第112話
枕元の黒猫を本棚に移動させる。
舞香と亜美から送られてきたメッセージに返事を送っていると、チャイムが鳴った。五日後と約束した通り、学校から帰って『今から来て』と仙台さんにメッセージを送ったから彼女に違いない。
インターホンを確認すると、モニターに仙台さんの姿が映っている。
思っていたよりも遅い。
今から、というのは“すぐに”ということで、早く来いという意味だ。
メッセージを送ってから、結構待っている。
インターホン越しに文句を言って、エントランスのロックを外す。しばらくすると、もう一度チャイムが鳴る。玄関を開けると、仙台さんが不満を口にしながら中へ入ってきた。
「一応、急いで来たんだけど」
「遅かった」
会うことを迷っていても、来てと言ったらすぐに来てほしいと思う。
「これ以上早く来ようと思ったら、空でも飛んでこないと無理でしょ」
「飛べるなら、飛んできてよ」
「宮城が飛んだら、私も次から飛んでくる」
仙台さんが面倒くさそうに言って靴を脱ぐ。
私は彼女に五千円を渡そうとして、小さく息を吐く。
この五千円は、仙台さんの時間を買うためのものだ。
惜しいとは思わない。
でも、渡さなかったらどうなるのだろうと気になっている。
この五千円がなくても、仙台さんはこの家に来てくれるのだろうか。
最近ずっと、聞いてみたいと思っている。
仙台さんの方から「いらないって言ったら?」と尋ねられたことはある。あのときに、それがどういう意味だったのか聞いておくべきだったのかもしれない。あの日、仙台さんの言葉を受け入れて五千円を渡さずにいたらどうなっていたのか知りたいと思う。
「仙台さん」
対価が存在しない私たち。
今よりも少しだけ先を想像して、手にした五千円を渡すべきか迷う。でも、私はすぐに五千円を仙台さんの前に出した。
「これ」
いつものようにお札の端っこが引っ張られて、反射的に指に力が入る。けれど、私はなにか言われる前に慌てて指を離した。
「ありがと」
仙台さんが五千円をしまう。
五千円を渡さない私に価値があるとは思えない。
対価を払わなければ、仙台さんの時間は買えないし、彼女は命令をきかない。命令をきかないということは、この家に来る必要もなくなるということだ。
「飲み物持ってくる」
私は仙台さんに背を向ける。
「じゃあ、待ってる」
ぱたん、と扉がしまる音が聞こえる。
廊下を歩いてキッチンへ向かう。
グラスを二つ用意して、冷蔵庫を開ける。中には、残り少なくなったペットボトル二本と昨日買ってきた新しい麦茶がある。私は、サイダーと新しい麦茶を取り出して、グラスに注ぐ。それをトレイにのせて部屋に戻ると、仙台さんがいつもの場所に座っていた。
「今日、夕飯作って」
テーブルの上にグラスを置いて、仙台さんの隣に座る。
「それが今日の命令?」
五千円の対価にほしいもの。
破られない約束。
そういうものを買えたら、仙台さんのことを信じられる。違う大学に行っても、彼女が言うように時々一緒にご飯を食べたり、一緒にどこかへ行ったりしてもいいと思える。
でも、そんなことは言えないし、五千円で一生を縛るような命令なんてできるわけがない。そして、仙台さんを遠ざけようとした私が口にできる命令でもない。
「そう。なんでもいいから作って」
私は五千円に見合う命令をして、仙台さんを見る。
「なんでもって、冷蔵庫からっぽだったりしない?」
「しない」
「先に冷蔵庫の中、見てもいい?」
「いいけど、一緒に行く」
そう返すと、テーブルに参考書を広げたまま仙台さんが立ち上がる。私も一緒にキッチンへ向かう。
リビングとキッチンの電気をつけると、仙台さんが冷蔵庫を開けた。中をじっと見てから、冷凍庫と野菜室も確かめて振り返る。
「じゃがいもと人参、好きなの?」
「普通だけど。なんでそう思うの?」
「いつもあるし、好きなのかと思った」
「いつもあるわけじゃない。なに買えばいいかわからないから、買ってきただけ」
