仙台さんは逆らわない
第249話
「この前、朝倉さんが言ってた美味しいケーキのお店ってどこだっけ?」
私はペンケースを片付けながら、隣に座っている舞香に声をかける。
「ケーキ買いに行くの?」
「うん」
講義室にもう先生はいない。今日受けるべき講義はすべて受けてしまったから、私も舞香もあとは家へ帰るだけだ。でも、私は早く帰ろうとは思えない。今日は、仙台さんがバイトで帰って来るのが遅い日だ。
受験生だという生徒が無事に高校に合格して、早く家庭教師のバイトがなくなってしまえばいいのにと思う。
「なんかいいことあった?」
舞香が弾んだ声で言う。
「ないけど、甘いもの食べたいなって」
「甘いものかー」
先生がいなくなって講義室は騒がしいはずなのに、舞香の声がやけに耳に響く。
リップを買って来てくれた仙台さんへのお礼。
そういう意味もあるけれど、私自身も甘いものが食べたいと思っている。舞香に言った言葉は本当のことで嘘じゃないから、いつも通りの私でいればいい。わかっているけれど、背中がピリピリとする。
「一緒に行ってもいい? 私もケーキ食べたくなったし、場所覚えてるから案内するしさ。あ、ついでに本屋に寄りたいんだけど」
舞香の明るい声に「いいよ」と返事をして、二人で講義室を出る。間近に迫っている試験について愚痴を言いながら、最初の目的地である本屋に向かう。
「さむっ。なにこの風」
大学を出て五分も経たないうちに舞香が向かい風に文句を言って、コートのポケットに手を突っ込む。そして、マフラーと手袋で寒風にさらされる皮膚の面積を極限まで減らしている私を見て、「マフラー買おうかな」とつぶやいた。
「あったかいよ」
私は、舞香には自分で買ったと言ってあるマフラーをぎゅっと握る。朝の凍えるような風からも夕方の強い風からも守ってくれるマフラーは、手放せない。
「だろうねえ。防寒完璧って感じだもん。あー、早く春休みにならないかな。外寒いし、家でゴロゴロしてたい」
「舞香、春休みは帰らないんだよね?」
「うん。こっちにいるし、遊びに行かない?」
「家でゴロゴロしてたいって言ったばっかじゃん」
「遊びに行くのとゴロゴロは別だから。仙台さんも誘って、どこか行こうよ」
隣から聞こえてくる声には混じってはいけない名前が付け加えられていて、素直に「いいね」と言いにくい。かと言って「嫌だ」と言うわけにもいかず、私はなんでもないことのように「うん」と返した。
「そういえば、仙台さんと動物園行ったんだっけ?」
春休みに三人でどこへ行くのか。
会話がそちらに向かわなかったことに感謝しながら、事実を伝える。
「ハシビロコウ見てきた」
「あー、可愛いよね。私も見に行きたい」
「今度、一緒に行こうよ」
「いいね」
私がさっき言えなかった「いいね」を舞香が軽やかに口にする。
仙台さんは私の口を重くする。
でも、その重さは高校の頃とは違う。あの頃は私たちの間にあった五千円が重しになっていた。放課後にあったことは誰にも話さない。そういうルールが重しになっていて、彼女に関わることを話さずにいた。
大学生になった今、そんなルールはない。
舞香も私と仙台さんが一緒に住んでいると知っている。
言おうと思えば、なんでも言える。それなのに言えないことがたくさんある。言いたいとも思わない。仙台さんのことは私だけの秘密で、私だけのものにしておきたい。
そういう私はあまり良い私ではないとわかっているけれど。
「舞香。動物園に行ったら、なに見たい?」
私は頭に浮かんだ仙台さんを吹き飛ばすように、明るい声を出す。
「えー、なんだろ。ハシビロコウと、あとはトラとかライオンとか?」
「トラとかライオンって普通っぽい」
「定番最高でしょ」
「じゃあ、一番好きな動物は?」
「うーん、リスかなあ。昔、飼ってたんだよね」
少し迷ってから、舞香が私の質問に疑いようのない答えを出す。
仙台さんとは違う。
ちゃんと好きな動物がいて、それを答えることができる。そして、それは特別なことじゃない。舞香だけではなく誰でも答えることができるもので、難しいことではないはずだ。誰だって、好きなものを答えることができる。
おかしいのは――。
私はマフラーの端を引っ張る。頼んでいないのに頭の中に戻ってきた仙台さんを隅っこに追いやって、止まりそうになる足を動かす。
私たちは本屋へ入り、舞香が漫画を二冊買う。ついでに私も漫画と小説を一冊ずつ買って、そのままケーキを買いに行く。
「朝倉さんが言ってたのって、ここのはず」
