第190話
冷蔵庫の前、私はため息を一つつく。
気がつけば夏休みも最終日で、宮城の誕生日もすぐそこまで迫っている。
ケーキ、どうしようかな。
できることなら自分で作りたいけれど、生まれてから一度もケーキを作ったことがないから試作せずに上手く作れる自信がない。お菓子はバレンタインデーに友チョコを作るくらいであまり作ることがなかったし、ケーキを作って食べさせたい相手もいなかった。
無理にケーキを作る必要がないことはわかっている。
それでも一度試しに作ってみようと道具を揃えて材料を買ってきたけれど、試作することができないまま夏休みが終わろうとしている。
「試しに作るのはいいけど……」
ケーキを食べさせたい相手は、同じ家に住んでいる。
宮城にバレないようにケーキを作って驚かせたいわけではないから作っていることを知られてもかまわないが、試作したケーキをどうするかという問題が発生する。
私は冷蔵庫を開けて、賞味期限が迫ってきている牛乳と卵を見る。
大きなケーキを作るつもりはないけれど、一人で食べきれる量にはならない。宮城と二人で食べればいいのかもしれないが、食べさせたいと思っている本人に試作品を食べさせることになるし、同じケーキを誕生日に出すことになるのも面白くない。
「やっぱり買ってこよう」
宮城の誕生日に必要なものは、手作りのケーキではない。どんなケーキでもいいから、ホールケーキを二人で食べることが大切だ。宮城が一人きりで誕生日を過ごすことがないように、ホールケーキの残りが冷蔵庫にしまわれることがないようにしなければならない。
ふう、と息を吐いて椅子に座る。
ケーキは作らないにしても、まだプレゼントが決まっていない。
私は、自分の誕生日に食べたケーキと翌日にもらった猫の箸置きを思い出す。
ケーキは私が好きだと思うものを選んでくれたとわかったし、猫の箸置きも悩んで選んだことがわかるものだった。私も宮城と同じように、彼女のために悩んで考えて誕生日を祝いたいと思っている。
私は宮城の部屋のドアを見る。
彼女は今日、残っている課題を片付けると言って朝から部屋にこもっていて食事以外は出てこない。
早く出てくればいいと思う。
プレゼントは今すぐには決まらないし、ケーキを作らないなら今日はすることがない。冷蔵庫にある材料を使ってなにか別のお菓子を作ってもいいけれど、どうせ作るなら一人ではなく宮城と作りたい。
いつもならもうドアをノックして、宮城を呼んでいる。でも、課題をやると言われているからそんなこともできない。
私は立ち上がって、食器棚からグラスを出す。
麦茶を注いで一口飲むと、私の願いが通じたのかドアが開いて宮城が出てくる。
「課題終わった?」
なにも言わずに冷蔵庫を開け、サイダーを取り出す彼女に問いかけると「終わった」と素っ気ない声が返ってくる。
「仙台さんはなにやってるの?」
宮城は興味のなさそうな顔をしてそう言うと、テーブルの上にグラスを置いてサイダーを注いだ。
「夕飯なに作ろうか考えてた」
ケーキを作ろうか悩んでいたとは言えず、私は悩みを無難な言葉に置き換えて答える。
「さっきお昼食べたばっかりじゃん」
「一時間以上経ってるし、さっきって言うほど食べたばかりじゃないと思うけど」
「そうだけど」
会話はたわいもないもので、続けても続けなくてもいいようなものだ。宮城はそれを証明するようにサイダーのペットボトルを冷蔵庫に戻すと、グラスを持って私に背を向けた。
「宮城はこれからどうするの?」
「どうもしない」
宮城は私を見ない。
課題が終わっているのだから、彼女の後をついていって部屋に入れてもらってもいい。たぶん、宮城も断ったりしない。でも、今日は彼女の部屋へ行くよりもしたいことがある。
「だったら、クッキー作らない?」
映画やゲームも悪くないけれど、たまには違うこともしたい。
「クッキー?」
「そう。一緒に作りたいなって思って」
「やだ」
宮城が振り返ってはっきりと言う。
「なんで?」
「クッキー嫌いだし」
「今まで何度も一緒に食べてたのに?」
どうしてもクッキーを作りたいわけではないから、作るものはなんでもいい。ただ、宮城がクッキーを嫌いだなんて初耳だ。と言うよりも嫌いなわけがない。宇都宮が遊びに来たときに二人で食べてとクッキーを持ってきたし、宮城がクッキーをだしてくれたこともあった。
「今、嫌いになった」
宮城がぼそりと言って、手に持っていたサイダーをごくりと飲む。
「嫌いになった理由、聞いてもいい?」
「どうしてそんなこと聞きたいの?」
「クッキーって嫌いな人あんまりいないし、急に嫌いになる人もあんまりいないから」
宮城の声に答えながら、彼女が嫌いだと答えたくなった理由を考える。
記憶を掘り進めて、最近クッキーを食べたことを思い出す。
あれは私の誕生日の翌日で、家庭教師の生徒、桔梗ちゃんからもらったクッキーを私一人で食べた。誕生日の当日は、そのクッキーを一緒に食べようと宮城を誘ったら不機嫌そうな声で断られた。
宮城は、私がバイトの話をすると機嫌が悪くなる。
バイトを辞めてと言ってきたこともあった。
「別に理由なんてない」
低い声が聞こえてくる。
いつもの不機嫌な声。
クッキーなんてただのお菓子で、嫌う理由のないものを嫌う声。
それはもしかして。
考えかけて、すぐに自分で否定する。
でも、あり得ないことでもないと思う私もいる。
――私が宇都宮に嫉妬するような気持ち。
それが宮城にもあるのかもしれない。
まだルームメイトでいてほしいという宮城のどこかが、ルームメイトではないなにかに変わりかけているのかもしれないと思う。いや、思いたい。
「大体、なんで急にクッキー作ろうと思ったの」
宮城があからさまに機嫌の悪い声で言って、サイダーが入ったグラスをテーブルに置く。
「なんとなく」
クッキーを嫌いだという理由を追及したいけれど、踏み込み過ぎると宮城は逃げてしまう。今もサイダーを置いたまま部屋に戻ろうとしている。私は、宮城がここからいなくなってしまう前に手を掴む。彼女の指先に唇をつけると、気に入らないのか足を踏まれた。
「なんとなくなら作らなくてもいいじゃん」
「作らなくてもいいけど、作っちゃいけない理由もないし。一緒に作ろうよ」
「クッキー嫌いだって言ってる」
宮城が手を自分の方へ引っ張り戻して、私を睨む。
「作ったクッキーは私が全部食べるから」
「それ、私がクッキー作る意味あるの?」
「じゃあ、宮城が食べたいものは? それ作るから教えてよ」
クッキーではないものなら一緒に作ってくれると言うなら、それでもいい。私は彼女を引き止める言葉を並べていく。
「作るものはなんでもいいしさ、ここにいなよ。大学始まったら、今ほど一緒にいられなくなるし」
にこりと笑いかけて、私は宮城がテーブルに置いたサイダーを一口飲む。
口の中で炭酸がしゅわしゅわと弾けて、胃に落ちていく。
冷たいだけで味がよくわからない。
宮城が好きなものでも炭酸はやっぱり苦手だ。
それでもサイダーをもう一口飲むと、小さな声が聞こえてくる。
「……作り方は?」
「今から検索する」
私はサイダーが入ったグラスをテーブルに戻して、宮城が逃げ出さないように彼女の手をもう一度掴む。そして、テーブルの上からスマホを取った。
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