第301話
ルールは私たちの間にずっとあった。
本屋で宮城と出会った日から、当たり前のように存在していた。
それは私と宮城を繋ぐもので、それがなかったら私たちは同じ時間を過ごしていないし、ただのクラスメイトで終わっていたはずだ。
だから、“もういらない”なんて一言でなくしてしまっていいものではない。宮城がどういうつもりなのかは知らないけれど、ルールをなくすなんて許されないことだ。
「一緒に住むならルールいるでしょ」
私はベッドの上で膝を抱えている宮城を見上げる。
ルームメイトになってから作ったルールは、誰かと一緒に住むなら必要なものだと思う。友だちを泊めないことも遅くなるときに連絡することも、トラブルを避けるものになる。
生活に纏わるほかのルールだってそうだ。小さなものかもしれないが、ないよりはあったほうがいい。
それをわざわざなくすなんておかしい。
「なくていい」
宮城が小さな声で私の言葉を否定する。
私は床を指先でトンと叩いて、自分の手をぎゅっと握りしめる。
宮城の反応はあまり良いものではない。
「私の意見は?」
「聞かない」
私ではなく、自分の足先を見ながら宮城が言う。
その声はこの会話が良い方向に向かわないことを表すもので、握った手をさらに強く握る。
手のひらに爪が食い込む。
――嫌だ。
私を見ない宮城から彼女の考えは読めないし、私を見てくれても彼女の考えは読めないと思う。それでも宮城がルームメイトという関係を解消しようと言いだしそうで、灰色の雲が胸を覆う。
ルールはルームメイトという関係を守るもので、それをなくすということはこの関係を解消したいということに近い。
思考が鈍る。
沈黙が重くて、逃げ出したくなる。
「仙台さん――」
「宮城、今日変じゃない?」
聞こえてきた言葉をかき消すように声をかぶせる。
喋りたいわけではないけれど、宮城に喋らせてはいけないと思う。
「変じゃない」
不機嫌な声が聞こえてくるが、そういう声を出したいのは私のほうだ。
「じゃあ、どうして急にルームメイトのルールいらないなんて言うの?」
宮城の声をうつしたように低い声が出る。
これは良くない質問だ。
宮城からルームメイトを終わらせる言葉を引き出すきっかけになる。
明らかな失言に唇を噛む。
ルームメイトという関係は私がきっかけを作ってできたものだけれど、その言葉で私を縛ったのは宮城だ。ルームメイトの定義からはみ出さないように私をしつけ、いうことをきかせてきた。
――大切な呪いの言葉。
自分の気持ちと宮城との関係を天秤にかけ、感情を押し殺すことを選んた私だけれど、ルームメイトという言葉があったから伝えたい言葉を飲み込み続けることができた。
私は宮城が好きだ。
封印してきたこの感情はルームメイトという言葉によって宮城にとって正しい形に整え続けられ、今日に至っている。
呪いが解けた先にあるものがなんなのか。
私は知らない。
知りたくもない。
今の宮城を見ていると、未来に希望を持てない。
「ごめん。今の質問なし。この話、終わりにしない? ルールはまた決め直してもいいしさ、今度ゆっくり話そうよ」
私を見ない宮城に微笑みかけると、「まだ話の続きあるから」と素っ気ない声が返ってくる。
駄目だ。
この話を先へ進めたら、良くないことが起こる。
胸に閉じ込めている気持ちは、明日も明後日もそこにあり続ける。そして、この消えない気持ちを伝えずに守ってきたものは、ルームメイトという関係だ。
宮城がルームメイトという言葉に縋るように私も縋っている。
「今度でいいでしょ」
「良くない」
宮城がきっぱりと言う。
そして、私を見なかった宮城が私に視線を合わせ、小さく息を吸った。
遮らなきゃいけない。
そう思うけれど、私の喉からは小さな声さえ出ない。
呼吸が上手くできない。
息が止まる。
宮城の口が動いて、声が聞こえてくる。
「ルームメイトやめるから」
握りしめ続けていた手から力が抜け、世界から色が消える。
白と黒。
目に映る色はそれだけで、どこかで見た味気ない世界が広がっている。胸に広がる灰色の雲もいつの間にかモノクロの一部になっていて、私を覆う。
白と黒に埋もれて宮城が見えない。
「それは一緒に住まないってこと?」
そこにいるはずなのにいないように思える宮城に問いかける。
「大学卒業するまでは一緒に住むけど、ルームメイトはやめる」
一緒に住む。
その言葉に波立っていた心が一瞬凪いで、まだ波立つ。ルームメイトはやめるという言葉は余分で、余計だ。嬉しいのか嬉しくないのかわからなくなるし、そんなことを言う理由もわからない。
「……なにがあったら、一緒に住むけどルームメイトはやめるなんてことになるわけ?」
「別になにもない」
「嘘でしょ。どういうつもり?」
無音。
なにも聞こえてこない。
世界は古い映画のように白と黒のままで、宮城も部屋に同化したままだ。沈黙が視界を灰にしていく。ただのルームメイトでもいいからずっと一緒に暮らしたいなんて思いごと視界がさらさらと崩れ落ち、私とどこかにいる宮城との間に壁を作る。
宮城、と呼ぼうとする。
声がでない。
