第269話
「苦しい」
私はパスタが詰まったお腹を撫でる。
宮城が茹でたパスタは三人前以上あった。二人で均等に分けて食べたけれど、デザートを食べる隙間がないくらい満腹になった。
「残せば良かったのに」
私の部屋にやってきた宮城が不機嫌そうな声で言う。
隣に座っている彼女を見ると、結構な量を食べたわりに平気な顔をしている。
「勿体ないし」
「食べ過ぎで動けないよりいいじゃん。苦しいなら横になってたら?」
「動けないほどではないから」
今からマラソンをしろと言われたら遠慮したいが、床に転がってじっとしていたいほど胃が重たいわけではない。ベッドを背もたれにして座っていられるくらいの余裕はある。
「映画、なに見る? 映画じゃなくてドラマでもアニメでもいいけど」
ご飯食べたら、私の部屋で映画を見る。
宮城とした約束は忘れていない。
もちろん、気が変わったと言うのなら、他のことをしてもいいと思っている。
「んー」
宮城が迷っているような声を出しながら、膝を抱えてパーカーの紐を指にぐるぐると巻き付ける。
「見たいものないの?」
問いかけると、指に巻き付いていた紐が解かれる。宮城が私を見て、なにか言いかけて、パーカーの紐をぴっと引っ張って視線をそらす。
「宮城?」
「うん」
返事だけが聞こえて、沈黙が訪れる。
宮城のパーカーの紐はだらりと下がっている。彼女の手は床にぺたりとつき、視線も私ではなく床へ向かっている。
どうしてなのかわからないけれど、宮城がおかしい。
もしかすると、さっき澪の名前を出したことが不味かったのかもしれない。
あの話は本当のことだが、するタイミングを間違ったような気がする。
「見たいものがないならほかのことしよっか」
床をじっと見ている宮城に笑いかける。
当然、彼女はこちらを見ない。でも、ぼそりと小さな声が聞こえてくる。
「……爪切り出して」
「え、爪切り? なんで?」
映画を見ないという結論に至ったのだろうということはわかるが、爪切りという単語が出てくる理由がわからない。
「爪切る」
「今?」
「今から切る」
宮城が断言する。
何故、そんなことを言い出したのか理解できないが、出して、と言われて断るようなものでもないから、爪切りを出してくる。
「持ってきたから、手かして」
そう言って宮城の手首を掴むと、彼女はあからさまに不機嫌な顔を私に向けた。
「仙台さんが手だして」
「なんで?」
「私が仙台さんの爪切るから」
「……なんで?」
爪を切るなんてことに大した意味はない。
人間は生きていれば爪が伸びるし、伸びたら切る。
ある程度の長さはほしいが、長すぎたら料理がしにくいし、生活もしにくい。だから、切る。それだけのことで、深い意味はない。
わかっているのに“宮城が私の爪を切る”というシチュエーションに、しなくてもいい想像をしてしまう。
「お正月に仙台さんが私の爪切ってくれたじゃん」
低い声で宮城が言う。
「切ったけど」
あのときの私には下心があった。
爪を切るという行為の先が頭にあった。
宮城にもそういう気持ちが欠片でもあるのだろうか。
「……そのお返し」
小さな声が聞こえ、私たちの間から言葉が消え、食べ過ぎたパスタの重みが胃から消え、澪の名前を出して後悔しかけたことも消える。
宮城にあわせて温度を高めに設定したエアコンから聞こえてくる温風を吐き出す音が、耳に響く。
普段は気にならない音がやけに大きく聞こえる。
私はたぶん、緊張しているのだと思う。
いつもだったら暑いと感じるはずの宮城の温度なのに、その暑さもわからない。
「お返しはいらないかな。私が宮城の爪切ってあげる」
床にぺたりと張り付いている宮城の手に私の手を重ねる。
期待しちゃいけない。
わかっているのに、今、宮城が私と同じことを考えていればいいと思う。
「切らなくていい。さっきも言ったけど、私が仙台さんの爪を切る」
宮城が低い声で言って、重ねた私の手を掴む。
「宮城に任せたら深爪しそうだし」
「私、深爪してない」
不満げにそう言うと、宮城が自分の手を見せてくるから視線を指先に落とす。
確かに深爪はしていない。
綺麗に切りそろえられている。
「してないのはわかったけど、宮城って人の爪切るの下手そうだし、怖い」
お正月に宮城の爪を切ってわかった。
人の爪は自分の爪のようには切れない。
「大丈夫だから、爪切り貸して」
「……絶対痛くするでしょ」
「しないから貸してよ」
「宮城、不器用だし、本当に怖い」
「仙台さん、うるさい。黙って爪切り貸して」
私は手の中にある爪切りを握りしめる。
