーメンもない。簡単に食べられそうなものはまったくなかった。


 仙台さんが全速力で走ってくるなんて馬鹿みたいなことをしなければほんの少し時間があるから、ちょっとしたものを買うくらいの余裕はある。


 私はスーパーの中へ入って、カゴを持つ。


 キャベツにじゃがいも。

 レトルトのカレーとシチューに、冷凍食品をいくつかカゴに入れる。そして、迷ってから豚肉と鶏肉、カレーのルーも放り込んで会計を済ませる。いつもよりも重い袋を持って外へ出ると、二十分ほど経っていた。


 スマホを見ると、先にマンションに着いたらしい仙台さんからいくつかメッセージが届いている。


 私は返事を送りかけて、手を止める。

 今日あったことを考えると、仙台さんが帰ってしまえばいいと思う。


 十分してから音楽準備室を出てと言うよりも、今日は来なくていいと伝えた方が良かった。急に今までしなかったようなことをしてきた仙台さんと、どういう顔をして会えばいいのかわからない。


 私は、普段買わない物が詰まった袋をぶんっと振る。


 腕にかかる重みに歩くスピードが落ちる。

 のろのろずるずると進まない足を引きずるように歩くと、少しずつ家に近づいていく。マンションの明かりが見えて、エントランスへ入る。すると、不機嫌そうな声が聞こえた。


「十分先に出たわりに遅くない? スマホ見てないでしょ」


 聞き慣れた声に壁際を見ると、いなくてもおかしくない仙台さんがいる。鼻の頭がちょっとだけ赤くて、暑がりの仙台さんが寒そうに見えるほど待たせたらしいことがわかった。


「待ってたんだ」

「そりゃ、待つでしょ。十分経ってから来いって言って、居留守使ってたら驚く。今日寒いんだし、寄り道なんてしてこないでよ」


 寒かったなら帰ればよかったのに。


 そう言いかけて、私は手に提げた袋を彼女に見せる。


「これ」

「なに? 荷物持ちしろってこと?」

「仙台さんが作る夕飯の材料」


 私は荷物を仙台さんに押しつけて、ロックがかかっているエントランスのドアを解錠する。


「私、今日夕飯作るんだ?」

「命令だから」


 反論できない言葉を口にすると、仙台さんがなるほどねと呟いて歩きだす。二人でエレベーターに乗って、六階で降りる。仙台さんは手を繋いできたり、お喋りをしたりしない。私たちは玄関で靴を脱いで、キッチンへ直行する。


 電気とエアコンをつけると、仙台さんが袋の中のものを片付け始める。気まずくはないけれど、話すことはない。仙台さんは音楽準備室で私を抱きしめてきたとは思えないほど普通だ。


 大体、彼女はなにかあってもなにもない顔をしている。いつもはそういう仙台さんに苛つくけれど、今日はほっとする。なにかあるような顔をされたら、一緒に居づらい。


 私は片付けが終わるのを待って、彼女に五千円を渡す。


「それ、いらないって言ったら?」


 五千円を初めて見るみたいな顔をして仙台さんが言う。けれど、これは儀式のようなもので、五千円を渡さなければ私たちの関係は成立しない。対価がないままここで仙台さんが食事を作り始めたらそれは命令ではなくなってしまうし、卒業しても一緒にご飯を食べるという彼女の馬鹿みたいな話に影響されたようにも見えてしまう。


 今日、食事を作ってもらうのはそれとはまったく別の話だ。


 たまには誰かが作ったものを食べたい。


 そう思っただけだ。


「帰りたいなら、受け取らなければいい」


 私が行き場を失いかけている五千円をしまおうとすると、仙台さんがそれをぴっと引っ張った。


「ありがと。今日は夕飯を作るんだっけ」


 五千円を財布にしまった仙台さんに問いかけられる。


「そう」

「先に作って食べてから勉強でいい?」

「いいよ」

「で、なに作ればいいの?」

「適当に作って」


 軽い気持ちでそう言うと、冷蔵庫の中を覗いていた仙台さんが冷蔵庫ではなく私を見た。


「適当って。わざわざ食材買ってきたってことは、なにか食べたい物があるんじゃないの?」

「なんでもいい。料理しないし、なに買ってくればいいかわからないから適当に買ってきただけ」

「ノープラン過ぎない?」

「だって、わかんないもん」


 素直に答えると、仙台さんがうーんと唸る。そして、冷蔵庫をパタンと閉めて立ち上がった。


「私だって料理が得意なわけじゃないし、適当に買い物してきてそれで適当に食事を作ってって言われても無理なんだけど」

「じゃあ、買ってきたそれ温めれば」


 私は、カウンターテーブルの上に置かれたレトルト食品を指さす。


「温めてもいいけど……。それだと夕飯作ったって言わないし、カレー作ろうか。じゃがいもとお肉あるし。玉ねぎも人参もないけどいいでしょ」


 命令をした本人がそれでもいいと言っているのだから、レトルトで済ませてしまえば楽だと思う。でも、変に律儀なところがある仙台さんは、命令をレトルトで済ませることを良しとしない。そういう彼女の少し真面目なところは嫌いじゃないけれど、時々面倒だ。


