第326話

 バイトなんて無理だ。

 したくない。

 でも、しないとネックレスが買えない。


 はあ、と息を吐き出して、ベッドに寝転ぶ。仙台さんが勝手に“ろろちゃん”と名付けた黒猫のぬいぐるみをお腹の上に置いて、もう一度ため息をつく。


 仙台さんにバイトをすると宣言してから一週間と少し。

 バイト先が決まっていないどころか、探してもいない。


 やる気はあっても、勇気は家出をしたままで帰ってきてくれない。いや、やる気も勇気を追ってどこかへ行ってしまったような気がする。


 私のバイトを阻止しようとした仙台さんは、今日は帰りが遅い。バイトで、生徒とかいう人間に勉強を教えている。私と違って彼女は、自分で決めたバイトを苦労せずにこなしているように見える。


「バイトってどうすればいいのか教えてよ」


 私は無口な黒猫の腕を引っ張る。

 バイトの探し方は知っている。

 大学内の掲示板から探してもいいし、求人サイトを見てもいい。

 友だちの紹介という手もある。


 探す方法はたくさんあるけれど、どれもやりたいとは思わない。要するに私は、バイトをするという行為から遠ざかろうとしている。


 ネックレスは、たぶん、一ヶ月くらい働けば買える。きっと長くても二ヶ月働けば十分だ。仙台さんは馬鹿みたいに高いものを渡しても受け取らないはずだから、長期のバイトをする必要はない。


 だから、期間を考えれば、働くことはそう難しいことじゃない。

 少しの間、我慢するだけでいい。


 でも、やりたくない。


 ネックレスを買わないという選択肢はないけれど、バイトのことを考えると気分が光の速さで落ちていく。


 私の分身が代わりに働いてくれればいいと思うが、私の分身なんて私と同じ軟弱な意思を持っているに違いないから絶対に働きたくないと言うはずだ。


 黒猫の頭を撫でて、枕の横に置く。

 寝返りを打って、天井を見る。


 私も、私の分身も当てにならない状態で、どうやってバイトをすればいいのだろう。


 はあ、と大きく息を吐くと、トンッとドアをノックする音が耳に響いた。


 体を起こしてベッドから下り、ドアを開ける。


「おかえり」


 バイトから帰ってきたらしい仙台さんに声をかけると、「ただいま」と返ってきて「宮城、ご飯は?」と問いかけられる。


「食べた。仙台さんは?」

「パスタ茹でようかなって。宮城も食べる?」

「これ以上食べたら太る」

「そっか。じゃあ、お茶入れてあげるから、こっち来なよ」

「いらない。私のことはいいから、仙台さんご飯食べて」


 今日は、バイトをしてきた仙台さんと話をする気分にならない。


 一緒にいると、あまり考えたくないバイトのことを考えてしまいそうだ。早く帰ってくればいいと思っていたけれど、顔は見たし、声も聞いた。


 だから、もういい。


「じゃあ、アイスは?」


 仙台さんがこの家の冷凍庫に入っていないものの名前を口にして、にこりと笑う。


「アイスなんてないじゃん」

「買ってきたし、食べる?」

「……なんか話あるんでしょ?」


 仙台さんがこんな風に諦めが悪いときはなにかある。

 それが私にとって楽しいものではないことが予想できるから、自然と声が低くなる。


「ろろちゃん、置き場所変えたの? この前もベッドにいたけど」


 そう言うと、仙台さんが私の部屋の中を指さした。

 振り向きそうになって、ぐっとこらえる。


「変えたわけじゃない」


 バイトのことを考えていて、黒猫を本棚に移動させることを忘れていた。今、ぬいぐるみは彼女が言うとおりベッドに置かれている。


 本当にむかつく。


 仙台さんは、見なくてもいいところばかり見ている。


「ろろちゃんっていつも本棚にいるよね? 変えたわけじゃないなら、どうしてベッドにいるの?」

「それは……。汚れてないかチェックしてただけ」

「黒いし、見ても汚れてるかわかんなくない?」


 仙台さんがつまらないことを言って部屋の中を見るから、私は共同スペースに大きく一歩踏み出して、ドアを閉めた。


「仙台さん、話ってぬいぐるみのことなの?」

「違う。お茶飲まなくてもこっち来なよ」


 柔らかく笑って、仙台さんが私の手首を掴む。

 引っ張られ、私はのろのろ歩いて椅子に座る。


 仙台さんが私から離れ、棚から鍋を取り出す。そして、鍋に水を入れると、「あのさ」と言った。


「なに?」

「バイトどうなったの?」

「どうなったのって?」


 水を入れた鍋がコンロの上へ置かれ、火が点けられる。仙台さんがパスタやソースを用意しながら、なんでもないことのように「バイト、決まったのかどうかってこと」と聞いてくる。


「まだ決まってない」

「だよね。……本当にバイトするつもりなの?」


 私に話しかけてくる仙台さんはこっちを見ない。

 鍋に話しかけるように問いかけてきた。

 私は彼女がどういう顔をしているのかわからないまま問い返す。


「なんでそんなこと聞くの?」

「バイト決まらないといいなと思っただけ。……嘘。バイト先、探すの手伝おうか?」


 仙台さんが静かに言う。


「いい。自分で探す」


 バイトをするのも、探すのも、今までしたことがないことだ。

 初めてのことをするときは少し心細い。


 でも、仙台さんを頼りたくないと思う。


 これは仙台さんのものを買うための儀式のようなものだから、それに彼女が関わってくるのは間違っている。


「宮城」


 仙台さんが振り向く。


「なに?」

「バイトって大学で探せるの知ってる?」

「知ってる。仙台さん、私のこと子どもかなにかだと思ってない?」

「そういうわけじゃないけど、ちょっと心配でさ」

「心配ってなにが?」

「いろいろ」

「いろいろって?」

「変なところでバイトしないかとか。あとほら……」


 そこまで言って仙台さんが口ごもる。


「続きは?」

「――変な人と知り合わないか、とか」

「そんな心配しなくていいから、仙台さんはお湯の心配してて。パスタ茹でるんでしょ」

「お湯ならまだ大丈夫」


 仙台さんが鍋ではなく私をじっと見る。

 顔を見ていても彼女がなにを考えているのかはわからないが、心配しているというのは嘘ではないように見える。


「仙台さん。私、お風呂入ってくるから」


 心配されても私がすることは変わらないけれど、心配されていると仙台さんに甘えそうになる。


「急に?」

「そういう時間だし、もう話すことないし」


 ぐずぐずと時間を浪費してきたけれど、いい加減バイトを探し始めなければいけないと思う。このままだと、なにもしないまま夏休みになってしまいそうだ。


 私は仙台さんに背を向けて、部屋へ戻る。

 枕元の黒猫を本棚に置き、スマホを見る。

 あまり良い方法じゃないことはわかっている。


 ――澪さん。


 この前、彼女はこの家に遊びに来たときにバイトの話をしていた。澪さんが言っていたカフェのバイトは私には無理そうだけれど、顔が無駄に広そうだから、バイトを探していると言えばなにか紹介してくれそうだと思う。


 舞香を頼ることも考えたが、彼女に言えばハンバーガーを一緒に売ることになりそうで嫌だ。そんなことになったら、楽しそうに働いている舞香と自分を比べて落ち込むに違いない。


「……とりあえずお風呂」


 澪さんに連絡するかどうか。

 結論は先延ばしでいい。


 お湯につかって、ゆっくり考えて。

 運命を澪さんに預けていいか吟味してからでも遅くない。


 私は、着替えを用意してバスルームへ向かった。

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