第279話

 欲しいけれど、買わなくてもいい。

 マニキュアはそれくらいのもので、どうしても今日買わなければいけないものではない。


 それでも。


 今日の私にはマニキュアを買いに行くという行為が必要で、宮城は私とした約束を守らなければならない。


「仙台さん。どれ買うか決まってるの?」


 マニキュアが並んだ棚の前、フレンチトーストを食べていた時よりも不機嫌そうな声が隣から聞こえてくる。


「決まってない」


 私はつまらなそうな顔をしている宮城を見る。


 マニキュアは食事の後に彼女を連れ回す理由に過ぎない。洋服でもノートでもぬいぐるみでも良かったが、あのとき頭に浮かんだのはマニキュアだった。


「宮城はどれがいいと思う?」


 二人でなにかをするという時間を引き延ばすために問いかける。

 放っておいたら彼女は「私は別のものを見てくるから」なんて言って、どこかに消えてしまいそうだ。


「どれでもいい」

「非協力的過ぎる」

「だって、私のものじゃないもん」


 宮城という人間は、予想を裏切ってほしいときは裏切らず、予想を裏切ってほしくないときに裏切る。今日は前者の宮城で、予想通りマニキュアに興味を示してくれない。でも、それでいいと思っている。


 そもそもマニキュアを選ぶということに重点を置くなら、宮城ではなく澪と来た方がいいはずだ。彼女の方が宮城よりも真剣にマニキュアを選んでくれるに違いない。


「人のものだとしても、もう少し真面目に考えなよ」

「考えてもわかんないし」

「じゃあ、宮城だったらどれにする?」

「使わないし、選ばない」


 まあ、そうだよね。


 私は宮城の指に視線を落とす。

 彼女の爪は綺麗に切りそろえられてはいるけれど、なにも塗られていない。私に深く触れた日も、今日と同じように素っ気ない爪をしていた。長さも変わらない。深爪にならない程度に切られていた。


 過去を振り返るのは良くないことだ。


 わかっているのに、宮城が私の爪を切った日に意識が飛ぶ。あの日の宮城の爪は、私とああいうことをするために短く切ってあったのではないかなんて考えてしまう。


 駄目だ。


 こういうことを考えていると、宮城の行動を私の都合のいいように捉えようとしてしまう。そして、最後にはやっぱりそんなことはないと面白くない結論に辿り着く。


 ――宮城の爪は普段から長くはない。


 私は視線を指から外し、宮城の顔を見る。


「たまにはマニキュア使えば? 選んであげるから」

「使わないから選ばなくていい」

「だったら、私の使う?」

「使わない。ほかのところ見てきていい?」


 マニキュアを取り扱っているお店はたくさんあるが、化粧品ばかりが置いてあるお店に行けば宮城がすぐに帰りたがるだろうから、今日は雑貨屋を選んだ。マニキュアを買ったあとも宮城を連れ回すことができるだろうという思いもあった。


