第106話
最後に仙台さんと会ってから、それほど時間は経っていない。
一昨日、電話で話もした。
けれど、仙台さんは玄関を開けると「久しぶり」と言ってから靴を脱いで、電話で言ったはずの「あけましておめでとう」をもう一度言った。仕方がないから、私も「あけましておめでとう」と返す。
「部屋で待ってて」
コートを脱いだ仙台さんに告げて、キッチンへ行く。
お皿にクッキーをのせながら考える。
久しぶりじゃないのに、久しぶりだと感じるのはどうしてだろう。
当たり前のように返した「久しぶり」という言葉は荷物が入りすぎた鞄のようで、肩が重くなる。何気ない言葉なのに、重要な言葉のように思えてくる。
冷蔵庫を開けて、サイダーと麦茶を取り出す。
深く考えるから、どうでもいい言葉が意味を持つ。なんでもないものに、わざわざ自分から意味を与えるような行為をする必要はない。
私はサイダーと麦茶をグラスに注いで、ペットボトルを冷蔵庫に片付ける。お皿とグラスをのせたトレイを持って部屋へ戻ると、仙台さんが参考書を広げて待っていた。机の上、空いたスペースにお皿とグラスを置く。
「ありがと」
タートルネックのセーターにデニムパンツ。
珍しく首が見えない服を着た仙台さんは、髪も結んでいなかった。知らない人みたいな仙台さんが私を見る。
「座らないの?」
ぼうっと立っていた私は、言葉につられるように隣に座る。なんとなく自分のブラウスのボタンに触れると、「宮城」と呼ばれた。
「今日も誰もいないの?」
「いない」
「親は仕事?」
仙台さんがクッキーを一枚取って囓る。
「そうだけど」
「明日は?」
「今日と同じ」
特に意味はない。
質問は、そんな軽い調子で投げかけられた。
冬休み前なら、答えを返して終わりにしてもいい話だ。けれど、今は違う。まったく意味がない質問とは思えない。
私は先回りして仙台さんに告げておく。
「……今日は泊めたりしないからね」
「泊めてほしいわけじゃないから」
私の言葉はすぐに否定されて、今度はこちらから問いかけることになる。
「じゃあ、今の質問はなんなの?」
「誰もいないみたいだから聞いただけ」
そう言うと、仙台さんがペンの先で私の問題集をつついた。
「わからないところないの?」
「あるけど」
「どこ?」
仙台さんが誤魔化そうとしていることはわかる。
泊めてほしいわけではなくても、何らかの意味を持っていそうな質問だった。けれど、しつこく聞いたところで正しい答えが返ってくるとは思えないから、質問の答えを有耶無耶にしたまま問題集の中からわからない部分を抜き出して口にする。
今度は、誤魔化されずに的確な説明が返ってくる。
学校のように寒かったり、暑すぎたりしない部屋は過ごしやすいし、眠たくなってくる先生の声を聞いているよりは仙台さんの声を聞いている方がいい。勉強は楽しいとは思えないけれど、一人でしているより捗る。
今日はそのために仙台さんを呼んだのだから、わからない問題が解ければそれでいい。
それでも隣が気になって、仙台さんを見る。
長い髪が肩にかかって、鬱陶しそうだと思う。
当たり前だけれど、いつも見えている綺麗な首筋はやっぱり見えない。
「見るなら私じゃなくて、こっちを見なよ」
仙台さんがノートを指さす。
言われた通りにノートに視線を落とすと、「わからないところがあったら聞いて」と仙台さんが言った。
部屋が急に静かになる。
黙ってペンを動かしていると結構な時間が経っていて、グラスに手を伸ばすと冷たかったサイダーがぬるくなっていた。私は中途半端に透明な液体が残っているグラスを見る。
キッチンへ行こうかと思ったけれど、やめておく。
グラスから仙台さんへ視線を移す。
タートルネックのセーターが酷く邪魔なものに思える。
服のせいで、見たいものが見えない。
「なに? 休憩?」
視線を感じたのか、仙台さんが顔を上げた。
「休憩でもいいけど、時間大丈夫?」
首元を見たまま問いかける。
「まだ大丈夫。休憩する?」
「ごはんにする。仙台さん、食べていくでしょ」
「うん。食べる」
仙台さんが参考書を閉じて、夕飯のメニューを尋ねてくる。私はそれには答えずに、隠されて見えない首に手を伸ばす。
指先がセーターに触れる。
けれど、その手はすぐに仙台さんに押し戻された。
「ごはんにするんじゃないの?」
「やっぱり先にちょっと休憩する」
「休憩するなら、大人しく休んでなよ」
「首、見えないから気になっただけ」
「首じゃなくて、他のもの見たいんでしょ」
仙台さんが面倒くさそうに言って、体ごと私の方を向く。そして、私の髪に触れて首筋に指を這わせてくる。
「――わかってるなら見せてよ」
仙台さんは意地悪だと思う。
私が見たいものを知っていて、それを口にしない。
見せてくれようともしないで、私に触れてくる。
ゆっくりと首筋を這う指がくすぐったい。
私は仙台さんの手を捕まえて、そのまま引き寄せようとする。けれど、彼女の手はするりと逃げてしまう。
「冬休みは命令きくって約束してないよね? 大体、宮城は私がペンダントしてないと思ってるわけ?」
「してないかもしれないじゃん」
「少しは信じなよ」
信じられるものなら、信じたいと思っている。
そうすれば、確認したいなんて考えずにすむ。
首輪のようなもので繋いでおきたいなんて思うこともない。
でも、仙台さんは信じるに値しないことばかりする。この目で見ても信じられないものをわざわざ隠してきたりする。だから、疑ってしまう。
「……今日、わざと見えないようにしてるでしょ」
セーターで見えない首をじっと見る。
