宮城の名前

第347話

 大学が夏休みに入っても、日々の生活はそう変わらない。


 私は相変わらずバイトに行っているし、宮城との予定は埋まっていない。大学がないと言うだけで、夏休み前とそれほど変わらない生活をしている。


 悪くないと思う。


 それほど変わらない生活というのは、宮城がいる生活ということで、私が欲しかった夏休みだ。


 宮城との予定を決めたいのに宮城が非協力的でまったく決まらないことだとか、宮城が難しい顔をしてばかりだとか、不満はあるけれど、文句を言うほどではない。


 バイトの日も宮城とずっと一緒にいたいと思うが、休みたいとは思わない。夏休み前と変わらず、今日も私は桔梗ちゃんに勉強を教えている。


「先生」


 向かい側で参考書とにらめっこしていた桔梗ちゃんが顔を上げ、私を見る。


「わからないところあった?」

「わからないところじゃないんですけど。先生は、夏休み中に宮城さんとどこか行くんですか?」

「今のところ予定はないかな。桔梗ちゃんは予定あるの?」

「友だちと遊びに行く予定があるんですけど、ちょっと買い物とかなので、どこかに行くって感じじゃないです」


 高校生らしい言葉が聞こえ、私は笑顔で「そっか。買い物いいね」と答える。


 私もできることなら、桔梗ちゃんと同じ予定を口にしたかった。宮城と夏休みの予定を決めることにはなっているけれど、買い物は既に却下されているから私は口にすることができない。


「――あの、先生」


 桔梗ちゃんがやけに真面目な声を出して、私は質問されてもいいように彼女の参考書に視線を移す。けれど、彼女はどれだけ待っても質問をしてこない。


「桔梗ちゃん?」

「えっと。……先生が暇なときに一緒に遊びに行ったりって」


 姿勢を正して大事なことのように話しだしたけれど、彼女の言葉はそこで途切れ、待っても続きが聞こえてこない。だから、私が続きを口にする。


「一緒にって、私と一緒にってこと?」

「です」


 桔梗ちゃんがはっきりと言う。


 困ったな。


 真っ先に浮かんだ言葉は彼女に伝えてはいけないもので、私は当たり障りのない“断る理由”を頭の中から引っ張り出して声にする。


「夏休み中も大学生って結構忙しくて。ごめんね」

「大丈夫です。私のほうこそ変なこと聞いてすみません」


 駄目、とも、行けない、とも言わないずるい先生に、優秀な生徒が明るい声で言い、空気を乱すことなく視線を参考書に戻す。


「こっちこそ、ごめんね」


 桔梗ちゃんは私の大切な生徒だけれど、夏休みに一緒に出かける相手ではない。バイト以外、私の夏休みはすべて宮城に使いたい。


 澪と出かけろと宮城から言われているから、すでに夏休みを澪に費やしてしまってはいるけれど。


 宮城との予定が埋まらないまま夏休みの一日を一緒に過ごした澪は、プールだ、海だ、合コンだ、とやたらに元気が良かったし、あれからも元気が良すぎるメッセージが届き続けている。


