第168話
テーブルの上にはレアチーズケーキとアイスティー。
ある日もあればない日もある食後のデザートを買ってきたのは仙台さんで、彼女はベッドを背に私の斜め前に座っている。
「なんでケーキなの?」
私は彼女の部屋の住人であるカモノハシの頭を撫でながら尋ねる。本当は私の部屋で食べても良かったけれど、夕飯を食べたあと言いだすタイミングもなく仙台さんの部屋に来てしまった。
「試験が終わったからお祝い」
仙台さんはそう言うと、いただきます、と続けてフォークを手に取った。そして、ケーキの先端を崩して口に運ぶ。
「試験終わったのは嬉しいけど、ケーキ食べるほどのこと?」
「食べるほどのことじゃなくても、なにか理由があった方が美味しく感じるでしょ」
「仙台さんがケーキ食べたいだけじゃないの?」
「まあ、そうだけど。美味しいから、宮城も食べなよ」
にこりと笑顔を向けられて、私も「いただきます」と言ってからケーキを一口食べる。
しっとりとした滑らかなクリームチーズと土台のクッキー生地が口の中で混じり合う。
レアチーズケーキは仙台さんが前に一度買ってきたものと同じお店のもので、酸味がきいていてさっぱりとしている。夕飯を食べてからそれほど時間が経っていないけれど、二個でも三個でも食べられそうなくらい美味しい。
「仙台さん、レアチーズケーキ好きなの?」
今日、箱に入っていたのはレアチーズケーキが二つだけだ。
この前は箱にケーキが四つ入っていて、仙台さんは私にレアチーズケーキとショートケーキを取り分けてから、残ったベイクドチーズケーキと苺タルトを食べていた。
「好きだよ」
「レアとベイクドチーズケーキだったらどっち?」
「どっちも。宮城はレアでしょ」
「そうだけど」
あのとき、仙台さんに四つのうちどのケーキが好きなのか聞いたら「苺タルトとベイクドチーズケーキ」と答えた。今日、レアチーズケーキを二つ買ってきたところを見ると、ベイクドチーズケーキよりレアチーズケーキの方が好きなのではないかと思うけれど、仙台さんは本当のことを言わない。
「チーズケーキ以外に宮城の好きなケーキは?」
彼女はいつものように有耶無耶にしようとしている。
本当はどっちが好きなの?
質問に質問を返しても、おそらく仙台さんはまた「どっちも」と答えるだけだ。
彼女の好きなケーキくらい知っておきたいけれど、しつこく聞くようなことじゃない。
「甘過ぎないヤツ」
無駄になりそうな言葉は飲み込んで、質問に答える。
「確かにあんまり甘いと途中で飽きちゃうしね」
そう言うと、仙台さんがアイスティーをごくりと飲んだ。
彼女に関することは、どんなことでも難しく感じる。どっちのチーズケーキが好きかなんてありきたりの質問の答えを聞き出すこともできない。友だちが集まれば話題にでるような好きな人のこともわからないままだ。知りたいという欲求だけが風船のように膨らんでいくけれど、聞きたいことが詰まった風船を彼女に渡すことができずにいる。
「そうだ、宮城」
仙台さんが思い出したように手をパンと叩く。
「夏休みどうするの? 帰らないんだよね?」
「帰らないけど、どうするかは決めてない」
数日もすれば夏休みに入るが、予定は白紙だ。
高校よりも休みが長いのにすることがない。
「じゃあ、一緒にどこか行かない? 宇都宮とは遊びに行かないんでしょ」
仙台さんがさらりと舞香の名前を出す。
あれから二人は今までよりも仲良くなったようで、どちらと話していてもときどき相手の名前が出てくることがある。
「なんで舞香とは遊びに行かないと思うの?」
「宇都宮から夏休みは実家に帰るって聞いたから。結構長く向こうにいるって言ってたけど、予定変わったの?」
「……変わってない。九月になるまで帰ってこないけど」
この部屋で見た仙台さんと舞香は、ずっと前から友だちだったと言ってもおかしくないような雰囲気だったし、気が合うようだったから共通の友だちになればいいと思っている。でも、夏休みの予定を話し合うほど親しくなっているとは知らなかった。
「そっか。だったら、時間有り余るほどあるでしょ」
