第207話

「それで、私はなにすればいいの?」


 静かな声に自分が昨日したことを思い出して、心臓がどくんと鳴る。昨日言ってしまった仙台さんの記憶から消したいことも一緒に思い出してしまって、服を掴んだ手に力を入れる。


 あれは仙台さんがなかなか帰ってこないから、思ってもいないことを言っただけだ。

 後悔しても今さらどうにもできないし、自分を納得させることのできる理由を作って言い聞かせる。


 それに時間が経てば記憶は薄れる。


 大丈夫。


 仙台さんの記憶だって薄れるはずだから、そのうち昨日のことを忘れるはずだ。


「これ、自分でめくって」


 隣に座っている仙台さんの服を軽く引っ張って離す。


 今日は余計なことを言わなければいい。


 ちょっと服をめくってもらって跡が残っているか確かめるだけだから、昨日のようなことは起こらない。


「これでいい?」


 仙台さんが躊躇うことなく服の裾をめくる。でも、それはほんの少しだけで、私がつけた跡は二つしか見えない。


「もっと」


 私の声が聞こえたはずなのに、仙台さんはもっとめくるどころか服の裾を下ろしてしまう。


「ちゃんと確かめられたでしょ。だから、終わり」

「よくわかんなかった。ちゃんとめくって」

「駄目」

「なんで? いうこときいてよ」

「罰ゲームじゃないから強制力ないし、跡は見せたし、これで満足しなよ」


 仙台さんが有無を言わせぬ口調で言って、私が手を伸ばす前に服を押さえる。私の前で服を脱ぎ、下着も取って、胸もお腹も見せた人とは思えない。


「仙台さんさっき、好きにすればって言ったじゃん」


 罰ゲームではないし、強制力がないこともわかっている。でも、仙台さんが自分で好きにしていいと言ったのだから、大人しく私がすることを受け入れるべきだ。


「そんなにキスマーク見たいの?」

「キスマークじゃない。ただの印」

「どっちでもいいけど、もう見せないから」


 仙台さんが強く言うけれど、今さらそんなことを言われても受け入れられない。自分の言葉に責任を持って、跡を二つだけでなくもっと確かめることを許すべきだし、体に触りたいと私が思ったらそれも許すべきだ。


 私は赤い跡を触る理由を作り出して、仙台さんの肩に触れる。そして、そのまま体重をかけて彼女を押し倒す。


「いった」


 勢いよく仙台さんの背中が床について、不満そうな声が聞こえてくる。


「押し倒すなら押し倒すっていいなよ。危ないじゃん」


 聞こえてくる声を無視して、彼女が着ているニットの裾を胸の下までめくって赤い跡に触れる。


 お臍の横。

 肋骨の上や下。

 脇腹に近いところ。


 昨日、数えることが馬鹿らしくなるくらいたくさんつけた跡を一つずつ撫でていく。ブラに指先が触れて、それを取ってしまおうか迷う。胸を覆うレースの端を撫でると、仙台さんが私の手を捕まえようとしてくる。


「動かないでよ」

「宮城って、強く言えば私がなんでもいうこときくと思ってるでしょ」

「これ以上めくらないし、下着は取らないから、いうこときいて」


 ニットの上から胸にそっと触れると、仙台さんが不機嫌そうに言った。


「きくと思う?」

「きいてよ」


 強く言って、赤い跡を強く押す。

 仙台さんにつけた跡を確かめることで、私だけが知っている仙台さんを確かめたい。そうすることを仙台さんにだって邪魔されたくない。


「……今見えてる部分、触るだけだからね」


 諦めたような声とともに、仙台さんの体から力が抜ける。

 彼女の体の上、私はもう一度ゆっくりと跡を辿る。

 指先で滑らかな肌を撫でて、爪の先で自分がつけた印を押す。赤い跡を覆うように手のひらを押しつけ、仙台さんの体温を奪う。


 白い肌に点々とついてる跡は、服で隠れている部分にもある。

 私は昨日唇をつけた場所を思い出し、服の上から印があるはずの場所を撫でる。記憶を辿るように見えない跡を辿り、はっきりと見える脇腹の跡にまた指を這わせる。


 目に映る赤い跡にも、映らない跡にも、昨日の私が仙台さんの体に残っていることを感じる。明かりに照らされている肌に浮かぶ印は、しばらく消えそうにないほど赤い。でも、薄れてしまう前に私をもっと残したくて、赤い跡に唇を寄せる。

 お臍の上辺りを軽く噛んでから強く吸う。


 本当は、誰からも見える場所にもつけたい。

 昨日つけなかった背中にも跡をつけたいと思っている。

 できることなら、私の跡で仙台さんを埋めてしまいたい。


 誰かが仙台さんの体を見るようなことがあったら彼女がもうすでに誰かのものになっているとわかるように、誰かを仙台さんが見たときに自分が誰のものかすぐに思い出すように、跡を残しておきたいと思う。