 どこかでもう一度会うことになっても仕方がないと思っているが、彼女は油断をすると人を増やそうとするから、会うなら二人でと釘を刺しておかなければならない。


 心の中でため息を一つついて、テーブルの上に置いてあるペンケースを見る。


 それは私が高校の合格祝いとして桔梗ちゃんにプレゼントしたもので、汚れ一つない。

 私がクリスマスに宮城からもらったペンケースも汚れ一つない。


 おそらく桔梗ちゃんは、私と同じようにペンケースを大切に使っている。


 その共通点は――。


 いや、今、考えなければならないことは彼女の勉強だ。

 私は桔梗ちゃんを見る。


 彼女から質問が飛んできて、その疑問を解決し、解答のポイントを伝える。そんなことをしていると、時間がどんどん過ぎていく。


 家庭教師のバイトは、ほかのバイトに比べると時間が短い。


 桔梗ちゃんが参考書を閉じ、私は帰る支度をする。

 彼女の部屋を出て玄関へ行く。

 靴を履いて外へ出ると、桔梗ちゃんがついてくる。


「先生、ありがとうございました」


 玄関のドアの前、ぺこりと頭を下げる桔梗ちゃんに「また来週ね」と笑って手を振る。


 桔梗ちゃんが私の背中を見ているうちはゆっくりと、彼女から見えなくなってからはそれなりのスピードで歩く。


 いつだって家へ帰るときは歩く足が速くなる。


 道は決まっていて、寄り道はしない。

 駅まで行って電車に乗って家へ向かう。。

 近くはないけれど、あっという間に家に着く。


 中へ入って、靴を脱ぐ。

 共用スペースへ直行するが、宮城はいない。でも、すぐに彼女が部屋から顔を出して「おかえり」と言ってくれる。


「ただいま。なにしてたの?」


 共用スペースに出てこようとしない宮城に尋ねる。


「別になにもしてない。仙台さん、お腹空いてる?」


 素っ気なく言われ、「空いてない」と答える。

 夏休み中は、宮城と早めの夕飯を食べてからバイトに行っている。


「じゃあ、仙台さん自分の部屋に戻って。私も行くから」

「私の部屋に来るってこと?」

「それ以外にないじゃん。早く自分の部屋に行ってよ」


 宮城が不機嫌な顔で言う。

 彼女が私の部屋に来ることは珍しいことではないが、こういう言い方をするのは珍しい。


 私は宮城の顔をじっと見る。

 唇にリップが塗られている。

 バイトへ行く前はしていなかったそれは、私が選んだリップだ。


 珍しいと思うけれど、宮城が珍しいことばかりする理由がわからない。この前、私が言った“今度は私が宮城にしたい”が叶えられるなら嬉しいが、たぶんそんなことはない。


 だが、なにか理由がありそうで、でも、その理由を聞く前に「早く」と急かされる。どんな理由であろうと宮城が部屋に来てくれることは嬉しいことで、素直に部屋へ戻ると、すぐに宮城がやってきて「そこに座って」と座る位置を指定された。


 ベッドの前、言われた通りに座ると、宮城が私の隣に座り、むすっとした顔で言った。


「最初に言っとくけど、感想禁止だから」

「感想ってなんの?」

「あげる」


 私の質問には答えずに、宮城が低い声とともに爽やかなミントグリーンのラッピングペーパーで包まれた小さな箱を床に置く。


 わからない。

 何故、小さな箱が出てくるのか。

 何故、それが渡されるのか。

 わからないけれど、高校の頃の記憶が蘇る。


 高校三年生の秋。

 私は宮城からこれとよく似た小さな箱をもらった。


 あのとき、箱の中身は――。


「仙台さん、聞こえなかった? それ、あげるって言ったんだけど」


 苦虫を千匹くらい噛みつぶしたような顔で宮城が言う。


「あげるってなんで?」


 心臓がどくんと鳴る。


「いいから、早く開けてよ」


 不機嫌な声に誘われて、小さな箱に手を伸ばす。

 慎重にミントグリーンのラッピングペーパーを剥がし、小さな箱を穴が空くほど見る。


 この中に入るもの。

 それは限りがある。


 ゆっくりと箱を開けると、過去に見たものとよく似たものが目に入って息を呑む。


 これは――。


「……リーフペンダント?」


 高校のときにもらったペンダントと同じで銀色だけれど、高校のときにもらったペンダントとは明らかに違う。


 月ではなく、四枚の葉っぱ。

 正確に言うならば、ペンダントトップのモチーフに四つ葉のクローバーが使われている。


「それ、ネックレスだから」


 宮城がわざわざ訂正してくる。

 だから、私はペンダントではなくネックレスを手に取る。


「……これって、もしかして誕生日プレゼント?」


 私の誕生日は八月二十三日。

 まだ八月の半ばにもなっていないから、プレゼントをもらうには早すぎると思うが、ネックレスが突然出てきた理由がそれだと考えると納得できる。


 けれど、宮城が眉間に深い皺を作って低い声で言った。


「そうじゃない。違う。仙台さん、忘れたの? ネックレス選んでって自分で言ったくせに」

「覚えてたんだ」


 確かに言った。

 宮城のものだとわかりやすくするために高校時代にもらったネックレスをつけていたら、彼女からもっとお洒落なものにしろと言われ、私は「宮城が選んで」と返した。


 あれは水族館に行った日の話で、結構な時間が経ったにもかかわらず宮城がネックレスを選びに行ってくれそうになかったから、忘れ去られていたのかと思っていた。

 

