宮城のことが知りたい

第90話

 宮城を抱きしめた。


 それはたった二週間ほど前のことで、それほど時間が経ったと言えない。でも、鮮明だった記憶は急速にぼやけ、腕の中にあった感触は思い出せないくらい不確かなものになっている。


 あの日、宮城は大人しく腕の中にいたけれど、もうあんなことはないような気がする。そう考えると、もっとしっかりと宮城の感触を記憶に刻んでおくべきだったかもしれない。


 彼女のカットソーとブラウスが入っているチェストの中に記憶も並べて、しまっておけたら良かったと思う。


 そんなことを考える私は、随分と病んでいるのかもしれない。


 嫌になるな。


 夜中にはまだ早い時間、問題集を解いていた私はペンを机の上に転がす。コロコロと転がったペンはノートを超えて、教科書に当たって止まる。


 中間テストが終わってゆっくりとする間もなく期末テストがやってくるせいで、机に向かっている時間が延びている。ずっと勉強ばかりしているような気がするが、実際に勉強ばかりしているから気のせいではない。


 そこに受験というイベントも加わっているから、さすがに気が滅入ってくる。


 勉強は嫌いではないけれど、受験というイベントは早く終わってほしいと思う。でも、受験が終われば、宮城との約束がある卒業式がやってくる。今の私は、宮城と会えなくなることを望んでいない。


 私は、宮城があまり触らなくなったペンダントに触れる。


 ブラウスの三つ目のボタンを外せと命令されるか、宮城が外すかのどちらかによってペンダントを確かめられてはいるが、彼女が触る回数は減っていた。そのぶん、私は料理を作らされている。


 ペンダントを触られたいわけではないけれど、触られないのも落ち着かない。


 つけたら外せなくなる呪いのアイテムにも似たペンダントは、ずっと私を縛り続けている。このペンダントのせいで、くだらないことばかり考えているようにも思える。


 私は両頬を軽くパンと叩いて、淀んだ空気を断ち切る。


 立ち上がって、カーテンをほんの少しだけ開ける。

 窓を見ると、大きな雨粒が風で叩きつけられていた。


 勉強を始める前から聞こえていた雨音は随分と大きくなっていて、風音も加わっている。その音は静かな部屋にいると怖いくらいで、もっと寒くなって雪に変わってしまえばいいと思う。


 私は椅子に座って、スマホを手に取る。


 こんなとき、宮城はなにをしているんだろう。


 彼女に呼び出された日、私が帰るときに宮城以外の誰かがあの家にいたことはなかった。両親がなにをしている人なのか知らないし、何故、いつもいないのかも知らない。そして、怖がりだという宮城がこういう夜に怖いと思うかどうかも知らなかった。


 私はメッセージアプリを立ち上げて、宮城の名前を表示させる。


 少し迷ってから、電話をかける。

 呼び出し音が二回、三回と増えていく。

 六回鳴ったところで諦めて電話を切ろうとしたら、宮城の声が聞こえた。


「……仙台さん?」

「うん、そう」

「こんな時間になに?」


 なに、と聞かれても困る。

 はっきり言えば、用もないのに電話をかけた。


 でも、それをそのまま宮城に伝えたら怒りそうだ。


「今日、天気悪いじゃん。宮城、怖がりだから震えてそうだなと思ってさ」


 電話をかけるきっかけになった出来事をなるべく軽く言う。


「別にそんなに怖がりじゃない。苦手なのはおば……じゃなくて、映画とかテレビのホラー系だけだし、雨とか風は平気」

「雷は?」

「苦手だけど、怖いわけじゃない」

「そっか」


 お化けは怖いらしいが、多少の風雨は怖くないというのは本当のようで、電話の向こうで怯えている様子はない。それは喜ぶべきことだけれど、そうなると宮城となにを話せばいいのかわからなくなる。


