第125話
階段を上って三階。
廊下を歩いて玄関の前、鍵を出す。
ドアを開けて中へ入ると、家の中が暗い。電気をつけて足元を見る。宮城が靴を置くスペースが空いたままで、彼女がまだ帰ってきていないとわかる。それでも一応、「ただいま」と声に出してみるけれど返事はない。
ほんの少し落胆する。
ただいまと言ったら、おかえりという声が返ってきてほしい。
朝見た夢の記憶は、大学へ行っている間に薄らいだ。宮城がいつも先に帰ってきているわけではないが、今なら彼女の目を見て話せそうだから家にいてくれたら良かったのにと思う。
「まあ、話すようなこともないけど」
私は誰に言うわけでもなく呟いて、靴を脱ぐ。
宮城から遅くなるという連絡はなかった。それは一緒に食事をするということで、私は夕飯のメニューを考えながら家の中へ入る。やっぱり誰もいない。
「ただいま」
今度は、誰もいないことがわかっているダイニングキッチンに向かって呟く。そして、そのまま自分の部屋へ入りかけて、テーブルの上に積んであるものに目が留まる。
「本?」
近寄ってみると積んであるものは予想通り本で、ここに来る前に宮城の部屋で読んでいた恋愛漫画の続きが何冊かと、私でも名前を聞いたことがあるような少年漫画が何冊か置いてあった。
貸すけれど、私が選んで渡すってこういうことか。
私は小さく息を吐いて、鞄を宮城がいつも座っている椅子の上に置く。いないとわかっているけれど、宮城の部屋のドアをノックしてみる。トントン、とドアが軽い音を立てるが、中から声が聞こえてきたりはしない。
「宮城」
ドアに向かって呼んでみる。
当然だけれど、返事はない。
私は、手のひらをぺたりとドアにくっつける。
向こう側は異世界だ。
立ち入ることが許されない世界で、いつ入ることができるのかわからない。
このドアの向こう側に行きたいと思う。
私があげた黒猫のぬいぐるみが前と変わらず本棚にいるのか確かめたいし、ワニの背中からティッシュが生えているのか確かめたい。あの部屋にあったなにがあって、なにがなくなっているのか知りたい。
今、私と向こう側を隔てているものは、薄くはないけれど厚くもない板一枚だ。
開けられないわけじゃない。
ルールを破れば、知りたいことを今すぐ知ることができる。中に入ったとしても、どこにも触れずにすぐに出てくれば宮城に知られることはない。ルールを破っても宮城にバレなければ、ルールを破ったことにならずに済む。というよりも、ルールを破ったことがバレたらいいのにと思う気持ちがある。
ルールを破ったら、相手のいうことを一つきく。
そういう約束をしているから、私がルールを破れば宮城が前のように命令することになる。正確には命令ではないし、前と同じではないけれど、前と近しいことが起こる。
「……駄目でしょ。人の部屋に勝手に入ったら」
ルールを破るにしても、勝手に部屋へ入るというのはやり過ぎだ。バレたら罰ゲームをする間もなく、宮城はこの家から出て行ってしまうだろう。
ドアにおでこをくっつける。
こつん、と小さな音がして、額が少し冷たくなる。
私はドアに唇を寄せかけて、肺の中の空気を全部吐き出す。
「なにやってんだか」
あんな夢を見たせいで、今日は少しおかしい。ただいまという言葉におかえりという声が返ってこなかったことにがっかりしたけれど、宮城がいなくて良かったのかもしれない。彼女がいたら、あまり良いことにはならなかったように思う。
「宮城のばーか」
ドアに文句をぶつけて、背を向ける。
テーブルの上から恋愛漫画を一冊取って、椅子に座る。
ぱらぱらとめくっても、一つ前の巻のストーリーを思い出せない。あやふやな記憶を補完したいと思う。でも、ドア一枚向こうにあるはずのそれはすぐには手に入らない。遠くて嫌になる。