「そういうわけじゃないけど、そんなに見たいの?」
「見たいって言ったら、見せてくれるの?」
私の言葉に反応して、仙台さんがにこりと笑う。
「宮城が約束守ってくれたら見せてあげる」
「約束って?」
「キスしてもいいんでしょ」
そう言うと、仙台さんが断りもなく私のブラウスのボタンを一つ外した。
「えっ」
予想外の行動に、ボタンを外した手を掴むより先に声が出る。
「なに?」
「ボタン外していいなんて言ってない」
自分勝手な仙台さんに抗議するけれど、彼女の手はいうことを聞かない。もう一つボタンを外して、鎖骨を撫でてくる。
「ペンダント見たいなら大人しくしてなよ」
「……なにするつもり?」
「キスって言ったじゃん」
仙台さんが断ることのできない約束を持ち出す。今は勉強が終わったばかりで、約束だったキスをするというなら駄目だとは言えない。
指先が首筋を這ってうなじへ向かう。
この手は約束にないものだけれど、文句を言う前に鎖骨の少し上にキスを落とされる。
こういうキスは約束のうちに入るのか。
大事なことのようで、それほど大事ではないような気もすることを考えていると、唇が首筋に触れる。柔らかく押し当てられて、また違う場所にキスをされる。
触れて、離れて。
唇が首筋を辿り、上へと向かう。
吹きかかる息がくすぐったくて、首筋が強ばる。
唇の生暖かい感触に息が止まりそうになる。
こうしていていいのかわからないけれど、仙台さんの体を押し離すほどじゃないような気がする。
たぶん、これは約束の範囲内のことで、だから仕方がない。
首筋にキスを繰り返していた唇が耳に近いところに強く押し当てられて、思わず仙台さんの腕を掴む。けれど、彼女は躊躇いなく肌を強く、強く吸った。痛いと騒ぐほどではないけれど、針で刺されるような感覚がある。
肩を押す代わりに仙台さんの腕に爪を立てると、首に歯を立てられた。でも、すぐに唇が離れて、耳たぶに湿ったものがくっつく。唇よりも温かいそれはきっと舌で、耳の輪郭を辿るように舐められる。
耳に押し当てられた舌と連動して、心臓の裏側あたりがぞわぞわしてくる。仙台さんが息を吸って、吐く音がやけに近くで聞こえて、鼓動がシンクロするような気がしてくる。
息を吸うタイミングが重なって、私は仙台さんの肩を思いっきり押した。
「こんなのキスじゃないじゃん」
「宮城がやめろって言わないから」
「言わないからしていいわけじゃない。大体、ボタン外したのってなんなの。外さなくてもできたじゃん。それに絶対、跡ついてるでしょ」
仙台さんに強く吸われた辺りを撫でてみる。でも、指先に目がついているわけではないから、そこがどうなっているかわからない。
「キスする場所、あのとき決めなかったでしょ。だから、私がどこにキスしても宮城は文句言えないから」
平然とそう言うと、仙台さんがおそらく跡が残っているであろう場所を私の手ごと押さえてくる。
指先が動いて、耳に触れて髪を梳く。
そして、当たり前のように顔を寄せてくるから、私はまた彼女の肩を押すことになった。
「そっちの机の上に鏡あるから、取ってきてよ」
キスする場所を指定していなかったことは、私の落ち度だということにしてもいい。けれど、跡をつけていいわけがない。仙台さんだって跡をつけるなと私に何度も言ってきたのだから、跡がつきそうな行為をした彼女に命令くらいしたっていいと思う。
「跡ならついてないから」
「自分で確かめる」
きっぱりと言うと、仙台さんが渋々といった様子で鏡を取ってくる。
首筋にキスされたのは初めてじゃない。
けれど、跡が残るようなキスじゃなかった。
噛みつかれたときに赤くなったことはある。
でも、その噛み跡は一日も持たずに消えた。
「はい」
仙台さんに鏡を渡されて、首筋を映す。
ボタンを外す必要はなかったと思うような場所、首筋にしっかりと赤い跡がついている。それは絶妙な位置で、ブラウスのボタンを全部閉めても隠れないし、かといって目立ちすぎる場所じゃない。
「ちょっと跡ついてるけど、髪で隠れるでしょ」
仙台さんが無責任に言う。
確かに髪で隠せると言われればそんな気がするが、完全には隠れそうにない。
わざとだ。
わざと、見えるような場所につけた。
「目立たないかもしれないけど、絶対に見える場所じゃん」
「そんなことない。隠せるって」
仙台さんがいい加減なことを言って、自分の言葉を証明するように私の髪を触って跡を隠そうとする。さわさわと首筋に触れる毛先がくすぐったくて、私は彼女の手を叩いて鏡を押しつけた。
「絶対に無理。誰かに見られたらどうするの」
「学校は休みだし、大丈夫でしょ」
「親が見るかもしれないじゃん」
「今日も明日も仕事でいないって、宮城言ってたじゃん。明後日には消えてるだろうし、平気でしょ」
そういうことか。
勉強を始める前にされた質問の意味が今わかる。
「親はいなくても、友だちに会うかもしれないし」
「この時期、みんな受験勉強で忙しいって言ったの誰だっけ」
「……そういうこと言うの、性格悪いと思う」
「宮城ほどじゃない」
仙台さんがにこりと笑って酷いことを言う。
そして、私の腕を掴む。
「もう一度キスしてもいい?」
さらりとろくでもないことを言ってくるから、仙台さんがしようとしている権利の行使を阻止する。
「駄目。それより、ネックレス見せてよ」
今度は私の約束が守られる番で、仙台さんに手を伸ばす。
けれど、私が首筋に触れるより先にセーターからネックレスが引き出された。
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