第31話

 仙台さんには聞く権利があると思う。

 そして、自分のしたことを考えたら私は質問に答えるべきだ。


 けれど、「なんで?」なんて聞かれても答えようがない。どうしてあんなことをしたのかなんて、私の方が知りたいくらいだ。


「宮城、答えて」


 静かに催促されて、首に張り付いた彼女の手を剥がす。


「口が触れただけで、キスしたわけじゃない」

「普通にしてたら、こんなところに口が触れたりしないと思うんだけど」

「答え、わかってるじゃん。普通にしてなかったからだよ」


 仙台さんは正しい。

 普通にしていたら、寝ている彼女の首筋に唇が触れるわけがない。


 私はわざわざそこに触れた。

 そういう記憶がきちんとある。


 ただ、自分の行動を説明することができない。何か理由があってしたことではないし、理由があったのだとしても自分では意識していないところにあった。


 私は、仙台さんの視線から逃れるように教科書を閉じる。


 今、「これ以上聞かないで」と命令したら、この気まずい時間を強制的に終了させることができる。でも、そんなことをすれば、彼女は事あるごとにこの話をしてくるに違いない。

 それは面倒だと思う。


「別にそれ以上のことはしてないんだし、いいでしょ。納得した?」


 先生に言い訳をするみたいに仙台さんを見ないまま付け加えると、ブラウスの袖を引っ張られる。見たくもないのに仙台さんを見ることになって目をそらそうとしたら、彼女はやけに真面目な顔をして言った。


「今は? 触りたい?」


 どうしてそんなことを聞こうと思ったのか理解ができない。

 そして、私の答えに納得したのかどうかもわからない。


 相変わらず距離感がおかしい彼女は私の近くにいて、ブラウスの袖を握り続けている。もう少し離れたいけれど、答えなければブラウスが離されないような空気が漂っている。


「それ、答えろって命令?」

「命令するのは宮城でしょ。これはただ質問してるだけ」

「触りたいって言ったら、触らせてくれるの?」

「どこに触りたいの?」

「質問に答えてからじゃないと、質問したら駄目って言ったの誰だっけ?」

「宮城の答えによるから」


 場所によっては触らせてくれる。

 そういう意味なんだと思う。


 でも、なんで?


 いつもの仙台さんなら言いそうにないことばかり言うから、考えがまとまらない。


 答え。

 どこだって言ったら。

 もしかしたら、からかわれているだけかもしれない。

 そもそも今、仙台さんに触りたいのか。


 頭の中に色々なことが浮かんではサイダーの泡のように消えていく。一緒に記憶の断片も弾けて、ベッドで眠っていた仙台さんを思い出す。


 私はあの日、仙台さんの唇にも触れた。

 首筋に触れる前、指先で辿った唇はマシュマロみたいに柔らかかった。


 触れられるものなら、またそこに触れたいと思う。


 私は仙台さんに手を伸ばす。

 質問に答えたわけではないけれど、意図が伝わったのか彼女は逃げなかった。掴まれていたブラウスの袖が解放されて、指先が何の障害もなく唇に触れる。


 やっぱり、柔らかい。


 軽く押すと仙台さんに指を舐められて、私は慌てて手を引っ込めた。


「命令しなよ」


 仙台さんが少し低い声で言う。

 けれど、いつ、どんなことを命令するかは私が決めることだ。

 仙台さんが決めることじゃない。


「宮城」


 命令することを促すように、強く名前が呼ばれる。


 言われて何かを命じるのは腹立たしいし、仙台さんに命令しろと命令されるなんておかしい。


 そう思うけれど、言わずにはいられなかった。


「……目、閉じて」

「わかった」


 間違っている。

 命令の意味がわかっているなら、文句を言うところだ。でも、仙台さんは目を閉じた。この後、何が起こるかわからないわけがないのに、命令に従った。


 私は、彼女の頬に触れる。

 目があって、鼻があって、口がある。

 ただそれらの配置が人よりも少し良い仙台さんは、モデルやアイドルほどではないけれど整った顔をしている。美人だと言い換えたって良い。


 本当なら、仙台さんは私の家に来ることなんてないし、命令を聞いたりだってしない。今みたいに別のクラスになったら、私なんて忘れ去られて記憶にすら残らない存在だ。

 本屋で五千円を渡すまでは、接点がなかった。


 だから、こんなことはあってはならないことで。


 仙台さんがどうして目を閉じたのか理解できなかった。

 近づいたら目を開けて、本気にしたのかと私を笑うかもしれない。そんなことをする人じゃないとは思っているけれど、ありえないシチュエーションに頭がついていかない。


 そのくせ、体は仙台さんに近づいていく。

 気がつけば、唇と唇の距離は五センチもなかった。


 心臓が痛い。

 上手く息を吸って吐くことができない。

 呼吸の仕方を忘れてしまったんだと思う。

 頬に置いた手の親指で唇の端に触れる。

 仙台さんは動かない。


 もう少しだけ近づいて、私も目を閉じて。


 ――本当に触れていいのか自信がなくなる。


 キスしたら仙台さんがこの部屋に来なくなってしまうかもなんて頭に浮かんで、彼女の肩を押した。


「ごめん。今日はもう帰って」

「え?」


 仙台さんが目を開ける。


「宮城?」


 私は驚いたような声を出した彼女の手を引っ張って立たせ、鞄を持たせる。ドアを開けて、背中を押す。


 今、何をすることが正解なのかわからないし、考えられない。帰ってもらうよりもっと良い方法がありそうだけれど、今はその方法を見つける余裕がない。それに、仙台さんに顔を見せたくなかった。


 振り向かないで、帰って欲しい。


「ちょっと」


 黙って帰るつもりがないらしい仙台さんが回れ右をしようとしたが、強引に部屋から玄関へ連れて行く。


「ごめん。また連絡するから」


 なんで、とか、話がある、とか。

 色々と仙台さんが言っているけれど、頭に入ってこない。

 とにかく靴を履かせて、玄関から追い出す。


「宮城。開けなよっ」


 ドアを叩く音が聞こえてくる。

 けれど、開けるつもりはない。

 開けたら、絶対に怒られる。

 いつもなら一階まで送っていくけれど、今日は無理だ。


「宮城ってばっ」


 ドアの向こうでは、仙台さんが私を呼んでいる。


 どうしてキスしようとしたのか。

 どうしてキスしなかったのか。

 もうよくわからなくなって、ドアに寄りかかる。

 背中にドンドンと重たい音が響く。


 そう言えば、消しゴムのことを聞き忘れた。


 私は、今さらそんなことを思い出した。

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