第346話
時間が有り余っている。
それは、バイトが終わり、大学の試験も終わって夏休みに突入したことを意味している。同時に、仙台さんが今日いないことも意味している。
もちろん、仙台さんはずっといないのではなく、そろそろ帰って来るけれど。
私は、仙台さんが読んでいてもおかしくなさそうなファッション誌をめくる。仙台さんが着たら似合いそうな洋服が目に入る。もう一ページめくっても、私には縁遠い洋服を着たモデルがポーズを決めている。
つまらない。
仙台さんは今日、澪さんと出かけている。
はあ、と息を吐いて、テーブルの上に置いたスマホを見る。
仙台さんから“あと一時間くらいで帰る”というメッセージが届いてから四十分ほどが経っている。
明確な予定がない時間は長い。
朝ご飯を仙台さんと一緒に食べたあとは、怠惰な時間を過ごしている。昼も夜も一人でご飯を食べて、今は共用スペースで雑誌のページをなんとなくめくっているだけだ。
私がこんなに時間を持て余しているのだから、仙台さんは一刻も早く帰ってくるべきだと思う。けれど、仙台さんに澪さんと仲良くするように言った私には、“早く帰ってきて”なんてメッセージを送る権利はない。
私はあまり興味が持てない雑誌のページをめくる。
雑誌は澪さんが読むかどうかはわからないが、読んでもおかしくはないものだと思う。少なくとも澪さんは、私よりも仙台さんと趣味が合いそうで、話も合いそうだ。
仙台さんと澪さんの距離はそこまで遠くも近くもなさそうだけれど、おそらく澪さんはどこまででも距離を縮めることができる。でも、仙台さんはそれを許していない。
私はそういう仙台さんを良い仙台さんだと思っていて、澪さんと仲良くするように彼女に言ったにもかかわらずそんな風に思ってしまう自分を悪い自分だと思っている。
「つまんない」
仙台さんと交換してずっと私の部屋にあったカモノハシのティッシュカバーがつい最近ワニに戻ったけれど、仙台さんは戻ってこない。
彼女が言っていたようにワニがお喋りだったら暇つぶしに付き合ってくれそうだが、さっきワニに話しかけたときはただの無口なティッシュカバーでしかなかった。
私は雑誌を閉じて、立ち上がる。
することがあるわけではないけれど雑誌を持って部屋に戻ろうとすると、まだ一時間経っていないのに共用スペースのドアが開いて、仙台さんが入ってきた。
「ただいま」
聞こえてきた明るい声に「おかえり」と返す。そして、「仙台さん、遅い」と付け加える。
「連絡したより早く帰ってきたじゃん」
「……そうだけど」
「まあ、本当はもっと早く帰ってくるつもりだったんだけど、澪がもう少し付き合えってうるさくて」
そう言うと、仙台さんが困ったように笑って椅子に座り、「宮城」と私を呼んだ。どう考えてもそれは部屋に戻るなということで、私は仕方なく椅子に座る。
「澪さん、元気だった?」
聞かなくてもわかることだけれど、ほかに聞くことがないから聞いてみる。
「夏休み中、また遊びに行こうってずっと言ってたし、元気過ぎるぐらい元気だった」
聞き捨てならない言葉が聞こえてきて、眉間に皺が寄る。
私はにこやかな仙台さんをじっと見る。
「……澪さんと遊びに行くんだ?」
「今のところそういう予定はないけど、予定入れたほうがいい?」
こういう仙台さんは良くない仙台さんだ。
夏休みの予定を私に決めさせようとしているし、澪さんとの仲を私に決めさせようとしている。仙台さんは澪さんと自主的に仲良くすべきで、会うか会わないかは自分で決めるべきだ。
仙台さんが決めた予定を受け入れられるのかどうかはわからないけれど、私に聞くのは間違っている。
だから、私は質問に質問を返す。
「仙台さんは予定いれたいの?」
「予定いれるなら、宮城との予定かな」
「それ答えになってないじゃん」
私が聞いたのは澪さんとの予定を入れるつもりかどうかで、私との予定の話はしていない。
「宮城、誰との予定の話か言わなかったでしょ」
確かに私は「仙台さんは澪さんとの予定いれたいの?」とは聞かなかった。でも、わざわざ澪さんと言わなくても、話の流れを考えれば予定の話は澪さんとのことで、私とのことじゃないとわかるはずだ。
本当に仙台さんはずるい。
わかっていて正しい答えを口にしない。
「そうだ、宮城。澪が合コン盛り上がったって」
仙台さんがわかりやすく話を変えてくるけれど、これもあまりいい話じゃない。
「知ってる。舞香と澪さんから聞いた」
夏休みに入る直前、澪さんに誘われていた合コンに舞香が行った。どうやらそれはとても楽しいものだったらしく、舞香からその日の夜に電話がかかってきてご機嫌な彼女とそれなりに長い時間話をした。そして、澪さんからもメッセージが届いて、報告を受けた。
「宇都宮も面白かったって言ってたけど、ほかになにか言ってた?」
「今度は仙台さんと一緒に来ればって言われた」
「宮城、行きたいの?」
「行きたいわけないじゃん。そういうの、苦手だし」
澪さんにも「今度は参加して」と誘われたけれど、断った。
舞香から、一緒に行こうとまた言われることがあっても断る。
どれだけ面白かったと言われても興味がない。
「そっか。私も苦手」
低くもなく高くもない声が聞こえてくる。
バイトをしているときに澪さんが、仙台さんはどれだけ誘ってもそういう場所にほとんど来ないし、無理矢理連れて行ってもすぐに帰ってしまうと言っていた。
