第240話

 お雑煮は美味しかった。

 お昼のパスタも美味しかった。

 でも、お昼のサラダにブロッコリーが入っていたことは許せない。


「宮城がブロッコリーを嫌いだって知らなかったんだからしょうがないじゃん。大体、ブロッコリーが嫌いなら嫌いだって先にいいなよ」


 仙台さんが呆れたように言って、小さく息を吐く。


「ブロッコリー入れるって言わない仙台さんが悪い。入れるって知ってたら嫌いだって言った」

「お昼なんでもいいって言ったの、宮城でしょ。それにサラダの代わりにトマトを出したんだから、許しなよ」


 隣から面白くない答えが返ってきて、私はカモノハシで仙台さんの足をべしんと叩く。


 一欠片や二欠片だったら我慢して食べることを許しても良かったけれど、サラダにはブロッコリーがたくさん入っていた。そのことに文句を言ったら、私のためにトマトを出してくれたことは事実だ。


 でも、栄養があるから食べた方がいいだとか、子どもじゃないんだからだとか、いろいろ言われてブロッコリーを半分くらい食べることになったから酷いと思う。お正月から嫌いなものなんて食べたくなかった。


「仙台さんの嫌いなもの教えてよ。今度、それいっぱい入れるから」


 私はテーブルの上からサイダーが入ったグラスを取って、一口飲む。


 本当は仙台さんの部屋に集合したくないくらい腹立たしかったけれど、強引にこの部屋に連れてこられた。おかげで私は、彼女にどれだけ文句を言っても足りない。まったくもって足りない。昨日買ったシュークリームを半分もらったけれど、許したくない。


 お正月だからとわざわざ着替えさせられたのも腹立たしいことの一つで、できればスウェットのままごろごろしていたかった。


「嫌いなものない」


 仙台さんが涼しい顔で嘘をつく。

 でも、彼女にとって今の言葉が正しいかどうかは関係ない。仙台さんは嫌いなものでも私が食べろと言ったら食べるだろうし、好きなものでも私が食べるなと言えば食べないはずだ。


 いつもはそういう彼女が嫌いではないけれど、今日は違う。

 苛つくし、腹立たしい。


「これ飲んで」


 私は持っていたグラスを仙台さんに渡す。

 中身は過去に彼女が苦手だと言っていた炭酸で、半分ほど残っている。


「飲んでって、どれくらい?」

「全部」


 短く答えると、仙台さんが躊躇うことなく透明な液体を全部飲んでからグラスをテーブルに置いた。


「宮城、そろそろ機嫌直して」


 柔らかな声とともに手が伸びてきて、私はその手を叩いて返り討ちにする。


「どんな命令でもきくって約束、守って。守ってくれたら機嫌直してもいい」

「なにそれ」

「朝、言ってたじゃん。仙台さんが覚えてなくても、あの権利、私が使いたい時に使う」


 今朝、部屋へ戻ろうとした私に仙台さんが「ここにいてくれたら、宮城のいうこときく」と交換条件を出してきた。それは命令をきくというもので、私はしっかり覚えている。


「約束守るのはいいけど、命令するの今じゃないの?」


 仙台さんが命令されることをあっさりと受け入れる。


「今は命令したいことない」


 どうせ命令するならこの場で無理矢理なにか作り出すよりも、彼女が嫌だと言いたくなるような命令を見つけたときに権利を行使したい。

 きっと仙台さんは私がなにを言っても平気な顔でそれをするだろうけれど、少しでも困らせたいと思う。


「まあ、宮城が好きなときでいいけど。今、命令しないならちょっと手を貸して」

「手?」

「爪切ってあげる」

「私の?」

「そう。宮城の」


 仙台さんが唐突に変なことを言うのはいつものことだけれど、爪を切るというのはあまりにも脈絡がなさ過ぎる。

 なにか裏がありそうで、手を出そうという気持ちになれない。


「……なんで急に爪切ろうと思ったの?」

「朝、宮城の手を見たときに爪が少し長かったから」


 そう言うと、彼女は私が爪を切ってもいいと言っていないのに立ち上がり、ケースを持ってきてテーブルの上に置いた。


「なにそれ」

「なにって、爪切りとエメリーボードとバッファーと――」


 仙台さんがケースの蓋を開けて、中に入っているものの説明を始める。聞き慣れない名前のものもあるけれど、それが爪の形を整えたり、磨いたりするものだということはわかる。


