第20話
「キスマーク、つけていいよ」
あっさりと宮城が言い、ブレザーを脱ぐ。
そして、ブラウスの袖が捲られて腕が差し出された。
違う。
こういう感じじゃない。
抵抗して欲しかったわけではないが、躊躇うことなくいいよと言われたいわけじゃなかった。宮城を私と同じ場所まで引きずり下ろしたいとは思ったけれど、彼女が自ら下りてくるのは違う。
これでは私が宮城に従うみたいで、かちんとくる。
それに、宮城は私と同じように戸惑うべきだし、腹立たしく思うべきだ。キスマークをつけていいなどと、宮城から口にするべきではない。
「やっぱいい」
私は、宮城のまくられた袖を下ろす。
そもそもキスマークをつけるなんていうことは、私たちの間に必要のない行為だ。
もうどうでもいい。
私はそう考えることに決めて、気持ちを落ち着かせるためにゆっくりと息を吸う。だが、吸った息を吐き出す前に宮城が言った。
「仙台さんから腕を出せって言ってきたのに?」
「だって、こういうのって友だちにすることじゃないじゃん」
目的はともかく、放課後に家を訪ねて、一緒の時間を過ごしているのだから宮城は友だちだ。一般的な友だちとは少し違うような気もするが、大きな枠で見れば友だちの範囲に入っていると思う。
けれど、宮城は私の言葉を否定した。
「――私と仙台さんは友だちじゃないよ」
だからか。
私は、ようやく宮城の今までの行動を理解する。
友だちではないから、バレンタインデーの友チョコに微妙な顔をしたり、夕飯を作るなと言ったりした。
普通じゃない命令をするのも、友だちではないから。
でも、じゃあ。
私たちって、どういう関係なんだ。
少なくとも、私は宮城を友だちだと思っている。
学校がない日は会わないし、連絡も必要最低限のものだけしかしない。けれど、放課後に家へ寄ったり、たわいもないことを話したりしていれば友だちだ。
宮城にとっては違うようだけれど。
「友だちじゃなかったら、なんなの?」
私は、素直に疑問を口にする。
「なにって、そんなのわかるわけないじゃん」
怒ったように言って、宮城がもう一度袖をまくった。
「はい」
短く軽い声とともに腕が差し出される。
はっきり言えば、友だちだと思っていた人間からそれを否定されるというのはあまり気持ちの良いものじゃない。でも、よく考えてみると、私と宮城は友だちという言葉にこだわるほどの関係でもないように思う。
もともと、成り行きだしね。
宮城という人間に興味を持って、どんな命令をするのか知りたくなっただけ。嫌なことがあったら、五千円を返して終わりにすればいい。そう思って、この部屋に通うようになった。
五千円がなければ、切れてしまうような薄っぺらい繋がりしかなかったのだ。
それでも、サイダーをかけてきた日の宮城とは違って、今日は私を遠ざけようとしているようには見えないから、注意深く二人の関係を間違いなく言い表せる言葉を選んで口にした。
「私、宮城の恋人じゃないし」
「恋人じゃないと、キスマークつけちゃいけないってこと?」
「一般的にはそうじゃない?」
「急に清楚っぽい発言するんだ。遊んでそうなのに」
「ぽいじゃない。清楚なの。あと、前から言ってるけど遊んでないから」
宮城がわざと言っていることはわかる。
でも、彼女が度々口にする私にとって不名誉な発言はしっかりと訂正しておく。
「仙台さんがそう言うなら、そういうことにしておくけど……。友だちじゃなくても恋人じゃなくても、こういうことする人いるでしょ」
「いることはいるだろうけど、私は違う」
「もう恋人じゃない私に跡をつけられてるのに、そんなこと言っても遅いよ」
なるほどね。
一理ある。
――いやいや、ないない。
恋人ではない相手に跡をつけられたからといって、恋人じゃなくてもこういうことをする人というカテゴリに私を放り込むのは間違っている。
それに、宮城にキスマークをつけろと言われるとつけたくなくなる。宮城の腕に跡をつけようとしたのは私だけれど、こうグイグイとこられると逃げたくなってしまう。
「じゃあ、命令」
動こうとしない私に、宮城が逆らうことができない言葉を口にする。
「私がしたのと同じようにして」
彼女の声は、友だちじゃないという証が欲しいと言っているように聞こえた。
きっと、踏み絵みたいなものなんだと思う。
私と宮城が友人関係にないということをはっきりとさせる。
今の命令は、そういう行為をしろということだ。
「わかった」
命令は理解したが、納得したわけではない。
でも、私は彼女の腕を掴んだ。そして、薄く唇を開いて、宮城が跡をつけた場所と同じ位置に押しつける。
息を吸うように腕の皮膚を吸うと、ちゅっ、小さな音がして頭の中に響く。
舌先で肌に触れても味はしない。
噛んだときのような感触もない。
紙パックのジュースをストローで飲むみたいに、吸っているだけだ。
