こんな仙台さんは知らない

第41話

 窓の外は、大きな雨粒に濡れている。

 急に降ってきた雨は人も車も街路樹もすべてを平等に濡らし、水浸しにしている。


 梅雨はまだ明けていないから天気予報が外れてもおかしくはないけれど、豪雨と言ってもいいくらいの雨粒が空から落ちてきていた。そのせいか、仙台さんがなかなか来ない。

 今まで、呼び出した彼女が来なかったことはなかった。


 雨は激しさを増している。

 こんなに降るとわかっていたら、仙台さんを呼んだりしなかった。雨に濡れる街を見ていると、悪いことをしたと思わずにはいられない。けれど、今さら来ないでと言っても仙台さんは来るだろうし、私は彼女の到着を待つことしかできない。


 確か、去年の今ごろはもう梅雨が明けていた。

 七月に入って、期末テストが終わって、早々に梅雨が明けて、本屋で仙台さんに会った。そういう記憶だ。


 去年、期末テストの成績は良くも悪くもなかったが、今年はどういうわけか仙台さんが熱心に勉強を教えてくれたおかげで少しだけ良くなっている。


 でも、これは良くない記憶だ。


 ベッドに寝転がって、目を閉じる。

 誰かと何かをしたことが思い出になって、それが積み上がっていく。そして、その中のいくつかに記念日だなんてラベルを貼って整理する。


 そういうことをしていると、何かあったときにラベルが一気に剥がれて全て良くない記憶にすり替わる。楽しかった日が多ければ多いほど、良くない思い出が増える。


 本屋で仙台さんに会った日がいつだったか、はっきりと覚えていないことは良いことだ。彼女にたくさんのラベルを貼りたくない。

 時間が経てば、望まなくても必ず何かが変わる。


 優しかった母親が子どもを置いて出ていくように、変わらなくていいものまで変わってしまう。


 ――お母さんがどうして私を置いて家を出ていったのか知らないし、何を考えていたのかも知らない。お父さんに聞いたこともない。


 どちらかに何か言われたのかもしれないけれど、子どもの頃のことだからよく覚えていない。私の記憶の中では、お母さんがある日突然家を出たことになっている。


 小さな子どもではなくなった今は、何か理由があったのかもしれないと想像することもある。けれど、それで母親との思い出が良い思い出には変わることはない。


 仙台さんとの関係も同じだ。

 彼女はよく喋るけれど、肝心なことは言わないから何を考えているのかわからない。もしも、仙台さんが突然、私の前から消えてもその理由はわからないままだと思う。


 私たちは少しずつ変わっている。

 できれば、出会ったばかりの頃と同じ関係でいたかった。

 時間による変質は、なにものでもない二人でいることを許してくれない。


 ベッドの上から、窓の外を見る。

 雨の日は、髪が少し重く感じる。

 仙台さんも同じかなと考えながら髪に触れて、思考の隙間に入り込んでくる彼女にため息をついた。


 枕元に転がったままのスマホを手に取る。

 仙台さんからのメッセージはない。


 遅い。

 雨とは言え、遅すぎる。


 部屋の中まで聞こえてくる雨音に、強く言ってでも今日は来なくていいと伝えるべきかもしれないと思う。

 迷って、スマホに仙台さんの名前を表示させる。


 けれど、電話をかける前にインターホンが鳴る。リビングに行かずに部屋の電話からインターホンに出ると聞こえてきた声は仙台さんのもので、私は急いでエントランスのロックを開けた。そして、三分もしないうちにもう一度チャイムが鳴る。ドアを開けると、びしょ濡れの仙台さんが立っていた。


「傘、持ってなかったの?」

「持ってるの見たらわかるよね。悪いけど、タオル貸してくれる?」


 天気予報は晴れだったから、傘を持っていなくてもおかしくはない。けれど、仙台さんは天気予報を信じたりはしなかったようで、右手には小ぶりの傘があった。


「そのまま入って」


 制服から水を滴らせている仙台さんに声をかける。


「部屋濡れるよ?」


 彼女の言葉は正しい。

 傘を差していたらしいのにずぶ濡れの仙台さんが歩けば、廊下も私の部屋も水浸しだろう。それでも、濡れたまま放っておくわけにはいかない。


「別にいいよ。濡れても拭けばいいだけだから」

「良くないよ。タオル貸して」

「タオル持ってきてもいいけど、着替え貸すから先に制服脱いだら?」

「ここで?」

「ここで。私以外誰もいないし、誰も来ないから心配いらないよ。それに拭いても服が乾くわけじゃないし、仙台さんが部屋に入ったら濡れるでしょ」


 仙台さんの制服は、タオルで拭いたくらいでどうにかなるような状態じゃない。部屋を濡らしたくないというなら、制服を乾かす必要がある。脱がずに制服を乾かす方法があるならそれを採用してもいいけれど、そんな方法はない。でも、仙台さんは頑なだった。