不機嫌な彼女の気持ちが読めない。
「仙台さん」
催促するように呼ばれて、私は手の中の爪切りを渡す。
宮城は爪切りなんてものを介して、セックスしたいなんてことを伝えてくるほど器用な人間ではない。でも、彼女の言葉だけを聞いていると、そういうことをしたがっているように思えてくる。
宮城が初めて見るもののように爪切りをじっと見てから、私の指にそれを当てる。そして、親指の爪をパチン、パチンと切っていく。人差し指も、中指も、小気味の良い音とともに爪が切りそろえられていく。
そういうことをしたいと思っているのは私だけのはずなのに。
切りそろえられていく爪を見ていると、宮城も私と同じ気持ちなのだと期待したくなる。
パチン。
最後の爪が切られる。
宮城の気持ちがわからないまま、気がつけば私の爪はどれも白い部分が綺麗になくなっていた。
「やっぱり深爪になったじゃん」
テーブルの上に爪切りを置いた宮城に文句を言う。
痛い、という程ではないが、こんなに爪を短くしたことがないから気になる。
「これくらい深爪じゃないし、深爪だったとしても爪なんてすぐ伸びるからいいじゃん」
「それはそうだけどさ」
私は短くなりすぎた爪から視線を上げて、宮城を見る。
そのまま彼女の耳にキスをすると、頭を押される。
宮城の手首を掴んで、首筋を甘噛みして、体重をかける。
でも、宮城は押し倒されてくれない。仙台さん、と不機嫌な声で私を呼び、お腹を押してくるから、頭から消えていたパスタが胃の中で存在を主張してくる。
「宮城」
耳元で囁いて、腰を撫でる。けれど、それも気に入らないらしく、さっきよりも強い力でお腹を押された。
「なんで仙台さんがこういうことするの」
「……誘ってるんでしょ?」
「そういうのじゃない。離れて」
肩を押されて、仕方なくここにはいないペンちゃん一個分くらいの距離を取る。
「仙台さん」
宮城が強い声で私を呼ぶ。
「なに?」
「……私がする」
いくつも意味があって、でも、今この場面で言われたら一つの意味にしか取れない言葉が聞こえてくる。
「――するってなにを?」
「仙台さんがしようと思ってること。やならしないから、いいか悪いか教えて」
私に「離れて」と言った宮城が、私の服を掴む。
これって。
これって、そういうことで。
――本当に?
「……宮城は、私が嫌だって言うと思う?」
ストレートに聞いて、そういう意味じゃないと言われたくなくて、遠回しな言い方になってしまう。
「その言い方じゃわからない。……私がしていいかどうかちゃんと答えて」
私の服を掴んでいる宮城の手に力がこもる。
ぎゅっと引っ張られて、ペンちゃん一個分の距離が半個分の距離になる。
「答える前に一つ聞きたいんだけど。爪を切った意味は?」
「別にない」
「別にないって……。あのさ、普通こういうときって、する方の爪を切らない?」
「……私から触りたかっただけだし、普通とかそういうの知らない」
聞き間違いかと思うようなことが宮城の口から飛び出てきて、聞き返そうとしたけれど、言葉を発する前に「それより答えは? したくないなら映画見る」と告げられる。
「この流れで映画はないでしょ」
「それじゃわかんない」
「私は宮城のものなんだから、好きにしなよ」
「好きにって?」
「ちゃんと言う必要あるの?」
「ある。……こういうとき、仙台さん私に聞いてからするじゃん」
宮城が、正しい手順を踏んで、先へ進もうとしている。
それは、犬よりも扱いがいいということの証明のように思える。
そして、宮城が私を好きなのだということの証明のようにも思える。
私の気持ちを無視して先へ進む方が簡単なのに、私の気持ちを考えて、尋ねてきているなんて、そうとしか思えない。
私は宮城を見る。
服を掴んでいた手が離れ、視線をそらされる。
もういい、映画も見ない、とぼそりと言う声が聞こえて、次の言葉が予想できる。宮城は、部屋に戻る、というはずで、私はそれを阻止したい。
だから。
聞きたいことは聞かない。
今、宮城に自分の感情を正確な言葉にしてくれと言ったら、私の前から逃げてしまうだろうし、その感情について考えることからも逃げてしまいそうだ。
「宮城」
どこにも行かないように腕を掴む。
「私は宮城にしてほしいって思ってる」
今、言えることはこれだけで、だからこそ、ちゃんと聞こえるように、はっきりと。
宮城に告げて、彼女の指先にキスをした。
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