第108話

「はい」


 玄関に入ると、すぐに五千円を渡される。


「ありがと」


 お礼を言って、差し出されたお札の端を掴む。ぴっと引っ張ると、引っかかりを感じる。でも、ちょっとだけ力を入れるとすぐに五千円が私の元にやってきた。


 私はいつものようにすんなりとやってこなかった五千円に、彼女の名前を呼ぶ。


「宮城?」

「なんでもない」


 なんでもありそうとしか思えない声が聞こえてくる。


 会った瞬間から宮城の機嫌が悪い。

 けれど、私の機嫌だってそれほど良くはない。


 冬休みが終わったからと言ってすぐには呼び出されたりしないと思っていたが、新学期が始まって一週間近く経っても呼ばれないとは思っていなかった。


「私のこと呼ぶの、遅くない?」

「いつ呼んだっていいじゃん」

「いいけど、良くない」


 このまま呼ばれなかったら、宮城に会わないまま受験本番を迎える。

 それくらい試験の日が近づいていた。


 お互い自分のことに集中しなければならない時期で、呼び出されなかった分だけ勉強ができた。それはそれでありがたかったし、会わないままでもかまわなかったけれど、面白くはなかった。


 そして、彼女はこういうときに連絡すらしてこない。

 本当に宮城は面白くないと思う。


「本番に向けて気を遣ってあげたんだから、感謝してよ」


 宮城が恩着せがましく言って、部屋の中に入る。


「気を遣ってなんて頼んでないから」


 ぱたりとドアを閉めてから、ブレザーを脱いでブラウスのボタンを一つ外す。いつもの場所に座ると、宮城が隣にやってくる。目が勝手に彼女の首に向かう。ブラウスのボタンは、しっかりと一番上まで留められている。首筋に跡は見えない。


 当たり前だ。

 あれから結構な時間が経っている。


 跡が残っていたらそれは私がつけたものではなくて、他の誰かがつけたものということになる。だから、傷一つない首に喜ぶべきなのだと思う。でも、落胆している私がいる。


 宮城の首に手を伸ばす。

 けれど、手が触れる前に宮城が立ち上がった。


「飲み物取ってくる」

「いらない」

「仙台さんがいらなくても、私がいる」


 平坦な声で言って、宮城が部屋を出て行く。一人残された私は、テーブルに参考書や問題集を並べてその上に突っ伏す。


 大学に入学するための試験をいくつか受ければ、すぐに約束の卒業式がやってくる。

 私たちに残されている時間は少ない。


「仙台さん、なにやってるの?」


 いつ戻ってきたのか、近くで宮城の声が聞こえる。


「睡眠学習」

「起きてるのに?」

「寝てる」


 テーブルに突っ伏したまま答えると、「邪魔」と邪険に扱われる。横から体を押されて顔を上げると、参考書の向こうに麦茶とサイダーが並んでいた。私は麦茶を一口飲んでから、尋ねる。


