第206話

 家に一人でいるのが嫌なら遊びに来なよ。


 仙台さんがそんなことを言うからバイト先まで行ったけれど、帰ってくればやっぱり一人になる。仙台さんは一時間待っても二時間待っても帰って来ないし、さっきまで舞香といたから一人が余計に寂しく感じる。


「遊びに行ったって同じじゃん」


 ベッドの上、手に持っていた黒猫のぬいぐるみをドアに向かって投げかけて、やめる。黒猫に罪はない。悪いのは早く帰ってこない仙台さんだ。日曜日にバイトなんて入れるから、ぬいぐるみに当たりたくなる。


 ごろりと横になって、胃の上に黒猫を置く。


 食べ過ぎたわけではないし、お腹が空きすぎているわけでもないけれどすっきりしない。もやもやとして苛々する。


 昨日、このベッドの上にいた仙台さんがいない。

 体温も匂いも私のものしかなくて、今は彼女の欠片すらない。

 たったそれだけのことで、そんな小さなことで、日曜日が最悪のものに思える。


 やっぱりバイト先になんて行かなければ良かった。


 親しそうに話していた大学の先輩がどんな人か気になる。

 笑いあっていたお店の人がどんな人か気になる。


 一つ、二つの気になることに、どんな話をしていたのかとか、あのカフェ以外でも会っているのかとか、そんなくだらない気になることがくっついて、気になることが大きなものになっていく。今日以外の仙台さんがどんな顔をしてバイトをしているのかも気になるし、たくさんいる人の一人みたいに私のことを見ていたことも気になる。


 はあ、と息を吐いて、黒猫の尻尾を引っ張る。

 仙台さんはいてもいなくても私を苛々とさせる。


 布団を被って、目を閉じる。

 それでも仙台さんが頭の中から消えなくて、体を丸めて小さくなる。ベッドに作った暗闇の中、五分、十分と過ごしていると、トン、トンと小さな音が聞こえてくる。


「ただいま」


 ドアを叩く音を追うように仙台さんの声がする。

 私はゆっくりと体を起こして、ベッドから下りる。

 黒猫を本棚に戻して息を吐いてから、ドアを開けて「おかえり」と小さな声で言うと、仙台さんが微笑みかけてきた。


「私、オレンジジュース飲むけど、宮城もなにか飲む?」

「飲む」

「なにがいい?」

「仙台さんと同じでいい」

「こっち来る? それともそっちに持っていく?」

「持ってきて」

「じゃあ、ちょっと待ってて」


 そう言って仙台さんが私に背を向けたから、パタンとドアを閉める。五分もしないうちにまたドアがノックされ、仙台さんを部屋に入れる。オレンジジュースが入ったグラスを二つ持った彼女はそれをテーブルの上に置き、私の隣に座った。

 ベッドを背もたれにして、二人並んでオレンジジュースを飲む。


「リップ、とっちゃったの?」


 仙台さんがよそいきじゃないいつもの声で言う。


「とった」

「似合ってたのに」


 柔らかな声は、なにを考えているかわからない。

 半分ほどオレンジジュースを飲んだグラスを置いて、仙台さんを見る。でも、にこにことしているだけで、彼女を見てもなにを考えているかはわからないままだ。


「今日、宮城が来てくれて嬉しかった。一人で来るのが嫌なら今日みたいに宇都宮とでいいから、また遊びに来てよ」

「仙台さんが働いてるところ、舞香が見たいって言ってたから一緒に行っただけだし、もう行かない。それにもうすぐ学園祭だし、バイト終わりでしょ」

「まあね」


 仙台さんが軽い声で言って、オレンジジュースを飲む。

 仙台さんの唇がグラスにくっついて、オレンジ色の中身が減って、喉が動く。オレンジジュースを追うことができるのはそこまでで、そこから先は私から見えないどこかを通っている。


 三分の一、中身が減ったグラスがテーブルに置かれる。私は見えなくなったオレンジ色に触れたくて、仙台さんの喉の下、鎖骨と鎖骨の間くらいに手を伸ばしかけてやめた。


「大体さ、学園祭の話、あれずるいと思う」


 仙台さんのスカートを掴んで引っ張る。


「ずるいってなにが?」

「舞香に言えば来てって言うと思ったから、私じゃなくて舞香に学園祭の話したんでしょ」

「そうだよ。来ないで、って言われたくないし」


 そう言うと、仙台さんがスカートを掴んでいる私の手に触れようとしてくる。


「……素直で気持ち悪い」


 私は彼女に捕まる前に手を引っ込める。


「それ、酷くない? 素直なのって、普通喜ぶでしょ」

「喜ばない。急に素直になったらなにかありそうで気持ち悪い。……なに考えてるの?」

「なにって、素直に言わないと、宮城、私になにもさせてくれなくなるから。ただそれだけ」


 静かに言って、仙台さんが体を私に向ける。

 じっと見つめてくるから、彼女を見ていられなくなって目をそらす。


「どういうこと?」


 ぼそりと問いかけると、仙台さんが私のピアスを撫でた。


「キスさせてくれなくなるし、触らせてくれなくなるじゃん。そういうの、嫌だから」


 ピアスを撫でた指が唇に触れる。

 彼女の体温が近づき、耳元で囁かれる。


「宮城とキスしたい」

「今、そういう話してない」


 仙台さんの体を押して、体温を遠ざける。


「そういう話してなくても、キスしたくなったから」

「なんでも言えばいいってわけじゃない」

「私が言わなくても宮城が言ってくれるなら言わないけど、宮城は言ってくれないでしょ」

「言う必要ないし」

「そう言うと思った。だから、私から言ってる。宮城、キスさせてよ」


 仙台さんはこういうことを臆面もなく言う。

 どうしてそこまでストレートに自分の欲求を口にできるのかわからない。柔らかな声で当たり前のように言って、私の腕を掴んで引っ張ってくる。そのくせ、それ以上はしてこない。私の次の言葉を待っている。


 彼女が、無理矢理なにかをしてくる、ということはほとんどない。


「宮城。いいよ、って言いなよ」


 ほんの少し苦しそうに言って、仙台さんが腕を掴んだ手に力を込めてくる。私はその手を剥がして、彼女を見る。


「私がしたいのはキスじゃない」

「なにがしたいの?」

「確かめさせて」


 仙台さんの上半身を包むニットを引っ張る。


「……なにを?」

「昨日つけた印。消えてないか見る」


 彼女の上半身を覆う赤い跡。


 それは仙台さんが私の知らない仙台さんになっているときも彼女を覆っているもので、大学の先輩やバイト先の人が知ることができないものだ。


 仙台さんが私の知らないところにいても、私だけが知っているもの。


 バイトが終わった今も、ちゃんとそれがあるのか確かめたい。


「罰ゲームするほど遅くなってないけど?」

「罰ゲームじゃないから、嫌なら見ない」


 そう言うと、仙台さんが「好きにすれば」と言った。

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