私は恋愛漫画をテーブルに戻して、一巻から置いてある少年漫画を読むことにする。手にした本を開いて、一ページ、二ページと読み進めていく。思い出すことのできないストーリーを追いかけるよりも面白いとは思うが、読む本を自分で決めることができた過去が頭にちらついて集中できない。
それでも二巻まで読んで、三巻を手に取る。半分ほど読んだところで「ただいま」という声が聞こえて、私は顔を上げた。
「おかえり」
「部屋で読めばいいのに」
宮城が私の読んでいる漫画の表紙を見ながら言う。
「おかえりって言ってほしいかと思って」
「部屋で読んでたって言えるじゃん」
「ここの方がすぐに言えるし、いいでしょ」
宮城は、良いとも悪いとも言わない。面倒くさそうに冷蔵庫からサイダーを出してきて、グラスに注ぐ。そして、透明な液体を一口飲んでからテーブルにグラスを置いた。
彼女が私を見て、目が合う。
朝のように視線から逃げずに宮城を見る。
「それ、面白い?」
宮城は漫画のことだとは言わなかったが、面白いと聞いてくるようなものは手にしている漫画以外にはない。
「まあまあ」
「読み終わったら教えて。片付けるし」
そう言うと宮城が部屋に戻ろうとするから、私は咄嗟にさっき開いただけでほとんど読んでいない恋愛漫画を手に取った。
「待って。これ、一巻からある?」
「あるけど」
「じゃあ、貸して。前の話忘れちゃったから」
記憶に埋もれている漫画のストーリーにそれほど興味はない。忘れたままでも一向にかまわないもので、読むなら一つ前の巻からでいいし、わざわざ一巻から読むほどのことでもないと思う。それでも私がしたかったことの理由にはなる。
「持ってくるから待ってて」
「本、自分で持つから一緒に行く」
私は立ち上がって、宮城の隣に立つ。
「え?」
「部屋に入れてよ」
「……やだ」
少し考えてから宮城が言う。
「なんで?」
「仙台さん、変なことしそうだもん」
宮城の言葉に、今日見た夢を思い出す。
彼女が言う“変なこと”がどんなことかは想像できる。
そして、私が見た夢は宮城が言う“変なこと”以上のことのはずで、少し胸が痛む。でも、宮城の部屋に入りたいのはそういうことをしたいからではない。ここに来るまでは出入りできていた場所が、今どうなっているか知りたいだけだ。
やましい気持ちがあるわけではない。
そう。たぶん、ないはずだと思う。
曖昧な気持ちが顔を出す。けれど、正しく感情を伝える必要はないから宮城の言葉は否定しておく。
「しないって。宮城って、私をなんだと思ってるわけ」
「……ルームメイト」
正しくない答えを返した私に、正しい答えが返ってくる。
宮城が言うとおり、私たちはルームメイトだ。
そして、二人で四年間を平穏無事に暮らすなら、ただのルームメイトであり続けるべきだと思う。
でも、宮城と数週間を過ごして、ルームメイトという関係を選んで良かったのか疑問に思い始めている。ルームメイトという関係に縛られて、宮城に触れることもできない今の環境に疑問がある。
「なに?」
宮城がなにも言わない私を怪訝な顔で見る。
卒業式があった日、私は宮城をここへ連れてくるためにルームメイトという新しい関係を用意した。あのときはそれがベストで、それ以上の答えはなかったはずだ。
「宮城とルームメイトって変な感じだなと思って」
自分を納得させて曖昧に笑って言うと、宮城が眉間に皺を寄せた。
「仙台さんがルームメイトになれるって言ったんじゃん。責任取ってちゃんとルームメイトらしくしてよ」
「はいはい」
「本は私が持ってくるから、仙台さんはここで待ってて」
「いい」
「え?」
「本はもういいから、ご飯作ろう」
私は宮城の部屋にではなく、冷蔵庫の前へ行く。
「早くない?」
「お腹空いたし」
後ろから声が聞こえてきて、適当な理由を口にする。そして、冷蔵庫の中身を見ながら、宮城になにが食べたいかを尋ねた。
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