だから、苦手だという言葉は嘘じゃないと思う。
けれど、少なくとも何回かはそういう場所に行ったことは確かで、面白くない。
「仙台さん、命令」
意識したわけではないが、少し低い声がでる。
仙台さんを真っ直ぐ見ると、視線が交わる。
彼女はやけに真面目な顔をしているけれど、なにも言わない。
「なんで命令されるか覚えてるよね?」
問いかけると、すぐに答えが返って来る。
「もちろん。澪と出かけた日は宮城のいうこときかないといけないんでしょ」
仙台さんが正しい答えを口にして、「どんな命令でもきくから言いなよ」と続ける。
「この本見て」
私は持っていた雑誌を仙台さんに渡す。
「これ、宮城が買ってきたの?」
「誰が買ってきた本でもいいじゃん」
「宮城が読まなそうな雑誌だから聞いただけ」
そう言うと、仙台さんがテーブルの上に雑誌を置いて表紙をめくった。そして、「見たけど、この先は?」と聞いてくる。
「それ読んで、好きなページ教えて」
「命令、本当にそんなことでいいの?」
「不満なの?」
いいか悪いかで言えば、悪い。
でも、今日はこの命令にしたい。
「不満って言うか。もっと違う命令されるかと思ってたから」
「違う命令ってどんな?」
「そうだなあ、たとえば――。舐めて、とか」
仙台さんが柔らかな声でろくでもないことを言って、にこりと笑う。
彼女の視線は雑誌ではなく、私に向いている。
「どうしてすぐそういう馬鹿みたいなこと言うの」
「宮城が好きそうだから。で、どこ舐めてほしい?」
笑顔を崩さずに仙台さんが立ち上がり、私の前へやってくる。
彼女の手が私の手首を掴む。
ゆっくりと引っ張られ、仙台さんの唇に私の指がくっつく。舌先が私の指を舐め、手の甲を舐める。生温かいそれは離れることなく私を濡らし、領地を拡大していく。
「舐めていいって言ってない」
手を引くけれど、引っ張り返される。
皮膚の上を這う舌先は、湿っていて気持ちが悪いはずなのに柔らかくて気持ちがいい。
唇が手のひらにぴたりとくっつき、舌先が押し当てられる。
犬が主人を舐めるような純粋なものなら気にならないのだろうけれど、仙台さんの唇や舌から感じるのはそういうものじゃない。彼女から感じるものは過去にベッドの上で感じたものと同じで、思い出さなくていいことを引っ張り出してくる。
「仙台さん、やめて」
犬の真似事をしている仙台さんの額を押す。
「ここじゃないところを舐めてほしいってこと?」
「そんなこと言ってないじゃん。どこも舐めないで」
「じゃあ、触るのは?」
そう言うと、仙台さんが掴んでいた私の手首を強く引っ張った。
私は立ち上がることになり、仙台さんに抱きしめられる。
「むかつく」
人の話を聞かない仙台さんの足を踏む。
でも、彼女は私を離してくれない。
Tシャツの裾から手を差し入れ、脇腹を撫でてくる。
「仙台さんのエロ魔人」
さっきよりも強く足を踏んでお腹をぐいっと押すと、体が離れた。
「これでも我慢してるほうなんだけど」
反省しているとは思えない声が聞こえてくる。
「もっと我慢して」
「じゃあ、もっと我慢するから、我慢しなくてもいい日を作りなよ」
「やだ」
強く言うと、仙台さんが耳もとで囁いてくる。
「今度は私が宮城にしたい」
「……なんの話?」
「宮城が今、想像したことの話」
「仙台さんのすけべ、変態」
私はくだらないことしか言わない仙台さんを睨み、彼女が座っていた椅子を指さす。
「変なこと言ってないで、そこに座ってその雑誌読んで好きなページ教えてよ」
「はいはい」
面倒くさそうな声で言い、仙台さんが椅子に座る。
そして、雑誌を一ページめくった。
私は椅子に座り直し、小さく息を吐く。
夏休み中、仙台さんが澪さんとまた会うのかはわからないけれど、会う可能性があるのなら、早くネックレスを選んで、誰から見てもわかる私のものだという印を仙台さんに与えなければならない。
それなのに、仙台さんに渡すネックレスが一生決まりそうにない。
参考になるかと思って雑誌を買ってきたけれど、読めば読むほどわからなくなっていくだけだった。でも、身に着ける本人に見てもらえば少しは役に立つ情報がでてくるかもしれない。
「宮城、そんなにこっち見られたら読みにくいんだけど」
仙台さんが雑誌をめくりながら言う。
「別に見てない」
「まあ、いいけど」
綺麗な指がまたページを一枚めくる。
視線の先、雑誌は半分が読まれ、さらにその半分が読まれる。
ただ、仙台さんがちゃんと読んでいるのかはわからない。
ページはそれなりの速度でめくられている。
あっという間に雑誌は最後のページを迎え、仙台さんが顔を上げた。
「これかな」
テーブルの上、開かれた雑誌が私のほうへ向けられる。
「……日焼け止めの特集なんだけど」
仙台さんが選んだページには、日焼け止めが並んでいるだけで、アクセサリーも洋服もモデルも私の参考になりそうなものはなにも載っていない。
「夏だし、気になるじゃん」
「……もういい」
私は雑誌を閉じて、立ち上がる。
「え? なにか悪かった?」
「仙台さんは悪くない。でも、むかつく」
彼女の前に立ち、足を軽く踏む。
痛い、と大げさな声が聞こえて、私は仙台さんの耳に噛みついた。
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