 なんでも適当にしてくれたら、私の進路に口を出してくることもない。その方が余計なことを考えなくていいはずだ。


「まかせる」


 言いたいことはいろいろあるけれど、とりあえず仙台さんの作りたいものを作ってもらうことにして、私はキッチンを出る。カウンターテーブルの椅子に座り、リビング側から仙台さんを見る。


 一度決めてしまった彼女に何を言っても無駄だ。


 その証拠に私がまかせると言う前から、仙台さんは鍋や包丁を並べてじゃがいもを洗っている。


 仙台さんが言う『一緒にご飯を食べる』という行為に料理を作ることが含まれているとは思わないけれど、誰かが料理を作っている姿を見るのは悪くない。この家に私以外の誰かがいることに安心する。


 そして、私はその誰かが仙台さんだということを望ましいことだと思っていて、こういうことが当たり前のように続くことも望ましいことだと思っている。でも、仙台さんが作る当たり前は、彼女の気まぐれである日突然なくなるかもしれないものだ。


 今日はそんな気分でも、明日には変わってしまうかもしれない。


 そう思うと、少し気持ちが重くなる。

 それに仙台さんを見ていると、茨木さんと話を合わせるために雑誌を読んでいるように、私に合わせてくれているだけのようにも見える。私に合わせるメリットはなさそうだけれど、そう考える方が自然だ。


 私は皮をむかれ、刻まれ、形を変えたじゃがいもを炒めている仙台さんに問いかける。


「……仙台さんはここに、残らないの?」


 勇気を出して、というほどじゃない。


 でも、聞きたかったけれど聞きにくかったことだから、口がなかなか動かなかったし、声が詰まった。そのせいか、とても大切なことを言ったような口調になってしまって、言わなければ良かったと少し後悔する。


 仙台さんはなにも言わない。

 聞こえないほど小さな声で言ったつもりはないけれど、仙台さんはカレーを作り続けている。


 返事がないからといって、催促するつもりはない。


 カウンターテーブルに額をごつんとつけると、仙台さんの声が聞こえてくる。


「それは、私にここに残ってほしいってこと?」

「質問してるの、私なんだけど」


 顔を上げて仙台さんを見ると、サラダを作るのかキャベツを手にしていた。


「ここの大学には行かない」


 私が口にしたぼんやりした質問は、しっかりと意図が伝わっていて想像通りの答えが返ってくる。わかっていたけれど、自分の考えを曲げない彼女に文句を言いたくなる。


「……一人暮らしならここでもできるじゃん」

「ここではしたくない」


 仙台さんが短く答えて、キャベツを刻み始める。そして、トントンという音に紛れるくらいの声で続けた。


「宮城と一緒にご飯食べるのも、あと――。あと何ヶ月だっけ?」


 わざとらしく尋ねてくる。


「自分で考えれば」

「三月の初めに卒業式で二月は学校ほとんどないし、十二月と一月くらい?」

「たぶん」


 卒業式はすぐというほど近くない。


 それでも、二月になったら仙台さんが来なくなるかもしれないと思うと今から食事をすることが憂鬱になる。この部屋は、片側が空いているだけで寒い。ただそれだけのことだけれど、仙台さんは隣にいるべきだと思う。それが当たり前になっているのだから、当たり前のようにいてくれないと困る。


 こんなことになるなら、夏休みのあの日にどうにかなってしまえば良かったと一瞬思う。ああいうことはするべきじゃないことだと結論付けてはいるけれど、どうにかなっていればつまらないことを考える前に舞香と同じ大学を受けると仙台さんに言えたような気がする。


 でも、現実は違う。


 私たちはどうにもならなかったし、私は未だにこの先を決められずにいる。そもそも、合格するかどうかはわからないことで、受かったら決めればいいと選ぶことから逃げ続けている。


 ただ、この家は仙台さんとの思い出が多すぎて、この家から離れたいと思っている。


 それだけが変わりそうにないことだった。

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