「それ、全部使うの?」


 ケースの中になにが入っているのかは大きな問題じゃない。

 問題は、入っているものの種類が多すぎることだ。ちょっと爪を切るくらいだと思ったけれど、そういうわけじゃないらしい。


「全部は使わないと思うけど、一応。宮城。手、だして」

「面倒くさい」


 なにかしたいことがあるわけではないが、仙台さんのおもちゃになるつもりはない。


「私が切るんだからいいでしょ」

「時間かかりそうだし」

「時間かかってもいいじゃん。どこにも行かないんだし」

「行けばいいじゃん」

「私は行きたいけど、宮城は行きたくないんでしょ」

「行きたくない」

「じゃあ、手、だして。嫌なら、他に暇つぶしになるようなこと提案しなよ」


 映画にゲーム。

 漫画に小説。


 私と仙台さんがこの家の中でできる暇つぶしは限られていて、そのどれもがお正月にしたいことじゃない。爪を切られたいわけでもないけれど、出かけたいという仙台さんを家に閉じ込めておくのだから、少しくらい彼女の希望を叶えてあげてもいいような気がしてくる。


「あまり時間かけないなら」


 ぼそりと言って手を出すと、仙台さんに手首を掴まれる。

 彼女の指先は私の手の甲を滑り、そのままゆるゆると指を撫でる。そして、手を止めると、私の指先をじっと見た。

 爪を切るはずの彼女は、私の手を見続けている。


「なに?」


 声をかけると、仙台さんが「別になにも」と言って爪切りを手に取った。


「親指から切るね」


 パチン、パチン。


 伸びかけた爪が切られ、短くなっていく。

 親指、人差し指、中指。

 私の一部が切り落とされ、程よい長さになる。


 こんな風に誰かから爪を切られた記憶がないからなんだか落ち着かなくて、爪を切る音と音の間を埋めるように口を開く。


「なんで爪切りは意識高そうなヤツじゃないの?」

「意識高そうな爪切りってなに?」

「映画とかドラマで爆弾のコード切るときに使ってそうなヤツ」

「爆弾のコード? ……あ、わかった。ニッパー型の爪切りでしょ。私、ああいうのって、深爪しそうで怖いから使ったことないんだよね」


 爪を切りながら仙台さんが静かに言って、「次、こっちの手ね」と私の左手を掴む。


 パチン、パチン。


 また親指から伸びかけた爪が切られていき、右と左すべての指の爪が切られる。


「爪の形、整えておくから」


 仙台さんが巨大なアイスキャンディーの棒にも見えるエメリーボードを手に取り、切ったばかりの爪に当てて削っていく。一本、また一本と爪の角が削られ、形が整えられる。


「仙台さん。人の爪を切ったり、削ったりするのって面白い?」

「わりと。また爪が伸びたらしてあげようか?」

「いい」

「そのいいは、またしてもいいってこと?」

「違うってわかってて言ってるでしょ」

「残念」


 それほど残念ではなさそうな声が聞こえ、「甘皮はこのままにしとこっか」と付け加えられる。


「もう終わりでいい」

「まだだから」


 仙台さんがさっきバッファーと言っていたものを取り出し、私の爪の表面を磨いていく。


「時間かかりすぎ」

「いいじゃん。他にすることないし」


 良くはないけれど、強く断るほどでもなくて放っておくと、自分の爪とは思えないほどピカピカになり、仙台さんが中身がやけに少ないネイルオイルの瓶を手に取った。


 それが舞香からもらったものだったら、嫌だと言って断ることができた。でも、見たことがないものだったから止めるタイミングを失って、ネイルオイルを塗られてしまう。


 私の爪は丁寧に、ゆっくりと、爪だけではなく皮膚にも馴染ませるようにオイルが揉み込まれ、もともと少なかった瓶の中身がさらに減っていく。