静かすぎる部屋は、ルームメイトをやめて恋人に、なんて都合の良い考えを許してくれない。
もしかして。
宮城に好きな人ができたのかもしれない。
もっと早く気がついても良かったかもしれないことに、今さら気がつく。ルームメイトをやめたいくらいなのだから、そういうことがあってもおかしくない。それどころか、もう私の知らない誰かと付き合っていて、その人と一緒に暮らしたいと思っているのかもしれない。
そんな様子はどこにもなかったけれど、そうでなければルームメイトをやめたいなんて言葉は出てこないはずだ。
一度そんなことが頭に浮かぶと、思考はそこから離れなくなる。悪いほうへ、悪いほうへと向かい、私を奈落の底へ突き落とす考えばかりが湧き出てくる。
「ルームメイトでいてよって言ったの、宮城だよ。自分が言ったこと勝手に投げ出すなんて無責任じゃない? 責任持ってルームメイト続けなよ」
良くない考えに囚われている私を否定してほしくて、宮城に声をかける。でも、宮城という人間は私の思い通りにはならない。
「やだ」
小さな声がはっきりと私を拒絶する。
宮城が私に、キスをしたり、それ以上のことをしてもいいという好意を多少なりとも持っている。
そんなことを思ってきたけれど、間違っていたらしい。
それは受け入れがたい事実で、私の頭はその事実を拒否している。
「嫌ってなんで?」
宮城は間違った方向へ向かっている。
会話の方向を修正したい。
「言いたくない」
聞こえて来た宮城の声を追い出したくて、息を小さく吐く。
結んでいる髪をほどいて、気分を変える。
――変わったりはしないけれど。
モノクロの視界の中、宮城の黒い瞳を探して視線を合わせる。
「……隣に座っていい?」
「好きにすれば」
平坦な声が聞こえて、立ち上がる。
宮城の隣に座ると、ベッドが軋んで私が存在していることがわかった。でも、宮城の存在は不確かなままだ。
「一方的にルームメイトを解消するの、なしだと思う。まずは話し合うべきじゃない?」
宮城に声をかける。
私がきっかけを作って、宮城が決めた“ルームメイト”をなにもわからないまま終わらせたりしない。もし、終わることがあるとしても、二人で始めたことなのだから二人で終わらせるべきだ。
私と宮城。
どちらかが一方的に終わらせていい関係ではない。
「話し合いをしても変わらない」
宮城が素っ気なく言って、言葉を続ける。
「仙台さん。……ルームメイトやめるから、一つだけいうこときいて」
なにかの代わりになにかをする。
そういうことは私たちの間に何度もあったが、過去のなにかは取引に応じたくなるような魅力的なものだったはずだ。
今日は違う。
忌むべきものだと思う。
「そういう交換条件はきかないから」
宮城が持ちかけてきた取引は、初めから交渉が決裂することが決まっている。
「仙台さんに選択権ない」
「なんで?」
「なんででも。仙台さんに拒否権ないから」
暴君のように宮城が言い切って、崩れた視界の灰に埋もれていた私の手を握った。予期しなかった体温に腕がびくりと震えたけれど、手は離れない。
宮城は私の手を握り続け、私は反論する機会を失う。
「……交換条件はなに?」
「仙台さんは私のものだよね?」
宮城は問いかけには答えずに、過去に何度も繰り返したやり取りを繰り返す。
「そうだよ」
「だったら、誰のものにもならないで。誰かになにか言われてもついていったりしちゃ駄目だし、そういう人と会わないでよ。私“だけ”のものでいて」
ぎゅうっと痛いくらい手を強く握られる。
伝わってくる体温に、宮城の黒い髪がより黒く見える。
唇の赤が見えて、白と黒に塗られていた世界に色が戻る。
「……友だちは? 友だちも駄目なの?」
「友だちは……。それは私にもいるから」
「いいってこと?」
「……本当に友だちならいい」
「交換条件ってそれだけ?」
「うん」
聞こえてくる小さな声が、不確かだった宮城を確かなものにする。
宮城がどうして“ルームメイト”という言葉をなくそうと思ったのかはわからないけれど、交換条件は私が望んでいるものに近づくもので、奈落の底の底、どん底の底にいたことが馬鹿らしくなる。
けれど、素直には喜べない。
縋っていたものがなくなった関係は安定しない。
ガタガタグラグラして、力のかけ方を間違えたらすべてを失うことになる。
宮城は慎重で臆病だ。
繋いだ手はいつだって簡単に離れてしまう。
「それだけならルームメイトと交換してもいいよ。でも、ルールはなくさないってことにしようよ。友だち泊めたり、遅くなるのに連絡なかったら困るしさ」
宮城の手を握り返して、ルームメイトの欠片“ルール”を渡す。
私たちの気持ちはまだ重ならない。
同じ気持ちになるまで私たちを繋ぐものが必要だ。
「……いいけど」
「じゃあ、約束」
握った手を離して、宮城の耳に触れる。
そのままピアスに唇を寄せると、肩を押された。
「私がする」
そう言うと、宮城が私の耳についている青い石に手を伸ばした。
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