 こんな風に他人を縛り付けておきたいなんて、私はどうかしている。自分がおかしいとわかっているのにどうにもできなくて、仙台さんの体に新しい跡を一つつける。

 お腹の上、場所を変えて唇をつける。四つ目の跡をつけたところで、仙台さんが静かに言った。


「宮城、見るだけって言ったよね?」

「消えそうだったところ、つけ直しただけ」


 顔を上げて答えると、少し低い声が聞こえてくる。


「朝見たときは消えそうな跡なんかなかったし、今、新しい跡もつけたよね?」

「今は消えそうだったからつけ直して、ついでに増やしただけだから」

「あのさ、遅くなるときは連絡するって約束を破ったらまたつけるって話だったでしょ。私、今日は約束破ってないけど」

「こんなについてるんだから、一つや二つ増えたっていいじゃん」


 そう言って、私は肋骨の下を強く吸ってまた跡をつけた。


「一つや二つじゃないよね。今も増えたし」

「……仙台さん、今日はなんなの?」


 珍しく不満を隠さない仙台さんに問いかける。


「なんなのって?」

「私がなにかしたって、いつもはこんなに嫌がらないじゃん」


 脇腹の赤い跡を強く撫でて仙台さんを見ると、手を掴まれる。そして、そのままお腹の上から手を剥がされた。


「仙台さん、さっきまで素直だったのに急に素直じゃなくなるし、どういうこと?」


 私の声に仙台さんがふうと息を吐いて、めくれたままの服を直す。そして、体を起こすと、足の上に跨がっている私を抱きしめた。


「宮城。昨日、夢見た?」


 ぼそりと仙台さんが言う。


「突然、なに?」

「変な夢見なかったか答えて」


 仙台さんが言う夢がどんな夢かはわかっている。

 私が見た夢で、昨日、仙台さんに見たことを言ってしまった夢だ。彼女はそれを覚えていて、私に聞いているに違いない。


「……変なって?」


 仙台さんの記憶を強固なものにしたくはなくて問いかけると、質問の答えとは違う言葉が返ってくる。


「私は見たよ。だから、こういうのは困る」


 彼女がどんな顔をしているか見えないけれど、くっついた体から体温が伝わってくる。


「そういうつもりじゃない」

「知ってるけど、私はそういう気持ちになる」


 仙台さんの手がするりと私の服の中に入り込んでくる。

 腰を撫で、指先が背骨を辿る。

 彼女の体温が動くたびに、体の表面からくすぐったさ以上のものが伝わってくる。


「宮城もさ、そういう気持ちになりなよ」

「ならない。そんなのルームメイトじゃないじゃん」


 仙台さんの肩を押すと体が離れて、やっと彼女の顔が見えた。


「じゃあ、宮城がさっきまでしてたことはルームメイトがすることなの?」


 柔らかな声でそう言うと、やけに真面目な顔で私を見てくる。


「……そうだけど」

「だったら、私もしていいってことだよね?」


 彼女の手が動き出し、脇腹を柔らかく撫でて手のひらが押しつけられる。ぴたりとくっついた手から伝わってくる体温に油断していると、服の上から肩を噛まれて、私は彼女を強く押した。


「仙台さんは駄目」

「なんで? 私だけ跡つけられてるの、おかしいじゃん」

「おかしくない」

「一つくらいつけたっていいでしょ」

「駄目」

「じゃあ、触らせてよ」


 なにが“じゃあ”なのかわからないけれど、仙台さんが服をめくろうとしてくるから、彼女の手を捕まえて断言する。


「仙台さん、触り方がやらしいからやだ」

「そういうのはわかるのに、そういう気持ちにならないのってなに?」


 そういう気持ちにまったくならないわけじゃない。


 仙台さんの手は気持ちが良いし、彼女を拒むはずの理性が役目を放棄しようとする。彼女の体温は、仕事をしない理性の隙間から入り込んで、隙間を広げ、理性をボロボロにしようとしてくる。


 過去にそういう私になっていて、仙台さんのベッドの上で気持ちが良くて、恥ずかしくて、ずっと忘れられないことをした。


 今もあの日を思い出して、オレンジジュースを飲んだばかりなのに喉が乾いている。


 あんなことを何度も繰り返したら、私が私ではいられなくなる。今でさえ自分がなにをしたいのかはっきりとわかっていないのに、もっとわからなくなってしまう。


「宮城、理性なんて捨てちゃいなよ」


 私の頭の中を覗いたみたいな声が聞こえて、小さくそっと息を吐く。

 体が熱い。


 仙台さんとどうなりたいのかよくわからない。

 自分の行きたい場所がわからない。

 まだルームメイトでいたいと言ったのは私なのに、選んだ言葉が正しかったのか自信がなくなる。

 なにもわからないのに、仙台さんにここにいてほしくてたまらなくなる。


「仙台さん」


 小さく呼ぶと「なに?」と返ってくる。

 掴んでいた手を離して、仙台さんのピアスに指を這わせる。


「ずっとどこにも行かないでくれたら、仙台さんのしたいことしてもいい」

「どこにも行かない。ここにいるよ」


 仙台さんが私を抱きしめて嘘を言う。


「バイトにも大学にも行かないで、ここにいてくれるの?」


 そんなことができるわけがない。


 仙台さんは大学に行くし、バイトにだって行く。

 私はバイトに行かないけれど、大学には行く。


 お互い、どこにも行かずにここにいるなんて不可能だ。

 それを証明するように仙台さんはなにも言わない。


 私はくっついている体を押し離して、仙台さんの唇に噛みつく。傷がつくほど強く歯を立てて、少しでた血を舐め取る。


「宮城、痛い」


 平坦な声が聞こえてくる。

 私も痛い。

 傷なんてないのに痛い気がした。

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