 だから、彼女は私と一緒にいるべきで、一人でふらふらと店内を歩き回られるのは困る。


「あとから一緒に見たいし、マニキュア選ぶのくらい付き合いなよ」


 私の声に宮城が眉間に皺を寄せ、棚を睨む。そして、マニキュアを一つ手に取った。


「これは?」


 押しつけられるようにしてマニキュアを手渡される。


「いいけど、なんでこの色?」


 たくさんあるマニキュアの中から宮城が選んだ色。

 薄いピンク色。


 私は手の中のマニキュアではなく彼女の顔をじっと見た。


「やなの?」

「嫌じゃないけど、なんでかなって」


 理由がほしい。


 深く考えて選んだようには見えなかった。だから、それだからこそ、それなりの理由があってほしいと思っている。


「……可愛いの、好きなんでしょ」


 宮城がぼそりと言う。


「好きだけど」

「好きなら、それでいいじゃん。私、ほかのところ見てくるから」


 用事は済んだとばかりに宮城が私に背を向けようとする。

 本当に彼女は自分勝手だ。


「これ買うから一緒に来て」


 いつもだったら「買って来るから待ってて」と言うところだが、今日は違う。私は彼女の腕を掴んで、引っ張って歩く。


「なんで私も一緒に行かなきゃいけないの」


 うしろから、出かけた先で出すようなものとは思えない声がする。


「迷子になったら困るから」


 手を離したら、宮城が家へ帰ってしまいそうな気がして離せない。


「子どもじゃないんだから、迷子になるわけないじゃん」

「私が迷子になるかもしれないでしょ」

「もっとなるわけないじゃん」


 宮城が低い声で言う。


「人が多いし、油断してると迷子になる」


 そう言うと、納得したわけではなさそうだが、宮城が静かになる。私たちはレジに並ぶ人たちの最後尾について、少しずつ前へ進む。


「どこにも行かないから腕はなして」


 機嫌の悪そうな声が聞こえて、手を離す。

 順番があっという間に回ってきて、会計を済ます。

 人混みから離れると、宮城が私の腕を押した。


「むかつく」

「せっかく来たんだし、なにか見るなら一緒に見たいじゃん」

「仙台さんの買い物、終わったんだから帰る」

「待ちなよ。さっきほかのところ見てくるって言ってたんだし、なにか見たいものあるんでしょ?」

「別にない」

「なくても見ようよ」


 返事はないが、大人しくしているところを見ると私の提案は受け入れられたらしい。


 マグカップにぬいぐるみ。

 ネックレスにピアス。


 雑貨屋には、見ているだけで時間を潰せるものがたくさんある。二人でゆっくりと店内を回っていると、宮城は楽しいのか楽しくないのかわからないが、ときどき足を止めて「可愛い」だとか「舞香が好きそう」だとか言っている。


 面白くない発言がなきにしもあらずだけれど、宮城と一緒にいることの楽しさに比べれば些細なことだ。それに宇都宮はなにも悪くない。


 小さなとは言えない嫉妬には目をつぶって、宮城の後をついて回る。


 たぶん、人から見たらたいしたことのない一日なんだと思う。

 でも、私にとっては大事な一日だ。


 宮城と一緒に店内を回る。


 そういうどうでもいいことが楽しくて、楽しくて、ときどき嫉妬をしたりしても、帰りたくない。


「仙台さん、気持ち悪い」


 アロマオイルを見ていた宮城が顔を上げて言う。


「え、なんで?」

「うしろからついてくるから。ストーカーみたい」

「その言い方、酷くない?」

「私の前歩いてよ」

「宮城の見たいものが見たいから」


 にこりと笑いかけると、後から元気のいい声で名前を呼ばれる。


「仙台先生!」


 聞き慣れた呼び方に振り返ると、そこには毎週会っている高校生が立っていた。


「桔梗ちゃん」

「ポニテだったから、気がつかないところでした」


 どこから現れたのかわからないが、家庭教師の生徒である桔梗ちゃんがにこにこと答える。


 気がつかないでほしかったと思う。家庭教師のバイトを敵視していると言ってもいい宮城がいるところで会いたくはなかった。だが、気がつかれてしまったのだから、なにも話をしないというわけにはいかない。


「私もこんなところに桔梗ちゃんがいるとは思わなかったから、気がつかないところだった。友だちと来てるの?」

「友だちと一緒だったんですけど、解散したところです」

「そうなんだ」


 笑顔を作って桔梗ちゃんを見ると、彼女の目は私の隣に向いていた。その瞳が好奇心でいっぱいのように見えて、嫌な予感がする。


「あの、猫のペンケースのルームメイトさんですか?」


 クリスマスに私が宮城からもらったプレゼントが桔梗ちゃんの口から出てくる。

 彼女の輝く瞳は宮城に向けられ続けている。


 視線の先にいる宮城はなにも言わない。

 ただ居心地が悪そうな空気だけが伝わってくる。


 宮城は衝動的だけれど、それは私にだけだ。他の人には常識的な対応をしているし、今だって非常識な対応をするわけがないとわかっている。それでも私の胸の奥はぞわぞわとしていて、気道を針金で締められたような息苦しさを感じている。


「そう、ルームメイト。一緒にご飯食べてきたところ」


 なるべく軽い調子で答えて桔梗ちゃんに笑いかけると、宮城がなにか言いたげな顔をして私を見た。でも、私にはなにも言わずに桔梗ちゃんの方を向いて、小さくも大きくもない声を出した。


「初めまして」


 喧嘩が始まると思っていたわけではないが、無難に挨拶をしてくれてほっとする。


「初めまして。花巻です」


 桔梗ちゃんの声がいつもより少し高い。


「宮城です」


 こっちは普段と変わらない声音だ。

 宮城を見ると、機嫌が良いとも悪いとも言えない顔をしている。なにを考えているのか気になるが、今聞くわけにはいかないし、後から聞いても答えないだろうとは思う。


「一度会ってみたかったので、会えて良かったです」


 桔梗ちゃんの声に、宮城が曖昧な笑顔を作った。


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