「玄関で服脱ぐ趣味ないから」

「部屋が濡れることを心配するなら、ここで脱いでよ」

「タオル貸して」


 強く、はっきりと仙台さんが言う。


 どうしても脱ぎたくないってことか。


 仙台さんにとってここは他人の家だし、気持ちはわかる。私だって人の家の玄関で服は脱ぎたくない。


「持ってくるから待ってて」


 そう言い残して、部屋へ向かう。

 タンスからフェイスタオルを引っ張り出してから、思い直す。バスタオルを持って玄関へと戻ると、仙台さんがいつも編んでいる髪をほどいていた。


 濡れた髪が緩やかなカーブを描いて、肩にかかっている。


 こういう姿は、体育の後に何度か見たことがある。

 でも、クラスが分かれてからは見たことがない。

 この家でも見たことがない。


 よく見れば、濡れたブラウスが体に張り付いていて下着も透けていた。

 久々に見る仙台さんの姿と、今気がついた仙台さんの姿に心臓が早くなりかけて、私は持ってきたタオルを押しつけるように渡す。


「はい」

「ありがと」


 仙台さんが短くお礼を言ってから、髪を拭き始める。


「制服どうするの?」

「拭くからそれでいい」

「着替え貸すから脱ぎなよ」

「そんなに脱がせたいの?」

「そうだよ。そのままだと風邪ひく」


 七月だから風邪を引かないというほど、人間の体は便利にはできていない。七月といえども濡れたら冷えるし、風邪を引く。そんなことがわからないほど仙台さんは馬鹿じゃないはずだけれど、ここで制服を脱いでくれそうにはなかった。


「動かないで」


 私は何度も口にしたことのある言葉を告げて、髪を拭く仙台さんの手を掴む。


「命令?」

「そう、命令」


 そう言うと、仙台さんは髪を拭いていた手を止めた。

 彼女の濡れたブラウスを見る。


 一つ目のボタンは、いつも通り外されている。

 二つ目のボタンは、まだ外す前だった。


 私はネクタイを外して、仙台さんのかわりに二つ目のボタンも外す。


「着替え持ってない」

「さっきから言ってるけど、私の服貸すから」


 制服に消しゴムを隠させて、探した日。

 彼女が“服は脱がさない”という項目をルールに加えろと言ったことは覚えている。けれど、そのルールが正式なものになったのかどうかははっきりとしない。


 私は、ゆっくりと三つ目のボタンを外す。

 仙台さんは抵抗しない。

 四つ目のボタンに手をかけても、何も言わなかった。


 何をしたっていいわけじゃないことはわかっている。

 でも、仙台さんがどんな命令にも従うから、どこまでいうことをきいてくれるのか試したくなる。犬みたいに鎖をつけてこの部屋に縛りつけたって許してくれそうだし、しないと約束したことをすることだって許されるような気がしている。


 ……そうじゃない。


 これは、仙台さんのためにしていることだ。

 彼女が風邪を引かないようにするためで、試しているわけでも約束を破るような行為でもない。

 少しドキドキしているけれど、こんなのは気のせいだ。


 クラスが同じだったときは、同じ更衣室で着替えをしていた。服を脱がせるようなことはしたことがないけれど、裸に近いものは何度も見ている。


 服を脱がせるくらいどうということもない。


 私は四つ目のボタンを外して、残りのボタンも全て外す。

 二つ目と三つ目のボタンの間を掴んでブラウスの前を開くと、下着がよく見えた。


 それは白いシンプルな下着で、特別なものじゃない。どこにでもあるようなデザインで、目新しさはなかった。もう少し派手な下着をつけていたこともあったはずだけれど、今日つけているのは私だって持っているようなものだ。


 それなのに、心臓がうるさい。


 風邪を引くから脱がせるだけ。

 他意はないはずなのに私は今、仙台さんにこの手を止めて欲しいと思っている。それは、他意があるということの証明でもあった。

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