第272話

「宮城、開けて」


 ドアの向こうからいつもと変わらない仙台さんの声が聞こえてくる。


 ノックは一回だったり、二回だったりと回数は決まっていないけれど、必ずある。今も仙台さんはノックをしてから、ドアの外で私を呼んでいる。でも、なんとなく開けたくない。


 バスルームへ生存確認に行ってから十分か、十五分か。


 仙台さんがなかなか戻ってこないから、もやもやした気分がすっきりするどころか倍増していて、彼女の顔が見たいけれど、見たくない。


「宮城、いるんでしょ。開けるよ」


 トン、とまたドアが叩かれる。

 けれど、ドアを開ける音は聞こえない。

 言葉だけだと思うが、勝手に開けられたくはないからベッドから体を起こす。


「……開けるから待ってて」


 私はペンギンを寝かしつけて布団をかけ、黒猫を本棚に置いてドアを開ける。


「お風呂長い。いつもこんなに長くないじゃん」


 三十分くらい言い続けたい文句を短くまとめて、部屋着姿の仙台さんの足を蹴る。


「ゆっくりしたかっただけ」

「ゆっくりしてた理由は?」

「お風呂、一緒にはいれば良かったのに。どうせこれから入るんでしょ」


 私の質問には答えずに、にこりと笑う。


「まだ入らない」

「そっか」


 そう言うと、仙台さんが黙り込む。

 でも、自分の部屋に戻ったりしない。

 用事があるのか、ないのかわからない。


 ――そんなことはいつものことだけどさ。


 仙台さんは用事があってもなくても私の部屋に来るのだから、これはいつもの彼女と同じはずだ。けれど、いつもの彼女に戻っているようには思えない。どこか違う仙台さんが私の前に立っている。そんな気がする。


「……中、入れば」


 彼女からは、私と同じだけれど私とは違う良い匂いがする。


 ドアを開けたくなかったけれど、仙台さんを追い返したい理由はない。それどころか、側に置いておきたい。仙台さんは私のものだから、いついかなるときも側にいるべきで、だから部屋の中に入れる。


「ろろちゃんは、ベッドに寝かさないの?」


 いつも床へ座る仙台さんが、今日はベッドに腰をかけて私を見る。


「本棚が定位置だから」

「ペンちゃんと並べて寝かせたら可愛いのに」

「可愛くなくていい」

「可愛い方がいいじゃん」


 仙台さんは“可愛い”という言葉が好きだ。

 すぐになんでも可愛くしようとする。

 そういう彼女が少し面倒くさくて、私は話題を変える。


「仙台さんって、カルボナーラ好き?」


 彼女に問いかけ、床へ座ってベッドを背もたれにする。


「宮城、お昼もパスタだったのに夜もパスタ食べるつもりなの?」

「違う。好きかどうか聞いただけ」


 お昼のパスタは買い置きしてあったレトルトのミートソースを使ったが、カルボナーラにする予定だった。でも、仙台さんが好きかどうか知らなかったし、レシピを調べたけれど作れるとは思えなかった。


「宮城は?」

「普通」

「食べたいなら今度作ろうか?」

「作れるの?」

「作ったことないけど、レシピ見たら作れると思う」


 そう言うと、仙台さんが私の髪をぴっと引っ張った。


「ハンバーグ食べたい」


 カルボナーラはもういい。

 仙台さんに作ってもらうなら、ハンバーグじゃなくてもカルボナーラ以外のものがいいと思う。


「ハンバーグパスタってこと?」

「そうじゃない。今日の夕飯」

「夕飯かあ。リクエストに応えたいけど、材料ないかな。ハンバーグは今度でいい?」

「いつでもいいけど、今日はカップラーメンやだ」

「じゃあ、カップラーメンじゃないなにかを作ろっか。それにしても宮城って、ハンバーグ好きだよね」

「別に好きなわけじゃない」

「宮城はすぐ否定する」


 仙台さんが責めるような声ではなく、ふわりと軽い声で言い、私の髪をまた引っ張った。どういうわけか髪が断続的に引っ張られる。


「なにやってるの?」


 問いかけると「三つ編み」と返ってきて、すぐにそれがほどかれる。そして、頭の上から声が降ってくる。


「そうだ、ペンちゃん。そろそろ返して」

「なんで?」

「私のものだから」


 仙台さんは正しい。

 私の布団に寝ているぬいぐるみは彼女のものだ。


 ワニのティッシュカバーと交換しただけで、いつかは返さなくてはならないものだから、「なんで?」なんて聞いた私の方がおかしい。だから、私は立ち上がり、ベッドで眠っているペンギンを布団から引っ張り出して仙台さんに渡す。