ケーキを売っていると言うより、宝石を売っていると言われた方が納得できるお店の前で舞香が言い、中へ入る。私もその後を追うが、一人で来ていたら回れ右をして帰っていたはずだ。外観や内装がお洒落すぎると、中へ入ることを躊躇ってしまう。
舞香がいてくれて良かったと思いながら、宝石のようなケーキが並んでいるショーケースを見る。
「どれも美味しそうで迷う」
舞香の弾んだ声が聞こえてくる。
確かに並んだケーキはどれも美味しそうで、なにを買うか迷うけれど、レアチーズケーキを二つ買うことだけは決めている。
「志緒理はなに買うの?」
「チーズケ――。そうだ、舞香。チーズケーキが好きそうな人が嫌いそうなケーキってなんだと思う?」
「なにそのややこしい設定。チーズケーキが好きそうな人が好きそうなケーキじゃ駄目なの?」
「それでもいいけど」
仙台さんに嫌がらせをしたいわけじゃない。
どうせなら美味しいケーキを食べてほしいと思うから、一番かどうかはわからなくても好きであるはずのレアチーズケーキを買って帰ればいいとわかっている。
けれど、はぐらかしてばかりで本当のことを教えてくれない彼女の前に嫌いなものを出したら、本当に好きなものを教えてくれるかもしれないなんて馬鹿なことも思っている。
「連想ゲームしてるより、本人に食べたいケーキ聞いたら? 嫌いそうなケーキ避けるよりも、好きなケーキ聞いた方が早いじゃん」
「本人って?」
「仙台さん。……だと思ったけど、違うの?」
「……そうだけど」
そうではあるけれど、本人に聞いても仕方がない。
仙台さんはなんでも好きだと言う。レアとベイクドチーズケーキのどちらが好きか聞いたときも、どっちも好きだと答えた。彼女は本当のことを教えてくれない。
「レアチーズケーキとショートケーキにする」
私は本人に尋ねるという無駄な行為を省いて、買って帰るケーキを決める。
「じゃあ、私はフルーツタルトとレモンパイにしようかな」
舞香が二つ。
私は四つ。
ケーキを買って、お洒落すぎるお店を後にする。まだ仙台さんは帰ってきていないはずだけれど、舞香と別れて家へ向かう。
電車に揺られて、仙台さんが大好きなミケちゃんが出没する道を歩いて、誰もいない家に辿り着く。ケーキを冷蔵庫に入れ、食事を簡単に済ませて部屋でレポートをまとめていると、トントン、とドアをノックする音が聞こえた。
「開けていいよ」
少し大きな声で言うとすぐにドアが開いて、仙台さんが部屋に入ってくる。
「ただいま」
「おかえり。冷蔵庫にケーキあるから、食べていいよ」
「宮城がケーキ買って来るなんて珍しいじゃん。どうしたの?」
「どうもしない。甘いもの食べたかっただけ」
「宮城はもう食べたの?」
「まだ」
「だったら、紅茶いれるから一緒に食べようよ」
仙台さんがにこにこと機嫌が良さそうに言う。
「いいけど、仙台さんご飯は?」
「バイトに行く前に食べた」
「じゃあ、一緒にケーキ食べる」
私は仙台さんと一緒に共用スペースへ行く。宣言通り仙台さんが紅茶をいれる準備を始め、白い電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れた。
「ケーキ、どこで買ってきたの?」
「冷蔵庫見れば」
私の声に従うように仙台さんが冷蔵庫を開ける。
「あ、このお店。美味しいって評判のところじゃん」
「食べたことあるの?」
「ないよ。澪が美味しかったって言ってたから、試験が終わったら買いに行こうかなって思ってたんだけど」
小松さんのことは嫌いじゃないけれど、得意なタイプじゃない。意見が合っても嬉しくない人が仙台さんに勧めたお店のケーキを買ってきたのだと思うと、楽しい気分にはならない。
仙台さんへのお礼でもあるケーキだから、彼女が興味を持っていたお店でケーキを買ってくることができて嬉しい。
そう思うべきなのだろうけれど、気持ちは思い通りになってくれない。
「……小松さん、ケーキなに食べたって言ってたの?」
冷蔵庫を閉めて、マグカップとお皿を出している仙台さんに問いかける。
「ショートケーキとモンブランだったかな」
「……仙台さん。ケーキ食べたら、命令するから」
「命令って、お正月のときの?」
仙台さんのベッドで一緒に眠った朝、ここにいてくれたらいうことをきくと言った彼女と約束をした。命令をしていいというあの約束は、保留にしたままだ。
「そう」
私は短く答えて、花の形をしたピアスに触れた。
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