仙台さんがにこりと笑う。
確かに時間はある。
別に夏休みくらい一緒に出かけたっていいけれど、素直にいいと言いたくない。それは舞香のことが引っかかっているからで、当たり前のように私の友だちの予定を把握している仙台さんに、甘すぎるケーキを食べたときのようなすっきりとしないものを感じているからだ。
知りたい。
舞香とどれくらい親しくて、なにを話しているのか。
二人で会ったという話は聞いたことがないけれど、これからそういうことがあるのか。
知りたいと思う。
でも、そんなことは聞けない。仙台さんの交友関係にそこまで踏み込むべきではないし、聞くことが不自然なことだということもわかっている。
私は目の前にあるレアチーズケーキを大きく崩して、ぱくりと食べる。口の中に爽やかな酸味が広がる。でも、さっぱりとしているはずのクリームチーズがずしりと重く胃にもたれるような味に変わる。
「夏休みくらい二人で遊びに行こうよ」
舞香は私の友だちで、仙台さんと親しくなってもそれは変わらないけれど、親しくなってほしくないと思う私もいる。
「予定はないけど、どこにも行きたくない」
「インドアすぎない?」
「暑いし、わざわざ外に行かなくてもいいじゃん」
こんなことが言いたいわけじゃない。
仙台さんが舞香に近づきすぎるから、なにもかもが気になって上手くいかない。聞きたくても聞けないことが頭の中をぐるぐる回って正しい言葉を口にできない。
すべて仙台さんが悪いと思う。
彼女が親しげに舞香の話をするからこんなことになる。
舞香は私の親友で、特別な友だちだから、仙台さんには舞香と親しくしないでほしいと思っている。このままだと仙台さんに舞香を取られてしまいそうで嫌だ。
違う。
今まで舞香が誰といても気にならなかった。
それなのに仙台さんが間に入ると気持ちの整理ができなくなる。
私は――。
舞香に仙台さんがとられてしまいそうで嫌だと思っている。
これ以上、二人の距離が近づかなければいいと思っている。
二人がどれだけ近づいても、どれだけ親しくなっても、それだけだ。舞香が仙台さんに触れることも、キスすることもないし、仙台さんが舞香に触れることも、キスすることもない。私と舞香は違う。仙台さんのルームメイトは私で、私だけが仙台さんと一緒に住むことができる。わかっているのに、仙台さんの興味が少し他へ移っただけで不安になる。
「まあ、宮城がそこまで言うなら家の中で映画観てもいいけど」
思考を遮るように仙台さんの声が聞こえてくる。
顔を見たくなくて彼女のお皿に視線をやると、レアチーズケーキは消えていた。
私もケーキにフォークを入れる。
少しずつ口に運んで、胃に落とす。
ケーキを食べているはずなのに土を口に含んでいるような気がする。
「なにか観たい映画ある?」
仙台さんが私を気遣うような柔らかい声で言う。
今、私はあまりいい顔をしていないはずだ。眉間に皺が寄っているだろうし、目つきも悪いかもしれない。
「仙台さんが決めていいから」
素っ気なく言って、アイスティーを飲む。
もう、自分の部屋に戻ったほうがいい。
私はお皿を空にして、フォークを置く。
でも、立ち上がる前にテーブルの上に置いていた手を仙台さんに握られた。
「宮城、ケーキ美味しくなかった?」
仙台さんの質問と行動は、まったく合っていない。ここで手を握る必要なんてないはずなのに、手を握ってきた。
いつだって彼女は理由があるとは思えないことをする。
そして、理由なんてあってもなくても、仙台さんの体は柔らかくて温かくて気持ちがいい。仙台さんに触れていると、彼女の興味が私にあると安心できる。舞香のことも気にならなくなる。
だから、仙台さんに触れていたい。
他の誰かじゃ駄目だと思う。
でも、私は彼女のことを“特別”にしたくない。
特別なのはルームメイトという関係だけのはずだ。
私たちは大学を卒業するまでという約束でルームシェアをしていて、それは他の人とはしていない約束だ。でも、私たちの特別には卒業までという期限がある。高校の時にも卒業を期限にした約束をしたが、今度の約束はあの約束と同じように考えられない。彼女自体を特別にしてしまったら、大学を卒業できそうにないと思う。