唇についた肌は少し冷たくて、柔らかい。
感触は悪くない。
もう少し強く唇を押しつけて、一気に息を吸い込む。
腕を囓るみたいに歯も押し当てると、宮城の手が肩を掴んだから私は顔を上げた。
「思ったより赤くなった」
宮城の声に、視線を彼女の腕に落とす。
すると、そこには花びらみたいに赤い跡がついていた。
「どうするの、これ」
私は自分がつけた跡を指先で押す。
「どうもしない。ほっとく。そのうち消えるし。仙台さんは、彼氏につけられたって言っとけば」
「彼氏いないし、誤解を生むから言わない」
明日は体育の授業はない。
着替えることがないから、誰かに宮城につけられた跡を指摘されることもないはずだ。
数日後には体育があるけれど、まあ、跡が薄れていると思いたい。
「宮城さ。今日、少し変じゃない?」
私は、ブラウスの上からキスマークを押さえる。
口数が多くて、今までしなかったゲームをして。
命令が後に残るような行為までした。
「いつもと変わらないと思うけど」
「変だよ」
「それを言うなら、仙台さんだって変じゃん。今まで私に命令みたいなお願いなんてしたことなかったのにさ」
「そうだけど」
「そんなことより、このボタン外していい?」
前触れもなく宮城が私のブラウスに触れ、上から二つ外したボタンの下、三つ目のボタンをつまんで引っ張る。
そのボタンには良い思い出がない。
サイダーをかけられた日のことが脳裏に浮かんで、眉間に皺が寄る。
「やだよ。なにするつもりなの」
「ここにもつける」
そう言うと、宮城がボタンから手を離し、ちょん、と鎖骨からかなり下の方をつついた。
「そんなところに跡つけたら、張り倒すって言ったよね?」
「だって、仙台さんキスマークつけるのあんまり嫌がらなかったし。それに、仙台さんって学校だとボタン一つしか外してないから、この辺見えないでしょ」
よく見てるな、と思う。
確かに宮城が言うとおり、学校ではブラウスのボタンは一つしか外さないし、ネクタイもそれほど緩めていない。
校則は守っていないが、先生に目をつけられない程度に留めているから、宮城がつついた辺りなら着替え以外で誰かに見られることはないはずだ。
でも、だからといってキスマークをつけていいわけじゃない。
「そういう問題じゃない」
「いいじゃん」
命令だとは言わずに、宮城が私のネクタイを外して三つ目のボタンも外す。
断りもなく胸元を開けると、顔を近づけてくる。
首筋に息が吹きかかって、くすぐったい。
彼女がつついた部分に、自分のものではない熱が近づく。
髪の毛が肌に触れて、なんだかやけに生々しい。
意識が皮膚の表面に集まってきて、私は宮城の肩を押した。
「やめてよ」
「つまんない」
あっけないほど簡単に私から離れた宮城が、平坦な声で言う。
そして、唇をつけようとした部分をブラウスごとつまんで、結構な力でつねった。
「いたっ」
思わず声を出して宮城の腕を掴むが、手は離れない。
「跡なら、こういう方法でもつくよね」
そう言って、宮城がつねる手に力を込めた。
肉をちぎり取るつもりだと言われたら信じたくなるほどつねられて、私は彼女の手を強引に剥ぎ取る。
「痛いからっ」
「冗談だから」
「馬鹿じゃないの。冗談にならない」
「今のくらいで跡残ったりしないでしょ」
そういうことじゃない。
単純に痛い。
冗談ですませたくないくらい痛かった。
それに、つねって跡を残すなんて普通は考えない。
宮城の頭には、常識を留めておくネジが存在しないんだと思う。
だが、今の行為はおかしいと言っても、常識をどこかに落としてきたような宮城に伝わるはずがなかった。
私が小さくため息をつくと、宿題を出す先生のように事務的な口調で宮城が言った。
「夕飯、食べてく?」
「食べてく」
どうせ、家に帰っても一人で食事を済ませるだけだ。
それなら、誰かと一緒に食べるほうがいい。
私は、宮城に外されたボタンをとめる。
「何でも良いよね?」
問いかけられて「いいよ」と答えると、宮城が今までの行為も会話も存在しないみたいに立ち上がって部屋を出る。
私はブレザーを着て、腕を見る。
当たり前だけれど、宮城がつけた跡は見えない。
「やっぱ、断れば良かった」
一人呟いて、部屋を出る。
たぶん、宮城は私を必要としている。
私も、この場所を必要としている。
とりあえず、お互いが必要な関係であることは間違いないけれど、こういうことが続くと困る。
この関係には限りがあって、高校生活が終わる頃には一緒に終わるはずだ。この先長く生きることを思えば、刹那的な関係と言える。それなのに、体に跡が残るような行為は、二人の間を未来永劫続くものにする行為に思えて胃が重くなる。
この跡はいつまで残るんだろう。
私はリビングに向かいながら、腕を押さえた。
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