第98話

「こんな部屋だっけ」


 テーブルの上にノートを広げながら、舞香が不思議そうな声を出す。


「こんな部屋だよ」


 当たり前にように答えたけれど、彼女の違和感は正しい。過去に一度だけ舞香が遊びに来たときとは、部屋の中が微妙に違う。


 テーブルは大きくなっているし、ものが増えている。

 冬休み三日目、今日も舞香は妙に鋭い。


「そう言えば、ファンヒーターは? 去年、買ってもらったって言ってなかった?」


 今年の初めまで部屋にあって、今はないものの名前を舞香が口にする。


 よく覚えているなと思う。

 確かに去年、そんな話を舞香にした。


「今は使ってない」


 この冬、ファンヒーターは片付けたまま出していない。買ってもらってからずっと活躍していたけれど、出番がないまま終わる予定だ。いつも暑そうにしている仙台さんのためというわけではないけれど、エアコンだけでも冬を乗り越えられそうだからわざわざ出さなかった。


「寒いなら、温度上げようか?」


 エアコンのリモコンに手を伸ばしながら問いかけると、向かい側に座った舞香から「大丈夫」と返ってくる。


 今日は舞香の家で勉強をするはずだったけれど、予定はあっさりと変わって彼女の方が私の部屋に来ている。親戚が突然やってきて母親に家を追い出されたらしく、勉強会は私の部屋で開催されることになった。


 仙台さんの痕跡が残るこの部屋に舞香を入れることに抵抗があったけれど、絶対に部屋に入れないなんて言ったら不信感を抱かせるだけだ。


「志緒理って、猫好きだっけ?」


 テーブルに勉強道具を並べているにも関わらず、勉強をする気がなさそうな舞香が本棚を見る。彼女の視線の先では、枕元が定位置の黒猫のぬいぐるみがくつろいでいる。


 舞香が来る前に本棚へ移動させたそれは、仮の住まいも気に入っているのかずっとそこにいるような顔をしている。


「別に」

「だよね。もらったの?」

「自分で買った。一応、それの友だち」


 私はテーブルの横に置いてあるワニを指さす。


「これの?」


 舞香がずるずるとティッシュ箱の守護神であるワニを引き寄せる。


「そう」

「そのぬいぐるみ可愛いし、買いたくなるのもわかるけど、これの友だちかあ」


 ワニの頭をぽんぽんと叩きながら、舞香が言う。


「一人だと寂しいじゃん」


 私は膝立ちになって、テーブルの向こうからワニを取り返す。そして、テーブルの下にそれを置いた。


「志緒理さあ、なんかあったりした?」

「なんで?」

「なんでって。三年になってから付き合い悪いから。夏休みも忙しいって言ってほとんど会ってくれなかったし」


 そう言うと、わざとらしいくらいに拗ねたような顔をする。


「夏休みは、舞香も塾があって忙しいって言ってたじゃん」

「そうだけど、なにかあるのかなって」

「あるのは舞香でしょ。話したいことがあるって言ってたけど、なに?」


 勉強、一緒にしようよ。


 昨日の夜、舞香が送ってきたメッセージにはそう書いてあった。けれど、そこにおまけのように『ちょっと話したいこともあるし』という一文がつけられていたから、本題は勉強よりも“話”にあるのだと思う。


 冬休みも塾があって忙しいと言っていた舞香が理由を作ってまで私に会おうとしたことを考えると、それなりに重要な話だと予想できる。


「あー、うん。そう、あるんだけど」


 どういうわけか歯切れが悪い。

 舞香の様子を見ているとあまり良い話には思えなくて、憂鬱になる。


「先に謝ってもいい?」

「……謝りたくなるほど悪い話?」

「わかんないけど、謝った方がいいような気がする。だから、ごめん」


 わざわざ勉強会なんて口実を作ってまでしたい話で、さらに謝りたくなるような話だなんて聞きたくなるようなものではないけれど、聞かないわけにもいかないから「それで」と先を促す。