「部屋に戻るから」
立ち上がりたくて繋がっている手を自分の方に引っ張るけれど、手が離れない。仙台さんを睨むと、笑顔が返ってくる。
「もう少しいれば? 試験終わったし、ゆっくりしていきなよ」
「部屋に戻るって言ってるじゃん。手、離して」
「もう少しここにいるって言ったら離してあげる」
仙台さんは意地悪なことを言ったりすることがあるけれど、今日はやめてほしい。
このまま手を繋いでいたら、私が私じゃなくなる。
「言わない」
私はさっきよりも強く手を引っ張る。
「宮城、危ない。グラス倒れる」
そう言いながらも、仙台さんは手を離そうとしない。
理由もなく繋がれた手にはさっきよりも力が入っていて、彼女の体温をより強く感じる。はっきりと伝わってくる熱にもっと仙台さんに触れたくなる。
「仙台さん」
名前を呼ぶけれど、手は離れない。
だったら――。
私は膝立ちになる。
理由もなく手が繋がれて、理由もなく繋がれ続けているのだから、これからすることにも理由がなくていい。
仙台さんの唇に自分の唇を重ねる。軽く押しつけると、手よりも柔らかな感触に混じるようにして熱が伝わってくる。仙台さんがすぐに強く唇を合わせてきて、私から顔を離した。すると、すぐに繋がっていた手が解放される。
「今のキス、手を離せってことでしょ」
仙台さんが迷うことなく言う。
キスは交換条件のつもりじゃなかったけれど、わざわざ訂正するつもりはない。仙台さんが理由のあるキスだと思ったのなら、そういうキスにしてしまえばいい。
「違う」
断言すると、仙台さんが「じゃあ、なにすればいいの?」と聞いてくる。
私は息を吸って、吐いてから、仙台さんの隣へ行く。
「前にこの部屋で仙台さんのお願いきいたよね?」
「お願いって?」
仙台さんが不思議そうな顔をする。
「これからすること許してっていうお願い私にしたの、忘れたの?」
舞香に私と仙台さんがルームシェアをしていることがバレてしまうきっかけになった出来事を忘れたとは言わせない。私は、あの日この部屋で仙台さんとしたことをよく覚えているし、きっとずっと忘れない。
「……覚えてるけど」
珍しく仙台さんがぼそぼそと言う。
「あれ、私、返してもらってない」
知りたいことを聞くことはできないけれど、仙台さんに触れることはできる。それくらい私たちはお互いに触れてきている。
「返してもらってないって、なにを?」
仙台さんの声に、私は交わっている視線を外して息を吐く。真っ直ぐ彼女を見ながら話し続けることができない。
「あのとき仙台さんのいうこときいたんだから、今度は仙台さんが私のいうこときいてよ」
私の知りたいという欲求は考えてもみなかった場所に繋がってしまっていて、自分でも予想していなかったスイッチが入っている。でも、その回路を繋いだのは手を握ってきた仙台さんで、さっさと手を離さなかった彼女が悪い。
「また同じことしてほしいってこと?」
「違う。私が仙台さんにするって言ってるの。仙台さんがどういう風になるか知りたい。教えてよ」
仙台さんが私に触れたように、私が仙台さんに触れたら。
仙台さんが他の誰にも聞かせないような声を私が聞けたら。
彼女が誰と親しくしていても、私より優先すべきものがあっても、今ほど不安を感じないようになるのかもしれない。
こんな気持ちで仙台さんに触れるべきではないとわかっているけれど、自分を止めることができない。
仙台さんは私の中心に大きな顔をして居座っていて、私の気持ちは渦の中心に吸い寄せられる木の葉のように彼女に向かっていく。
「……どういう心境の変化なの、それ」
仙台さんが探るように言う。
「さっきも言ったけど、仙台さんがどうなるか知りたいだけ。嫌なら断れば。でも、断ったらああいうこともう絶対にさせないから」
仙台さんに視線を合わせると、彼女はやけに真面目な顔をして私を見ていた。
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