第344話

 理想は隣。

 それが無理なら、どちらかが一歩か、二歩前。


 どうせ一緒に歩くならそれくらいの距離感がいいけれど、宮城は私の五歩ほど前を歩いている。


 しかも、かなりのスピードで。


 亀ほど遅くとは言わないが、できることなら普通の速度で歩いてほしいと思う。でも、彼女は私のいうことをきくつもりがない。五分前に提案した「ゆっくり歩かない?」は却下されたし、一分前に言った「もう少し速度落として」も却下された。


 宮城は、夕方の街を振り返らずに歩き続けている。

 そして、私は彼女の後ろを歩き続けている。


「……私、待ってなくていいって言ったじゃん」


 不機嫌過ぎる声が五歩ほど前から聞こえてくる。


「私がバイトしてたときも一緒に帰ったんだし、宮城がバイトしてるときも一緒に帰らないと公平じゃないと思わない?」


 大晦日に私があのカフェでバイトをしていたときに宮城がやってきて、一緒に帰った。だから、今日も一緒に帰りたいと思った。


「なんでそんなところを公平にしようとするの。意味ないじゃん」


 宮城は相変わらず振り返らない。

 私は彼女の背中に話しかける。


「あるよ、意味」

「どんな?」


 宮城が足を止め、振り返る。


「私が楽しい」


 もちろん、宮城にも楽しいと思ってほしい。けれど、それは難しいことだとわかっている。


「私は楽しくない」


 宮城が予想通り面白くないことを言い、また私に背を向ける。そして、勢いよく歩きだす。


「ちょっと宮城。歩くの早い。わざわざスピード上げないでよ」

「仙台さんが遅いだけ」


 歩いている人がそれなりにいるのに、宮城の単調な声がはっきり聞こえてくる。どうやら彼女はスピードを落とすつもりがないらしい。私は仕方なく彼女の背中に声をぶつける。


「宮城、髪の毛はねてる」

「どうせ嘘でしょ」


 宮城が冷たく言い放つ。

 酷い、と言いたいところだが、宮城に振り向いてもらいたくて言っただけの嘘だから、彼女は間違っていない。


「そうだ。水出しアイスコーヒー美味しかった。すすめてくれた理由ってあるの?」


 黙って歩く宮城に問いかける。

 放っておくと彼女はまったく喋らない。


「突然なに?」

「気になってたから」


 今度は嘘ではない。

 カフェでは聞き損ねただけで、数あるメニューの中から水出しアイスコーヒーをすすめてくれた理由を知りたいと思っていた。


「別に理由なんてない」

「適当だったってこと?」

「……仙台さんに似合いそうだったから」

「似合いそう?」

「なんかお洒落っぽい」


 宮城が曖昧な理由を口にして、私を置いていくように歩いていく。


 速い。


 家へ少しでも早く帰ってのんびりしたいのかもしれないが、速すぎる。もしかすると、本当に私をここへ置いて家へ帰りたいのかもしれない。


「宮城、待ちなよ」

「待たない」

「こういうときは、もう少しゆっくり歩いてお喋りを楽しむものじゃない?」

「私にそういう文化ないから」


 宮城の反応は冷たすぎると思う。

 会話が弾むなんてことは期待していないけれど、会話を地面にめり込ませて終わりにするのはやめてほしい。


「今からそういう文化作りなよ」


 私は二人でいるなら、宮城と話がしたい。


「疲れたし、喋りたくない」

「じゃあ、私が一人で喋るし、宮城は聞いててよ」


 前置きをしてから、彼女に「今日の宮城、可愛かった。また行ってもいい?」と尋ねる。


「やだ。もう来ないで」

「じゃあ、今度は黙って行ってもいい?」

「絶対にやだ。っていうか、質問するのやめてよ」

「なんで?」

「答えることになるから」

「それならもっと質問しようかな」

「仙台さん、むかつく。家に着くまで黙っててよ」


 そう言うと、宮城が大きく足を一歩前へと踏み出す。

 歩くスピードがぐんっと上がる。


 宮城、と呼ぶけれど、彼女は私を見ないし、返事もしない。


 駅が近づいて、改札が近づいて、ホームに出る。

 電車がやってきて乗り込む。


 宮城は喋らない。

 私たちは黙って電車に揺られる。


「宮城」


 ずっと喋らずにいてもいいけれど、隣に立っている宮城を呼ぶ。


 返事はない。


 大きく揺れたわけでもないのに、私は宮城に自分の腕を当てる。

 宮城が眉根に皺を寄せ、私を睨む。

 そして、小さな声で言った。


「……さっき澪さんとなに話してたの?」

「カフェで?」


 “さっき”と言うには遠い時間の話で、一応確認する。


「そう。二人でなんか話してたじゃん」

「あれは宮城が可愛いって話」

「すぐそういう適当なこと言う」


 少し低い声とともに、腕をぱしりと叩かれる。わざとらしく「痛い」と言うと、「そんなに強く叩いてない」と返ってきた。


 私と澪がなにを話していたのか。


 そういうことを少しでも気にしてくれたことを嬉しく思うけれど、澪の名前が宮城の口から出てくることは嬉しいことではない。宮城が澪と親しくしているようだから、なおさらそう思う。