 声が聞きたかっただけ。

 ほんの少し心配だっただけ。


 そんなことを言うつもりはないし、思ってもいない。たぶん、きっと、思っていない。でも、せっかくかけた電話を切りたくないとは思っている。


「今、家に一人?」


 気の短い宮城が電話を切ると騒ぎだす前に、長くなりそうな沈黙を埋める。けれど、スマホからはなにも聞こえてこない。


 あまり良い質問じゃなかったな。


 宮城は、自分のことをほとんど話さない。そして、聞いても話をそらしてしまう。


「……そうだけど」


 今した質問はするべきものじゃなかったと後悔しかけた私に、宮城の小さな声が聞こえてくる。


「夜っていつも一人なの?」

「親、ほとんど帰ってこないから」


 そうじゃないかと思っていたが、初めて本人の口から家族の話を聞く。

 どうして答えてくれたのかわからないが、珍しいと思う。


「二人とも仕事?」

「仙台さん、なにか話あるんじゃないの?」


 答えたくない類いの質問だったようで、宮城の声が少し低くなる。これ以上は答えたくないという空気が伝わってきて、私は仕方なく素直に告げる。


「特にないけど」


 こうなると話はぷつりと途切れて、部屋の中は窓の外から聞こえてくる雨と風の音だけになる。


 他にも聞きたいことはあるけれど、宮城は大学のことを聞こうとすると目に見えて不機嫌になる。たとえば今、大学と言ったら、電話を切ってしまうに違いない。


 バランスが悪いと思う。

 私ばかりが宮城に傾いているようで、釣り合いが取れない。


 でも、そんなことを嘆いていても宮城は喋りたいこと以外は喋らないし、沈黙が続く。そして、このまま沈黙が続けば、大学のことを聞かなくても宮城は電話を切ってしまいそうだ。


 さすがに一方的に電話を切られたくはないから、私は自分から告げる。


「もう切った方がいいね」


 じゃあ、おやすみ。


 続けてそう言おうとしたけれど、その言葉は宮城に遮られる。


「仙台さん、もう少しなにか話してよ。怖いわけじゃないけど、外がうるさいし」


 宮城が言い訳のように言ってから、「やっぱり今のなし」と付け加えた。私は即座にそれを否定する。


「なしにするの、なしね。もう少し話すから」

「なに話すの?」

「答えたくないなら答えなくていいけど、宮城って名前で呼ばれたくない理由あるの?」


 気になっていたことの一つで、当たり障りのないものを口にする。


「志緒理って呼ぶの、友だちだけだし」


 そうだとは思っていた。

 私と宮城は友だちじゃない。

 予想していた答えは、当たっても嬉しくもなんともない。


「友だちになったら、呼んでもいいんだ?」


 面白くない答えに質問をもう一つぶつけるが、宮城は返事をくれない。かわりに「葉月って」と私の名前を呼んだ。


 ほとんど呼ばれたことのない呼び方に、どくん、と心臓が鳴る。でも、それはおかしなところで言葉が句切られただけで、質問がくっついてくる。


「――誰が呼ぶの? 友だちだけ?」

「友だちだね。あとは親とか。宮城も呼んでいいよ」

「友だちでも親でもないし」

「言うと思った」


 朝、おはようと挨拶するように、こういうときに宮城が言うことは決まっている。ファーストフードの定番メニューみたいなものだ。友だちを否定する言葉は、宮城の中からなくならない。


 私も友だちという関係にこだわっているわけではないから否定されてもかまわないけれど、すっきりとはしない。


「仙台さん。ネックレス、今もしてる?」


 この台詞も定番に近い。

 宮城はよくペンダントをしているか確認してくる。


「してるよ」

「今、それ触って」

「自分で?」


 宮城から一方的にペンダントを触られることはあっても、自分で触ってと言われたことはない。だから、思わず聞き返した。


「そう」

「いいけど」


 あまりにも自然に言われたせいで、そうすることが当然のように従ってしまったけれど、今は命令されるような時間ではない。でも、断るほどのことでもなくて、私は宮城の言葉に従うことに決める。


 部屋着にしているパーカーの上、ペンダントがあるあたりに手を置く。軽くそこを撫でてから「触った」と告げると、すぐに宮城が言った。


「服の上からじゃなくて、直接触ってる?」

「宮城って、私の部屋に監視カメラかなにか仕掛けてる?」

「そんなわけないでしょ。っていうか、ちゃんと触ってないじゃん。直接触ってよ」

「触るけど」


 ゆったりとしたパーカーの首元から手を入れ、ペンダントのチェーンに直接触れる。部屋が暖かいからか、手もチェーンも冷たくはない。私は、宮城がするように指をゆっくりと滑らせる。


 指先に感じる小さな抵抗を無視して、ペンダントトップに向かって肌と一緒にチェーンを撫でていく。


 くすぐったくはないけれど、自分で触っているとも思えない。

 なんだか落ち着かなくて、息を細く吐く。


「ちゃんと触ってる?」

「触ってるって」


 宮城の声が聞こえるせいで、少し変な気持ちになる。


 自分の指のはずなのに、まるで宮城に触れられているみたいな気がしてくる。


 少し息苦しい。


 指先がチェーンの小さな凹凸を必要以上に感じる。


「ほんとに?」


 スマホから聞こえてくる声が耳を撫でて、鼓膜を震わせる。


 宮城の息遣いまで聞こえてきそうで、私は自分の声ですべてを遮った。


「動画でも送ろうか?」

「いらないし、もう触らなくていい」


 チェーンを撫でる手を止めると、宮城が私を喋らせないように言葉を続ける。


「仙台さん、もう切るから」

「わかった。おやすみ」


 そう言うと、雨と風の音に負けそうなくらい小さな声で宮城が「おやすみ」と返してきた。

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