第241話

 することがない。

 本当はあるけれど、今はしたくないからすることがない。

 試験に向けて勉強をするべきだとわかっているものの、仙台さんのせいでやる気が出ない。


「あーあ、バイトなんて――」


 休めばいいのに、と言いかけてその言葉を飲み込む。

 ベッドの上、私はスウェットのまま布団の中でゴロゴロする。


 仙台さんの休みは元旦と四日だけで、二日の今日は午後からバイトだと言って部屋で準備をしている。


 こうなることはわかっていたけれど、もやもやとした気持ちはすっきりしないままだ。お昼は一緒に食べたけれど、夜は遅くなるから先に食べておいてと言われた。一人でご飯を食べても美味しくない。


 一月二日からカフェへ行く人間なんて滅びてしまえばいいし、カフェ自体がなくなってしまえばいいと思う。

 みんな三が日くらいは家でゆっくり過ごすべきだ。


 大体、カフェには私が見たことがある仙台さんの友だちで、バイト仲間の澪さんがいる。彼女が仙台さんになにかしたりはしないはずで、仙台さんだって彼女になにかしたりはしないはずだとわかっているけれど、私がいない場所で二人が楽しそうにバイトをしているのだと思うとこめかみの辺りが痛くなる。


「なんかむかつく」


 はあ、と息を吐いて、枕の横に座っている黒猫を撫でる。仙台さんからもらったそれは触り心地が良くて、気持ちが少し落ち着く。


 私は黒猫を布団の中に引っ張り込んで、体の向きを変える。壁際に置いてあったスマホを手に取り、ハシビロコウを検索する。すぐに、足が長くてくちばしが大きい変な鳥が画面に表示される。


 動かない鳥と言われているハシビロコウが動いているところを動物園で見たいと思う。でも、寝ているところでもいいかもしれない。前に見た眠るハシビロコウの動画は可愛かった。


 そう言えば、仙台さんも――。


 私はスマホの画面に、ペンギンを抱き枕にして眠っている仙台さんを表示する。

 普段とは違う彼女はやっぱり面白い。

 一枚、また一枚と過去の仙台さんを表示していく。


 いつの間にかスマホの中に、高校の時には一枚もなかった仙台さんが増えている。記憶だけでなく記録にも残っている仙台さんは、簡単には消せない存在になっていて私は彼女のことばかり考えている。このままいくと、ルームメイトの期限である大学生活が終わっても彼女のことばかり考えてしまいそうで嫌になってしまう。


 はあ、と大きく息を吐くと、トントンとドアをノックする音が聞こえて飛び起きる。


「宮城、入ってもいい?」

「開けるから待ってて」


 いいと言う前に仙台さんが部屋へ入ってくることはないけれど、布団の中の黒猫を慌てて掴んで本棚に戻す。そのままドアを開けようとして、スマホの存在を思い出してベッドへ戻る。表示しっぱなしになっていた仙台さんの画像をロック画面に変えてから、息を吸って吐いて呼吸を整え、ドアを開けた。


「……宮城。今日ずっとスウェット着てるつもり? 着替えなよ」


 私がなにか言う前に、ニットにスカートという出で立ちの彼女が呆れた声を出す。


「どこにも行かないし、このままでいい」

「良くない。だらけすぎ」

「いいじゃん、だらけてても。お正月なんだし」

「お正月だからこそ、服くらい着替えなよ」

「仙台さん、うるさい。早くバイト行けば」

「行くから中に入れてよ。印つけるんでしょ」


 仙台さんが昨日の約束とは別の約束を口にして、早く部屋に入れろとばかりに私を見た。

 入れない理由はないから、素直に彼女を部屋に入れる。私はドアを閉めて小さく息を吐く。


 冬休みにバイトをすると仙台さんが言ったとき、私は彼女と約束をした。


 彼女は冬休みの間、バイト以外はどこにも行ってはならないし、バイトに行くときはピアスをつけて行かなければならない。そして、バイトへ行く前に私に印をつけられなければならない。


