第8話
仙台さんが細くて綺麗な指先でつまんだトリュフは、ぴたり、と唇にくっつく。彼女の指ごと食べてしまおうと口をもう少し大きく開けると、舌先にチョコレートが触れて粉砂糖の甘さに気を取られる。思わずトリュフに歯を立ててしまい、仙台さんの手首を掴んだ。
「食べないの?」
問いかけは形式的なもののようで、トリュフが私の意思を無視するように押し込まれる。掴んだ手首を離すと、まだ囓ってもいないのに粉砂糖の甘さが口の中に広がった。
チョコレートはあと五個ある。
彼女の指への悪戯は後に回して、チョコレートの塊を口の中に収めて囓る。
美味しい。
甘いけれど、その甘さが口の中にいつまでも残ることがない。舌の上で滑らかに溶けていくトリュフは、何個でも食べられそうだった。
「唇、白くなってる」
仙台さんが笑って、手を伸ばす。
長くて細い指で唇を拭われ、私は彼女の手を払い除けた。
「甘すぎた?」
乱暴に指先を遠ざけたことへの文句ではなく味を尋ねられ、苛立ちを感じる。
学校で見る仙台さんと同じだ。
クラスではいつも笑っていて、怒ったところを見たことがない。
学校ではないこの部屋でも、線を引き、自分だけ違う場所にいるかのように振る舞う仙台さんを同じ場所まで引きずり下ろしたくなる。
「ここ学校じゃないから」
ファンヒーターの設定温度を一度上げて、サイダーを飲む。
「どういうこと?」
「いい人ぶってる」
「ぶってるんじゃなくて、良い人だもん」
仙台さんが恥ずかしげもなく言い切って、笑みを浮かべる。
「ここだと、良い人じゃないでしょ。良い人なら、このチョコくらい私に甘いと思うけど」
「えー、優しいし甘いじゃん。友チョコもってくるくらいだよ?」
「友チョコって、大体私たち――」
友だちじゃない、という言葉は出てこなかった。
きっと、わざわざ口にするようなことじゃないからだ。私たちが友だちであるかどうかはたいした問題ではないし、友チョコが友情の証というわけでもない。
そう、どうでも良いことだ。
「なに? 続きは?」
「もう一個ちょうだい」
誤魔化すように口を開けると、仙台さんは言葉の先を追求することなくピンク色のトリュフをつまんだ。
「これでいい?」
「いいよ」
私は、彼女の指を見る。
仙台さんに足を舐めてと命令した日、指を噛まれた。
その上、噛み跡をなぞるように舐められた。
痛くて、ぞわぞわして。
気持ちが悪いのに、思ったほど嫌じゃなかった。
望んでいない感情を与えられて、同じことを彼女にしようと思ったけれど、仙台さんのように人の足を舐めるなんて絶対に嫌だ。だから、手なら、と思った。
チョコレートを介するなんて回りくどいことをせずに命令するという方法もある。でも、それではつまらない。
不可解な感情は、突然やって来なければならない。
「どうぞ」
柔らかな声に誘われるように大きく口を開け、仙台さんの指ごとトリュフに齧り付く。
チョコレートを噛むにしては強い力を込めて、囓る。
噛んだ肉の柔らかさに、厚いステーキにナイフを入れたときに似た高揚感を覚える。最近、お父さんとステーキを食べたりなんてしていないけれど。
「宮城、痛い」
仙台さんが抗議の声を上げた。
でも、離さない。
骨を感じるほど強く歯を立てる。
「ちょっと、宮城。痛いって」
学校で聞く声とは違う低く強い声が鼓膜を刺激する。
暑くなかった部屋がやけに暑い。チョコレートの甘さに、骨の硬い感触に、もっと、という声が頭の中に響く。
私は、指に立てた歯にもう少し力を加える。
ぎりぎりと皮膚に歯が食い込んでいき、仙台さんの指が小さく震えた。
「宮城!」
鋭い声に、彼女の指を解放する。そして、口の中に残ったチョコレートをゆっくりと味わう。
「……仕返し?」
仙台さんが自分の手を見ながら静かに言った。
怒っているようには見えない。
でも、痛そうには見えた。
「どうだろうね。手、貸して」
トリュフを全て溶かして胃に落とし、催促すると、仙台さんがこれから起こることを察して少し嫌そうな顔をした。けれど、私の言葉に逆らわない。黙って差し出された手は命令したわけではないのに、唇に着地する。
私は、舌先で彼女の指に触れる。
ゆっくりと自分が付けた歯形をなぞると、仙台さんが切りすぎた前髪を引っ張った。
「髪、切った?」
切りすぎたと言っても、ほんの少しだ。
学校で話もしない仙台さんが気づくほど切ったわけじゃない。
私たちの間には、ガンジス川くらいの隔たりがある。――ガンジス川がどれくらいの大きさか覚えてはいないけれど、明確に切り分けられている。
それくらい遠い場所にいるはずなのに、少しだけ切りすぎた前髪に気がつく仙台さんに心がざわつく。
私は返事の代わりに、指を強く噛もうとした。
でも、それよりも早く口の中に指が押し込まれる。
第二関節近くまで入り込んだ指が口内を探るように動く。頬の粘膜に指先が触れ、背骨の辺りがピリピリとする。
制御できない感情がわき上がってくる。
気持ちが悪いくせに、やめて欲しいとは思わないようなおかしな気持ちが胸の中で大きくなっていく。
嫌だ。
私は、口の中を動き回る指を柔らかく噛む。舌を押し当てて指を舐めると、それは強引に引き抜かれた。
「美味しかった?」
何事もなかったように尋ねてくる仙台さんを見る。
彼女も足を噛まれた私と同じように、痛くて、ぞわぞわするような気持ちになったのだろうか。
わからない。
仙台さんには笑顔がぺたりと張り付いていて、感情というものが覆い隠されていた。
期待した反応を得られなかった私は、素っ気なく答える。
「チョコレートの方が美味しい」
「そうだろうね。まだ食べる?」
仙台さんが笑顔を崩さずに言う。
今、起こったことは何でもないことだって思わせるような顔をする彼女が嫌いだ。
痛いと声を上げるくらい指に歯を立てられ、その上、指を舐められて嫌だと思わないはずがない。だから、取り繕うような余裕を彼女から消し去ってしまわなければならない。
「それ」
私は、ココアパウダーらしきものに覆われた茶色いトリュフを指さす。
「口、開けて」
仙台さんはそう言うと、リクエスト通りに三つ目のチョコレートをつまみ上げた。
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