「前にも聞いたけど、志緒理ってさ、仙台さんと仲良いの?」

「……仲良くないけど、話ってそれ?」


 舞香の話はまだ本題に入っていないはずだ。

 けれど、前置きとして始まった話がすでに最悪のもので、私は頭を抱えたくなる。


 仙台さんのことは一番聞かれたくないことだし、一番言いたくないことだ。


「うん、まあ、そんな感じかな」


 舞香が曖昧に返事をして、サイダーを飲む。

 そして、ふう、と小さく息を吐き出すとゆっくりと話し出した。


「この前、購買に行く途中に仙台さんと話したって言ったでしょ。志緒理、あのときのこと気にしてたから一応伝えておこうと思って」


 十一月、音楽準備室で仙台さんに抱きしめられた日。


 舞香から、仙台さんと廊下でぶつかって、それがきっかけで少し話をしたと聞いた。


 あの日のことはよく覚えている。


 舞香に仙台さんとなにを話したのかと聞いた。そのとき、舞香はたいしたことは話さなかったと言ったはずだけれど、今になって伝えたい話が出てくるということは隠していたことがあるということだ。


 嫌な予感しかしない。


「伝えておかなきゃいけないようなことってなに?」

「あのとき、大学の話になって私の志望校教えたんだよね。そしたら仙台さんも教えてくれて、受ける大学が近いってわかったからついでに志緒理のことも話しちゃったんだけど」

「え? 話したって……」

「ごめん、志緒理が私と同じ大学受けるみたいだって仙台さんに話した。やっぱり、言わない方が良かった?」


 申し訳なさそうな顔をして舞香が言う。


「――別に。謝るほどのことじゃないじゃん。仙台さんとはちょっと話すことがあったくらいで仲が良いわけじゃないし。大学の話したくらいで怒らないって」


 嘘だ。

 怒ったりはしないけれど、“別に”なんてことはない。


 言わない方が良かったに決まっている。

 動揺しすぎて、こめかみの辺りが痛いくらいだ。


 私と仙台さんがどんな関係かは誰も知らない。

 もちろん、舞香だって知らない。


 だから、焦る必要はないし、慌てる必要もない。焦ったり、慌てたりする方が怪しい。なんでもないことのように受け流せば、それで終わる話だ。


 それなのに早口になってしまって、不自然な言い訳のようになってしまう。そのせいか、舞香が不審者を見るような目で私を見ているような気がする。


「それにしても、今まで黙ってたのになんで急に話す気になったの?」

「言わなくてもいいかなって思ってたけど、あのとき仙台さん、志緒理のこと結構聞いてきてたし、志緒理も最近なんか変だしさ。そういうのって、やっぱり、色々考えちゃうっていうか。だから、なんとなく話しておいた方が良いかなって。それに、志緒理と仙台さんが仲良さそうな気がしてたから」


 気がしてた、と言ってはいるが、舞香の口調は私の言葉を疑うものに近い。自分の中のやましさがそう感じさせるのかもしれないけれど、喉をぎゅっと締められたような気がして呼吸が止まりそうになる。


「何度も言うようだけど、仙台さんとは仲良くないし、私のこと聞いてきたのは他に話すことがなかったからじゃないの」


 私は、落ち着けと念じながら舞香を見て話す。


「そうかもしれないけど。ほんとに二人って――」


 舞香がなにかを言いかける。


 でも、隠し事をしていたことに負い目を感じているのか口から出かかった言葉を飲み込んで、「なんか、ごめんね」と言った。


「そろそろ勉強しようよ。舞香、ここ教えて」


 いつもなら、言いかけたなら最後まで言いなよだとか、途中で止めたら気持ちが悪いだとか言って、途切れた言葉を舞香から引き出す。けれど、今日は飲み込まれた言葉を引っ張り出すようなことはしない。