 澪は宮城を気に入っている。


 彼女は人をすぐに合コンに誘うような人間だけれど、その合コンに“よからぬ人”が来ることはない。澪はそういう人間を好まない。だから、バイト中に澪が側にいれば、宮城に声をかけるようなよからぬ人間を近づけずにいてくれる。


 それは有り難いことだけれど、バイトをしている宮城の側に澪が常にいることは楽しいとは思えないことだ。


「――宮城さ、なんか澪と仲良くなってるよね?」


 隣を見ずに言うと、「普通」と素っ気なく返ってくる。そして、好ましくない言葉が付け加えられる。


「……でも、思ってたより親切な人だと思う」

「どういうところが?」


 尋ねる声がいつもよりも低くなる。


「いろいろ。仙台さんのところにお水持って行った時も、能登さんいなくなったし」

「いなくなったって?」

「澪さんが、能登さんはすぐに自分の席に戻るからお水持っていっても大丈夫って。信じてなかったけど、ほんとにそうなった」

「澪、そんなこと言ってたんだ?」

「言ってた。澪さん、“志緒理ちゃんには近寄らないように”って能登さんに言ってあるからって笑ってたけど」

「へえ」


 会話は途切れ、沈黙が訪れる。

 窓の外で景色が流れ、いつものホームが見えてきて、私たちは長くも短くもない時間乗った電車から降りる。


 歩道にミケちゃんはいない。


 あの愛想のいい猫は、どういうわけか宮城がいるときはほとんど姿を見せない。動物が好きな宮城のために現れてくれるといいのだけれど、今日もその願いは叶いそうにない。


 私は、隣を歩く黒猫を見る。


 彼女は猫に分類してもいいくらい猫のような性質を持った人間なのに、ミケちゃんと違って私にだけ酷く愛想が悪い。


 彼女がそういう人間であることはわかっているけれど、お腹を好きなだけ撫でさせてくれるミケちゃんの愛想を分けてもらってほしいと思うときもある。


 たとえば今、ミケちゃんのように愛想のいい宮城になってほしい。


 私は宮城に歩調を合わせ、彼女に肩を当てる。


「宮城。……手、繋いでいい?」

「やだ」


 愛想の悪い黒猫はお腹どころか、手も触らせてくれない。


「じゃあ、写真撮らせてよ」


 宮城の服を掴んで引っ張る。

 歩くスピードが落ち、彼女が私を見る。


「じゃあ、って変じゃん。写真、どこから出てきたの」


 どう見ても宮城は不機嫌で、声が低い。


 写真は魂を吸い取ったりしないし、魂のようなものを映したりもしない。ただ、ありのままの宮城が映るだけで不穏なものではないのに、彼女は極端に写真を嫌う。


「宮城のバイト先に私が行った記念。本当はバイト中の宮城を撮りたかったけど、絶対に怒ると思ったから」


 宮城のことを思うなら写真を撮らないほうがいいのかもしれないが、もう少しくらい彼女との思い出を形として残したい。私なりに譲歩しているのだから、たまに写真を撮るくらい許してほしいと思う。


「当たり前じゃん。そんなことしたら怒る」

「だから、バイト中は撮らなかった。代わりに今、撮ってもいい?」


 鞄の中からスマホを出して宮城に見せる。


「やだ」

「ちょっとした記念だしさ」

「絶対にそんな記念やだから」

「それなら、手だけは?」

「手?」

「そう、手。宮城、腕伸ばして」


 にこりと笑って宮城を見ると、彼女は怪訝な顔をしている。

 どう考えても腕を伸ばしてくれそうにない。


 私は立ち止まって彼女の手首を掴み、ぶんっと振る。


 勢いよく振られた二人分の手は、消えかけの太陽に向かう。

 私の手と宮城の手が光に照らされる。


 カシャリ。


 片手で構えたスマホが小気味の良い音を鳴らし、宮城のバイト先へ行った日が保存される。


「今日の記念。あとから宮城にも送るね」


 捕まえた手を離し、宮城に奪われる前にスマホをしまう。


「今のずるい」


 むっとした声で宮城が言い、私の腕をばしんと叩く。


「いいじゃん」

「良くない。仙台さんって本当にむかつく」


 えいっ。


 そんな声が聞こえてきそうなほど宮城が勢いよく足を踏み出し、家へと向かう。


 隣にいた宮城が五歩も十歩も先へ行く。

 だから私は、彼女に置いて行かれないように歩くスピードを上げた。

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