第348話
泣いてない。
そう答えようとして、気がつく。
宮城が滲んでいる。
声ははっきりと聞こえているのに、彼女の輪郭はぼやけ、おぼろに見える。
そうか。
宮城は正しい。
だから、私の視界は不鮮明で、不明瞭で、宮城がよく見えない。
嬉しいとか、驚いたとか、幸せだとか。
こみ上げてきた感情が宮城の姿を押し流そうとしていて、頬が温かくて、触れている彼女の手が優しい。
私は、涙に濡れた宮城の手を掴む。
「……志緒理」
ずっと言いたかった名前を口にすると、胸が高鳴り、心が弾んでふわふわと漂う。
世界は薄情で冷たく、思い通りにはならない。
私は親の期待に応えられなかったし、姉のようにはなれなかった。望まれていたものが私のなりたいものなのかわからなかったけれど、ならなければいけないものだったことは確かで、そうなろうとしていたのにその思いが叶うことはなかった。
報われなかった思いは家族を変え、私の言葉だけが届かなくなった。
返ってくる声のない家。
積極的に帰ろうとは思えない場所。
そんな家に帰り続け、ただいまを言い続け、卒業まで代わり映えのしない日々を繰り返しながら家を出る日を待つ。
それが私だった。
でも、宮城が現れた。
傍若無人で野良猫のようだった宮城は今も変わらず勝手気ままで猫のようだけれど、彼女は家族が見放した私に帰る場所を作ってくれた。
「志緒理」
もう一度、宮城の名前を呼ぶと、彼女の手が私の頬を流れる涙を拭う。そして、カモノハシを引き寄せ、背中からティッシュを二枚抜き取って私に押しつけてきた。
「もう泣かないで」
ぼやけた宮城が困ったように言う。
「もう一回、葉月って呼んでよ」
ティッシュを床に落とし、涙を拭わずにぼやけたままの宮城を見る。
「……葉月」
ぼそりと、そっと。
宮城が私の名前を呼んでくれる。
葉月。
八月に生まれたから。
今まで葉月という名前には、それだけの意味しかなかった。
けれど、今日。
ただそれだけの意味しか持たなかった名前を宮城が特別にしてくれた。
宮城はいつだって私を新しい私にしてくれる。
過去を、未来を、作り替えてくれる。
私は、月のネックレスを握った宮城の手に触れる。
この中に、私の半分がある。
もう半分は、宮城からもらって私の胸にある。
「志緒理」
小さく名前を呼ぶ。
葉月は、葉と月が揃って一つの名前になる。
葉だけが私の元にあっても駄目だ。宮城が一緒にいなければ、私は私になれない。私は月が欠けたままでは生きていけない。
だから、ずっと、宮城は私と一緒にいなければならない。
息をゆっくりと吸う。
私は、この願いを叶える一歩目の言葉を知っている。
「私、志緒理に言いたいことが――」
伝えたかった言葉をやっと伝えられる。
そう思ったけれど、宮城の手が私の口を覆った。
「最初に感想禁止だって言ったじゃん」
私の唇に、ぎゅっと宮城の手のひらが押しつけられる。
名前の半分を握ったままでいてくれるのは嬉しいけれど、もう片方の手をそういう風には使ってほしくなかった。
おかげで、誤解だ、と言うこともできない。
もちろん、ネックレスの感想は伝えなければならないことの一つではあるのだけれど、感想よりも先に好きだと伝えたかった。
「ネックレスの話はこれで終わり。だから、もう志緒理って呼ばないで」
え、と口に出したかったが、宮城の手に封じられ短い言葉も発することができない。
本当に宮城は酷い。
発言の機会を与えてくれないだけではなく、“志緒理”と呼ぶ機会すら奪う。
私は宮城の手首を掴み、口を覆う手をべりべりと剥がす。思っていたよりも簡単に発言権を得た口で小さく息を吸うと、宮城が不機嫌に言った。
「仙台さん、喋らなくていいから」
低い声が部屋に響く。
宮城を見ると、眉間に皺が寄っている。
好き、と伝える雰囲気は霧散し、宮城はとりつく島もない。こうなると、するべきことは告白ではなくなり、私は疑問を一つ口にする。
「志緒理って呼んじゃいけないのはわかったけど、葉月って宮城が呼ぶのは?」
「もう呼ばない」
言うと思った。
宮城というのはそういう人間だ。
期待させるようなことをして、その期待に応えない。
でも、私はそういう彼女に慣れているし、そういう彼女だから好きになった。
「私の名前は宮城の名前だから、宮城の好きにすればいいよ。……呼んでくれると嬉しいけどね」
希望を付け加えると、宮城がカモノハシの背中からティッシュをまた二枚取って渡してくる。私はそれを受け取り、今度は素直に乾きかけている涙を拭う。
「……ずっと呼ばないわけじゃないから」
ぼそりと宮城が言う。
「ときどき呼ぶってこと?」
尋ねても返事はない。
宮城は私から視線を外し、カモノハシをじっと見ている。
「じゃあ、特別なときに呼んでくれるの?」
もう一度尋ねると、宮城がカモノハシから視線を外さずに言った。
「……確かめたくなったとき。そういうときに呼ぶから、そのときは仙台さんも私のこと志緒理って呼んでもいい」
宮城の声に記憶が蘇る。
月のネックレスをしていたとき、私は宮城に何度もネックレスを確かめられた。ネックレスをしなくなってからも、彼女は私が自分のものだと確かめたがった。
私はもらったばかりの四つ葉のクローバーに触れる。
「宮城、毎日確かめなよ」
「やだ」
小さな声が迷いなく返って来る。
不満ではあるけれど、受け入れるべきだと思う。
葉月と呼ばれることも、志緒理と呼ぶことも、まったくないわけではない。おそらくそれなりの頻度であるはずだ。
私は四つ葉のクローバーに触れた手で、月が握られた手に触れる。
「これ、宮城がつけるの?」
「つけない。とっとく」
「そっか。だったら、新しいネックレスを宮城の誕生日にプレゼントしてもいい?」
「駄目」
「宮城のケチ」
「……ケチでいいから、誕生日はネックレス以外のものを仙台さんが選んでよ」
どうやら宮城はネックレスはいらないけれど、私が選んだなにかがほしいとは思ってくれるらしい。去年は誕生日プレゼントがほしいなんて前もって言われたりしなかったから、随分と前進している。
「宮城って」
「なに?」
「宮城ってさ、本当に可愛いよね」
なにがほしいか言わないけれど、遠回しになにかがほしいと思っていることを伝えてくるところが宮城らしくて、もっと好きにならずにはいられない。
私は宮城の手首を引っ張って、月を握った手にキスを落とす。
「仙台さん、変なことしないでよ」
「はいはい」
にこやかに返事をして、離れていこうとする宮城の腕を捕まえる。
「宮城の誕生日。すっごく美味しい丸いケーキ買ってくるから、一緒に食べよう」
私はぎゅっと。
ぎゅうっと宮城を抱きしめた。
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