「それ、忘れてほしかったってこと?」


 低い声が聞こえてきて、足りなかった言葉を付け加える。


「そうじゃない。宮城、ずっとネックレスのこと言わないし、選んでくれないのかと思ってたから」

「いらないなら返して」

「いる。ありがとう」


 まさか本当に宮城が選んでくれるなんて。


 予想外だ。

 あまりになにも言われないから、一緒にネックレスを見に行こうといつか強引に誘わなければいけないと思ってた。


 私が選んでと言って、宮城が選んでくれた宮城の印。

 私が宮城のものだとわかりやすくする私のためのネックレス。


 そういうものが、誕生日プレゼントとしてではなく、なんでもない日に突然渡される。


 宮城らしくて、より一層、私が宮城のものだと思える。


「これ、今つけてもいい?」


 宮城に尋ねると、「貸して」と言われる。


「……返せってことじゃないよね?」

「つけてあげるから後ろ向いて」

「え?」


 聞き間違いだ。

 高校生だった宮城が私にネックレスを渡してきたときは、自分でつけろと言った。だから、宮城がつけてあげるなんて言うわけがない。


 思わず宮城をじっと見ると、彼女はまた「貸して」と言った。


「え?」


 馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返す私の手からネックレスが消え、宮城の元へ行く。肩を押され、のろのろと後ろを向く。宮城の手が私の髪に触れ、ネックレスがつけられる。


 指先で、胸元の四つ葉のクローバーに触れてみる。あの頃もらったものよりもチェーンが短いネックレスは、銀色のそれが人から見えやすい位置にある。


「……ありがとう」


 ぼそりと言うと、服を掴まれる。

 ぎゅっと、強く。

 そして、背中になにかがくっつく。


 それはきっと宮城のおでこで、小さな声が聞こえてくる。


「ネックレスは仙台さんが私だけのものっていう新しい印だから、これからずっとつけてて。澪さんと会うときも、ほかの誰かと会うときも、どんなときもどこへ行くときもつけてて」

「うん。みんなに見せる」

「そういうことは言ってない。あと、バイトはこれ買うためにしてただけだから、もうしない」

「……えっ?」


 思いのほか大きな声が出る。

 でも、宮城は反応しない。

 彼女は喋らず、私の服を掴み続けている。


「宮城のバイトって、ネックレス買うためだったの?」


 黙ったままの彼女に問いかけるけれど、返事がない。

 宮城、と呼ぶとおでこがぐっと押しつけられて、小さな声が聞こえてくる。


「……仙台さんは私だけのものだから、ネックレスは私のお金で買わないとおかしいじゃん」


 宮城が苦手なものを挙げるとしたら、間違いなくバイトが入ってくる。そんな苦手なものを私のためにするわけがないから、ネックレスを買うためにバイトをしているなんて考えには至らなかった。そんなことが絶対にあるわけがないから、考えたことがなかった。


 嘘みたいだ。

 宮城が私のためにネックレスを選んでくれただけではなく、バイトをしようと思ってくれたなんて。


 どうしよう。

 嬉しい。

 嬉しいなんて言葉じゃ足りないくらい嬉しい。


「仙台さん、前にあげたネックレスまだあるよね?」

「うん」

「それ、出して」


 おでこが離れ、掴まれていた服が離され、宮城が離れる。


 振り向いて「なんで?」と尋ねると、「いいから持って来て」と返って来る。私は立ち上がり、言われた通りに銀色の月がぶら下がったネックレスをもってきて、宮城の隣に座る。


「出して来たけど」


 そう言うと、宮城が私を真っ直ぐに見て言った。


「これ、私がもらうから返して」

「え、嫌だ」


 これは私の大切な思い出で、卒業式の日に私と宮城がルームメイトになるという未来を作ってくれたものだ。


 高校生の私と大学生の私を繋いでくれたこれは、宮城にだって渡したくない。ずっと、ずっと、ずっと、身に着けていなくてもずっと、私がもっていたいものだ。


「仙台さん」


 宮城が手を出して、「返して」と強い声で言う。


 嫌だ。


 と言いかけて、その言葉を飲み込み、仕方なくその手のひらに月が輝くネックレスを置く。


「葉月」


 静かに宮城が私を呼ぶ。

 普段とは違う呼び方に耳がぴくりと反応して、神経のすべてが宮城に向かう。


 宮城が口を開き、低くもなく高くもない凜とした声が聞こえてくる。


「今あげた葉っぱと、月の二つで葉月。……仙台さんの名前は、私があげたものでできてるってことだから。ほかの誰のものにもなれない。仙台さんは名前もなにもかも私のものだから、この月のネックレスは私がもらう」


 宮城が手のひらの月を握って隠し、もう片方の手で私のネックレスに触れる。

 四つ葉のクローバーを撫で、チェーンを辿る。


「葉月」


 はっきりと私の名前を呼び、私の頬に触れる。


「……なんで泣くの?」


 静かに、静かに宮城が言った。

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