「あとでワニ返して」


 ペンギンのぬいぐるみは、私の中にある仙台さんを見たいとか、仙台さんに触れたいとか、仙台さんに触れられたいとか、そういうもやもやとした感情と一緒に返してしまおうと思っていたから、返すことに躊躇いはない。


 それなのに、仙台さんが真面目な顔をして「もうしばらく交換しておこうか?」なんて聞いてくるから、「持ってって」と強く言う。


「もう少し預けとく。宮城、ペンちゃん結構気に入ってるみたいだし」


 ペンギンを受け取ったはずの仙台さんの手が私の手首を撫で、そのまま手の甲を撫でる。その感覚に、自分の手が彼女に渡したはずのペンギンの翼を掴んでいることに気がつく。


「気に入ってるわけじゃない」


 ペンギンの翼をぎゅっと握ってから手を離そうとするけれど、手が離れない。


「気に入ってなくてもいいけどさ、このペンギン、二人のものってことにしよっか」


 仙台さんが柔らかく笑って、ペンギンを私に押しつけてくる。


「二人のものって?」

「どっちの部屋にあっても私と宮城のもの。もともと宮城がクレーンゲームで取ったものだし、それでいいでしょ」

「よくない」


 ペンギンは、私の中にない方がいいものと一緒に返す。

 さっきそう決めた。


「もうしばらく預かっておいて」


 仙台さんがペンギンの頭をぽんっと叩く。

 勝手に二人のものだと決まってしまったペンギンは、勝手に私がもうしばらく預かることになってしまう。でも、私の手はそれを押し返そうとはしない。しっかりと抱きかかえている。


 おかげで、もやもやとした気持ちは私の中に強く残り、もうああいうことはしないという私の中の決まりが曖昧になる。


 視線をペンギンに移す。

 なにを考えているかわからない脳天気な顔が目に映る。はあ、と小さく息を吐いて、ペンギンをベッドに置こうとすると、良い匂いが近づいた。


「……なんでこういうことするの?」


 断りもなく私をペンギンごと抱きしめてきた仙台さんに問いかける。


「こういうことって?」

「くっついてきたの、なんでって聞いてる」

「湯冷めしないように」

「私は暑いんだけど」


 暑がりなはずの仙台さんが私を抱きしめたまま「そっか」と短く言い、「ペンちゃん、可愛がってあげてね」と続けた。


「……私のワニは?」

「あとから返す」

「いつでもいい。それより、お腹空いた」


 お腹いっぱいを超えるほどの量を作ったパスタのせいで、本当はそれほどお腹は空いていない。それでも仙台さんの体温が心地良すぎて、私の中のもやもやがもっと大きくなりそうな気がして彼女の体を押す。でも、仙台さんは私から離れてくれない。


 彼女の唇が私の頬に触れ、耳に触れる。

 そして、ピアスにキスをして、耳を軽く噛んだ。


「変なことしないでよ」


 文句を言って、仙台さんの足を蹴る。


「キスしただけじゃん」

「噛んだ」

「それ以上のことしたい」


 仙台さんが耳元で囁いて、また耳を噛んでくる。


「馬鹿じゃないの。ご飯食べる。はなれて」


 力一杯、彼女の体を押す。

 今度は抵抗することなく仙台さんの体が離れて、私はペンギンのくちばしを彼女の唇に押しつけた。


「そういうことしたいなら、ぬいぐるみとして」

「キスを?」


 私からペンギンを奪って、仙台さんが不満を隠さずに言う。


「それ以上のことも」

「ぬいぐるみとするって、変態すぎない?」

「変態の仙台さんには丁度いいでしょ。そんなことより、ご飯ちゃんとしたの作って」

「はいはい」


 そう言うと、仙台さんがペンギンをベッドの上へ置いた。

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