 そんな言葉は存在しなかったことにして、テーブルに広げた問題集を舞香に見せる。彼女も聞きたいことがありそうな顔をしているけれど、追求はしてこない。これ以上話したくないという私の気持ちが伝わったのか、「どこ?」と問題集に視線を落とす。


 舞香は優しい。

 私はいつもその優しさに甘えていて、今日も必要以上に聞いてこない彼女に救われた。そして、私は今、そんな舞香を前に仙台さんのことばかり考えている。


 せっかく一緒に勉強しているのに酷いことをしているとは思うけれど、さっき聞いたことが頭から離れない。


 私の志望校を仙台さんが知っている。


 そんなことを聞いて冷静でいられるわけがない。


 志望校のことはずっと隠していたのに。

 話さなかったのに。


 仙台さんは知っていた。

 音楽準備室で私を抱きしめてきた日、あの日には全部知っていた。


 舞香の声が遠く感じる。

 聞こえるけれど、何を言っているかよくわからない。


 もしかしたら、仙台さんが知っているのかもしれないと思ったことはあった。それでも、それはもしかしたらであって、知っているはずはないと自分に言い聞かせていた。


 それなのに。


 結局、私は上の空で勉強を続けることになって、予定よりも早く舞香が帰ることになった。


 一緒にエレベーターに乗って、マンションの外まで送ったことは覚えている。けれど、なにを話したかは曖昧だ。


 部屋に一人、私はベッドに座り込む。


 気がつけば八時を過ぎていたけれど、電話をかける時間としては遅い時間じゃない。


 少し迷ってから仙台さんに電話をかけると、呼び出し音が二回鳴って、驚いたような声が聞こえてきた。


「珍しいね。宮城が電話してくるなんて」


 聞きたいことがある。

 だから、電話をした。


 私の志望校を知っていたくせに、私に志望校を言わせようとした理由。


 私の志望校を知っていたくせに、同じ大学や近くの大学を受けるように誘導した理由。


 それが知りたい。


 今は、私の反応を見て面白がっていたとしか思えなくて腹立たしい。違う理由があるなら聞きたいし、面白がっていただけなんて考えを否定してほしいと思う。


 でも、電話では上手く聞けないような気がする。


「仙台さん、勉強教えに来てよ。今から」

「今からって言われても。今日はもう家にいるし、無理」


 それはわかっている。

 電話をかけるには遅くはないけれど、高校生が家を出るには遅い時間になっている。


 それでも今すぐに来てほしいし、顔を見て話をしたい。


「無理でも来てよ」

「明日じゃだめなの?」

「じゃあ、もう来なくていい」

「宮城が泊めてくれるなら、今から行ってもいいけど」

「もういい。切る」

「こんなのいつもの冗談じゃん。今日、どうしたの?」


 たぶん、私の声が硬くて空気が悪くなっていたから、だから、和ませようと冗談を言った。そういうことだと理解はできるけれど、笑って答える余裕はない。


「……仙台さん。私に言うことないの?」

「ないけど、なに? なにかあった?」


 私の言葉がどんな意味を持っているか知らない仙台さんが、いつもと変わらない声で言う。なにを言えばいいかなんてわからなくて当然だけれど、そんな仙台さんに苛立つ。


「ないならいい。冬休み、うちに来なくて良いから」


 八つ当たり気味に言うと、仙台さんが困ったような声を出した。


「ちょっと待てる? 今から行くから」


 正当な怒りではないと思うが、私は今ものすごく腹が立っている。でも、今すぐ仙台さんに会いたいと思う。そして、そういう自分に腹が立つ。


「……明日でいい」

「ほんと、どうしたの?」

「どうもしない。予備校あるなら終わってからでいいから、絶対に明日来てよ」

「今から行くし、待ってなよ」


 仙台さんが思った以上に優しい声で言う。


「明日で大丈夫だから」


 なるべく静かに、気持ちを落ち着けて声を出すと、仙台さんが「わかった。約束ね」と言った。

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