 そういう約束だ。


「で、どこに印つけるの?」


 そう言うと、仙台さんが勝手に私のベッドに座った。


「立って後ろ向いて」


 私はドアに寄りかかって仙台さんを見る。


「背中につけるってこと?」

「いいから言う通りにして」

「それって、昨日言ってた命令?」

「違う。命令じゃない」


 どんな命令でも仙台さんがきくという約束を使うのは今じゃない。もっと仙台さんが困るような命令を思いついたときに使うべきで、今日使ってしまうのは勿体ない権利だ。


「じゃあ、嫌だって言ってもいいんだ?」

「言いたければ言えば」

「……立って後ろ向くだけでいいの?」

「いいよ」


 短く答えると仙台さんは思った通り、強制力のない私の言葉に従う。


 本当に仙台さんはつまらない。


 彼女が意思を持って私を拒否するのはバイトのことくらいで、他のことはほとんど受け入れる。どこに置いてきたのか知らないが、自分の意思の大半をどこかに忘れてきている。


 そんな彼女をどうしたら困らせることができるのか。

 よくわからない。


 こういうとき、たまには嫌だって言えばいいのに。


 クローゼットの中からタオルを取りだし、大人しく私に背中を向けている彼女の片方の手を掴んで引っ張る。


「そっちの手も後ろにやって」


 それだけで言葉の意味を理解したらしい仙台さんが黙って私の言葉に従い、タオルで縛りやすいように手を後ろに回してくれる。私は彼女の手首をタオルでぎゅっと縛って声をかける。


「こっち向いてベッドに座って」


 仙台さんが体の向きを変えて「変態」とぼそりと言う。


 その変態のいうことを素直にきいている仙台さんの方が変態だと思うけれど、口には出さずに彼女の肩を押すと、仕方がないというようにベッドに座った。


 仙台さんは、私が首筋に印をつけると予想しているのかタートルネックのニットを着ている。


 その予想は正しくて、正しくない。


 これから印をつけるところは首筋だけれど、ニットで隠れる場所に印をつけるつもりはない。私は耳の下、首を覆うニットでは隠れない場所に噛みつく。


 仙台さんが肩をびくりと震わせ、体を引く。手首を縛っているから、彼女はそれ以上抵抗することができない。私は彼女の腕を掴んで引き寄せ、唇を首筋に押しつけて強く吸う。


 印をつけようとしている場所はたぶん、髪で隠れる。

 だから、私の痕跡をタートルネックでは隠れない場所に残す。


 仙台さんは抵抗しようとすらしない。

 体が動いたのは最初だけだ。

 私は隠れなくても印が目立たないように、すぐに唇を離す。


「宮城。見える場所に印つけていいとは言ってない」

「どこにつけてもいいって約束じゃん」

「確かにそういう約束だけど」


 はあ、と仙台さんがため息をつく。


「仙台さん、立って」

「先にタオル外してよ」

「まだ駄目」

「今度はどこにつけるつもり?」

「立ったらわかる」


 私がそう言うと、仙台さんが素直に立ち上がる。


「で、どこ?」


 探るように私を見る仙台さんの胸の上に手を置く。


 心臓の上あたり。


 軽く手を押しつけると、仙台さんが驚いたような顔をした。でも、黙ってするりと手を下へと滑らせて柔らかな膨らみを撫でる。


 仙台さんは文句を言ったりしない。

 黙って私を見ている。


 こうして私に逆らわない仙台さんを見ていると、彼女が随分と歪な形になってしまったような気がしてくる。


 仙台さんが私の言葉のほとんどを受け入れるのは、最近始まったことじゃない。それでもこんなことを思うのは、彼女が前とは違って見えるからだ。


 命令をほしがったり、命令を介してするようなことを自ら進んでしたり。


 そういうことが明らかに増えている。

 私は、そういう人ではなかった彼女がそういう人になってしまったことに、喜びと苛立ちを感じている。


「後ろ向いて。タオル外す」


 私は胸から手を離す。


「もういいの?」


 事も無げに言う彼女の腕を掴んで強引に後ろを向かせ、タオルを外すと、私が印をつけたあたりを仙台さんが撫でた。


「いってらっしゃい」


 ぼそりと言って、仙台さんの足を蹴る。


「いってきます。ご飯、ちゃんと食べなよ」

「言われなくても食べる」

「じゃあ、いってきます」


 仙台さんがにこりと笑って、私の部屋から出て行った。

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