「食べたいものにあわせて買ってきなよ」
「なに食べたいかわかんない」
適当に食べる。
そういう食事を続けてきたから、なにかを作ってほしいと思うことがあっても、なにを作ってほしいかわからない。自分がなにを食べたいかもわからない。
そして、料理に興味を持つこともなかったから、なにを買えばなにを作ることができるのか知らないまま高校生になった。
「じゃあ、一緒に買い物に行けばいいんじゃないの? 材料から作る料理を決めるより、料理を決めてから材料を買いにいった方が作りやすいし」
良いことを思いついたとまではいかないが、明るい声で仙台さんが言う。
二人で買い物に行って、重たい荷物を半分こにして帰ってくる。
それは昨日考えたことで、仙台さんから同じようなことを言われるとは思っていなかった。
彼女の声を聞いていると、卒業式が終わってもこうして二人でキッチンに立つことがありそうな気がしてくる。けれど、それはあり得ない未来だ。
「そんなに言うなら、仙台さんが買ってきてよ。お金なら渡すし」
「一緒に行くっていう選択肢はないわけ?」
「ない」
仙台さんと一緒にいると、一人に戻ることが怖いことに思えてくる。厳密に言えば、仙台さんがいなくなっても一人じゃない。友だちがいるし、大学に行ったらそこでも友だちができるはずだ。それなのに私は仙台さんに向かって酷く傾いていて、彼女がいなくなったら一人きりになってしまうような気がしている。
仙台さんを支えにして立っていたら、彼女がいなくなったら一人では立っていられなくなる。
そんなことでは困るから、一人でできることは一人でやらなければいけない。
「それなら、今まで通り宮城が買ってきて」
仙台さんがわざとらしくため息をついてから、リビングへ向かう。そして、ご飯を食べるわけでもないのにカウンターテーブルの前に置いてある椅子へ座った。
「大体さ、私にお金払ってご飯作らせるより、家政婦さんみたいな人を雇った方が美味しいご飯が出てくるんじゃないの?」
のんびりと話し始めた仙台さんは部屋に戻るつもりがなさそうで、私は仕方なく彼女の隣に立つ。
「他人が家にいるのやだし」
お母さんがいなくなってからしばらくの間、食事の用意や掃除をしてくれる人が家に出入りしていた時期があった。その人が家政婦と呼ばれる人だったのかはわからないが、他人が家にいると落ち着くことができなかったことをよく覚えている。
「私も他人だけど」
「仙台さんは――」
特別、と言いかけてやめる。
これは適当ではない言葉だ。
「私は?」
仙台さんがにこりと笑う。
「他人だけど、同じクラスの人だったからいいの」
「それ、私じゃなくてもいいってこと?」
「どうでもいいじゃん、そんなこと。それより、なに作るか決まった?」
なにか言いたそうな仙台さんの視線から逃げるように、話を変える。
「決まってない」
「早く決めて」
今日の献立なんてどうでもいい。
どうせ時間をかけるなら、勉強の方にかけた方がいい。
でも、仙台さんは勉強よりも夕飯のメニューの方が気になっているらしく、隣で真剣な顔をして考え込んでいる。
「早くって言われても、カレーもシチューも何度も作ってるし。んー、肉じゃがとか? あ、でも玉ねぎないか」
仙台さんがぶつぶつと独り言のように口にした言葉の中に、食べたいものが見つかる。
「肉じゃが作れるんだ?」
「食べたいの?」
「作れるなら」
「作り方わかんないし、調べる。玉ねぎないから、美味しくないかもしれないけどね」
「玉ねぎなくても、美味しく作ってよ」
材料が足りないことは気にならない。
でも、足りなくてもそれなりに美味しい方がいい。
「善処はするけど、保障はしない」
仙台さんが立ち上がって、キッチンへ戻る。そして、冷蔵庫の中身と調味料を確認すると、部屋へ戻ると言った。
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