 ときどき彼女の手は、オイルを塗らなくてもいい指の根元にまで這って、関節の上に唇が押しつけられる。


 それは魔法をかけられているみたいで、止めることができない。


 たぶん、こんなに時間をかけなくてもいいというくらい時間をかけてオイルを塗り込んでから、仙台さんが顔を上げた。


「綺麗になった」


 満足したように言って、仕上げをするみたいに爪の先にキスをする。


「疲れた」

「まだ終わりじゃないから。足の爪も切るし、そこに座って」


 当然のように仙台さんがベッドを指差す。


「もういい」

「よくない。足の爪も爪なんだから、大人しく切られなよ」

「切るんだとしても、座らなくてもいいじゃん」

「座ってくれた方が切りやすい」


 にこりと笑う仙台さんの顔はいつもと変わらない。

 爪を切る。

 ベッドを椅子代わりにする意味は、それ以外にはないはずだと思う。


 そう思うのに、私の中でベッドに座るという行為と足を舐めるという行為が紐付いている。普通の人は、命令されてもいないのに人の足を舐めたりしない。いや、命令したって舐めたりしない。


「宮城」


 催促するように言って、仙台さんがベッドを見る。

 もたもたしていると、よくないことを考えているように思われそうで、私は大人しくベッドに座る。

 必然的に仙台さんを見下ろすことになる。


 この光景は何度も見たものだ。


 最近では珍しいけれど、以前はそれなりによくあったことで、心臓がどくんと鳴るようなことではないのにどくんと鳴る。


 仙台さんがどういうわけか爪切りを持たずに私の踵を撫でて、指先を足の裏へ滑らせる。それは足を舐めさせたときにされたことがあることで、また心臓がどくんと鳴る。


「変なことしないで、早く爪切ってよ」


 足にまとわりつく手から逃げるように仙台さんの膝を蹴ると、彼女は返事をせずに親指の爪に爪切りを当てた。そして、手の爪を切ったときと同じように爪を切っていく。


 パチン、パチン。


 さっき聞いた音が何度も部屋に響き、右と左すべての爪を切り終わると、仙台さんが頼んでもいないのに足先にキスをした。顔が良く見えないから、彼女がなにを考えてこういうことをしたのかわからない。


「そういうことしなくていい」


 私の言葉が聞こえているはずなのに、仙台さんの舌が足の甲を這う。彼女の手はデニムの裾をまくり、くるぶしを撫でる。生温かくてしっとりとした舌は、足首を舐めてくる。


 柔らかく舐め上げてくるそれに、心臓がぞわぞわとして足に力が入る。唇が押しつけられ、足首が熱を持つ。


 おかしい。

 こんなのは変だ。


「仙台さんっ」


 強く呼ぶと、足首から唇が離れ、足の先にキスが落とされた。


「さっきからなんなの。こんなことしてって言ってない」

「ねえ、宮城。新しい約束しようよ」


 仙台さんが私の言葉を無視するように言う。


「約束?」

「そう、約束」

「……しない」

「どんな約束か聞かないの?」

「絶対に変な約束だし、聞きたくない」


 今日の彼女はおかしい。

 お正月だから、なんて理由では説明できないほど行き過ぎているから、約束だってろくなものじゃないはずだ。


「ケチ」

「ケチじゃない」


 私は仙台さんの肩を蹴る。


「じゃあ、普通の約束にしようかな。動物園行くの、四日でいい? その日、バイト休みだから」

「いいけど、さっきの約束ってやっぱり変な約束なんじゃん」

「まあ、いいじゃん。それより動物園は四日で決まり。約束ね」


 仙台さんが明るく言って、また足の甲にキスをした。

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