「大学、受かりそう?」

「仙台さんは?」

「たぶん、大丈夫なんじゃない」


 高校は、親が思っていた高校には行けなかった。

 大学も、親が思っている大学にはいけない。


 惰性の中から選び出した大学は親の希望とは違うけれど、それなりの学力が要求される。予備校では受かると言われているが、不安がないと言えば嘘になる。


 この世界に絶対なんてない。

 でも、今さら騒いでもどうにもならないし、やれるだけのことはやった。駄目なら滑り止めだってある。そう思ってやるしかない。


「で、宮城はどうなの?」

「どれか一つくらいは受かるんじゃない」

「ここまできて適当過ぎない?」

「あんまり自信ないもん」


 宮城が頼りなさそうに言う。


 そんなことじゃ困る。

 宮城は大学に受からなければならない。


 受験に失敗すれば、彼女はここに残ることになる。


 そして、宮城がここに残っても私はここを出て行く。受験に失敗したとしてもここではない予備校に通うつもりだから、交わるところのない未来しかなくなってしまう。


「ちゃんと勉強したし、もう少し自信持ちなよ」


 自信がないなんて本人が言っていたら、受かるものも受からなくなりそうだ。


 宮城がどこの大学を選ぶかわからないが、宇都宮と同じ大学に入学するという選択肢が消えてもらっては困る。全部受かるくらいの気持ちで試験を受けてほしい。


「勉強、嫌いだし」

「そういうこと言ってると落ちそうだから、もっとポジティブなこと言って」

「無理。っていうか、そんなに心配なら勉強始めようよ」

「んー、先になにか命令してよ。気分が乗らない」


 久しぶりに命令という言葉を口にした気がする。


「先に勉強。もうすぐ本番じゃん」


 珍しく宮城が真面目なことを言って、ペンを握る。そして、問題集に視線を落とす。でも、宮城のように問題集を見ようとは思えない。


 気になることが多すぎて、気持ちをリセットしたいと思う。


「命令からだっていいでしょ。どうせなにかしなくちゃいけないなら、やってからの方が落ち着いて勉強できるし」

「じゃあ、絶対に合格する方法教えて」

「そんなの私が知りたい。もっと現実的な命令にしてよ」

「そこまで言うなら、仙台さんが命令の内容考えてよ」


 宮城が問題集から顔を上げて、面倒くさそうに言う。


「私が?」

「そう。私に命令されたいこと自分で決めて」

「自分で自分がしなくちゃならない命令考えるっておかしくない?」


 命令に従うことには慣れているが、命令を考えることには慣れていない。それに自分が従う命令を自分で考えるというのは、特殊な性癖の持ち主になったようで受け入れがたい。


「おかしいと思うなら、先に勉強すれば。終わるまでにはなにか考えておくし」

「……今、考える」


 宮城の提案は大雑把すぎると思う。

 でも、彼女から行き過ぎた命令をされるよりはマシだ。

 私は、汗をかいたグラスを眺めながら考える。


 宮城が納得しそうで無難な命令。


 そんなものがないか頭を働かせながら、麦茶の入ったグラスから視線を動かす。


 問題集。

 消しゴム。

 ペンケース。

 ペンを握った手。


 視線はそこで止まる。


「決めた」

「なに?」

「おまじないしてって命令してよ」


 にこりと笑いかけるが、宮城が眉根を寄せた。


 たぶん、“おまじない”がどういうものか考えている。

 けれど、それは答えがない問題と同じで、宮城がどれだけ考えてもわかるものではない。


「……おまじないしてよ」


 たっぷり十秒ほど考えてから、宮城が諦めたように命令を口にする。


「じゃあ、ちょっとこれ貸して」


 そう言って、私は宮城の手からペンを取り上げる。


 でも、必要な物はペンではないから、それはテーブルの上に置く。私はあからさまに警戒している宮城の手首を掴んで、指先に唇を寄せる。爪の先にそっと触れると、宮城の手が強ばった。


「正しい答えが書けるおまじない。合格する方法教えてって言ったでしょ」


 宮城の手が逃げ出してしまわないように、簡単な説明をする。


「そんなおまじない聞いたことない」

「宮城が知らないだけじゃない?」


 私は手首を掴む手に力を入れて、自分の方へと引き寄せる。そして、そのまま私に何度も触れてきた手にキスをする。


 手の甲。

 指の根元の関節の上。

 中指の真ん中らへん。

 何度もキスを落としていくと、手から力が抜ける。


 体の一端に唇で触れるなんてことは、他の誰にもしたりしない。宮城にだけすることで、この行為は手で触れるよりも体温が近く感じられて気持ちがいい。


 私は、手の甲に骨の感触がわかるほど強く唇を押し当てる。

 軽く吸うと手が逃げだそうとしたから、最後に指先にキスをして手首を離す。


「……これ、仙台さんが適当に作ったおまじないでしょ」


 宮城が不機嫌に言って、指先を見る。


「適当に作ったものだとしても、効果があれば問題ないと思うけど」


 本当は同じキスなら首にしたいし、見えるような跡を残したいけれど、そんなことをしたらこの部屋から追い出されるに違いない。もしかしたら、二度と口を聞いてくれないかもしれない。


「効果なさそう」


 素っ気ない声が聞こえて、私は宮城の手をもう一度握る。


「あるって」


 根拠のない言葉を口にしてから、指先にキスをする。そして、そのまま宮城の人差し指を口に含む。関節の上に歯を立てて、舌で指の腹を押す。ゆっくりと舌を這わせると、宮城が怒ったように指を引き抜いた。


「やめてよ」

「なんで? 宮城、こういうの好きでしょ」


 声には棘があったが、手を掴んでも抵抗しない。

 過去に何度も命令されて、彼女の指を舐めた。今さら抵抗するなんて許されるわけがない。


 宮城を見る。


 目は合わせてはくれないけれど、そこまで機嫌が悪そうには見えない。手のひらに唇をつけると、腕がぴくりと動く。指と指の間に舌を滑り込ませる。


「仙台さん!」


 珍しく宮城が大きな声を出して、私の腕を叩いた。そして、そのまま制服に爪を立てる。鈍い痛みに手を離すと、宮城がワニの背中からティッシュを引き出して濡れた指を拭った。


 こういう光景は何度か見たことがあるし、今までは平気だった。でも、今日はティッシュで私という存在も拭い消しているように見えて苛々する。


 もっと言えば、むかつく。


 手を伸ばして首筋に触れると、宮城がほんの少し後ろへ下がる。今は、そういう些細なことが許せない。私は宮城を抱き寄せて、唇で頬に触れる。


 絶対に抵抗される。

 そう思ったけれど、宮城は私の背中に手を回した。

 体が必要以上に密着する。


「……宮城?」


 返事の代わりに息が耳に吹きかかって、硬い物が当たる。それが歯だということがすぐにわかって、次になにが起こるか想像できた。でも、宮城から体を離す前に耳を囓られる。


「いたっ」


 思わず声を上げるが、宮城は離れない。

 それどころかさらに強く噛んできて、耳がちぎれそうなくらいの痛みを感じる。肩を掴んで体を押し離すと、宮城が不機嫌に言った。


「仙台さん、なんなの」

「なんなのはこっちの台詞でしょ。気に入らないと噛みつくのやめなよ。マジで痛かったんだけど」

「変なことする方が悪い」


 宮城が言う“変なこと”が手を舐めたことなのか、抱きしめたことなのかはわからないが、お気に召さなかったらしい。


「それにしたって、本気で噛むことないでしょ」

「こんなの、おまじないじゃない」

「おまじないだって。それに命令考えろって言ったの、宮城じゃん」


 元を辿れば、命令を自分で考えなかった宮城が悪い。

 本人もそう思っているのか、言い返してはこずにむすっとしている。


「言いたいことは?」


 尋ねると、宮城が転がっていたペンを握った。


「合格しなかったら恨むから。もう一年受験勉強するのとか嫌だし」

「じゃあ、もう一回おまじないしてあげようか?」

「しなくていい」


 宮城が私を見ずに、ノートに視線を落とす。

 けれど、真っ白なノートに文字が書かれることはない。


「宮城」

「なに?」

「試験、真面目に受けてきてよ」

「仙台さんに言われなくても真面目にやる」


 宮城が顔を上げずに言う。

 いい加減なおまじないを対価に、絶対に受かってなんて重すぎて言えない。それでも私は、宮城が絶対に受かるといいなと思った。

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