第86話
宮城は来るかもしれないし、来ないかもしれない。
文化祭のあとに呼び出したときは来たけれど、あの日、自分がしたことを考えれば来ない可能性の方が高そうに思える。
今日、宇都宮から聞いたこと。
宮城がもしここに来たなら、そのことを聞きたい。
――あまり気分は良くないけれど。
胃の痛みは治まったが、胸の奥がもやもやしている。
頭に浮かぶことは否定的なことばかりで、明るい気分にはならない。姉ばかりを可愛がる両親を見ていたときに似た気分だ。
一つのことに囚われて、悲観的なことばかり考えてしまう。
こういう私は良くない。
それなりに頭を使って、要領よくクラスのそれなりの位置でそれなりに楽しい学校生活を送ってきた。そういう私が消えてしまいそうだ。
息を吸って、吐いて。
私はそう広くない教室を静かに歩く。
宮城が県外の大学を選んだ理由に私が関わっていないにしても、彼女は私が受ける大学からそう遠くない場所の大学を選んだ。
どんな理由でも、遠いよりは近い方がいい。
単純にそう思ってしまった方が楽だ。
積極的に認めたいことではないが、私は宮城と遠く離れることを望んではいない。宇都宮と同じ大学を選んだということに関しては、薄墨色の世界を歩いているようなすっきりとしないものがあるが、“近い”という言葉に意味を見出した方が良い。
そう遠くない場所に宮城がいれば、関係がぷつりと途絶えてしまったりはしないだろう。そう思えば、ある程度のことは許すことができるような気がする。
どうせ、気持ちをすべて綺麗に整理するなんてできない。だったら、自分から奈落の底に落ちていくより、ある程度マシな考えを選んだ方が良い。
納得できない自分を自ら説き伏せて、なんとなく良さそうな方向へ持って行く。それはそう悪いことではないはずだ。
ただ、問題はある。
私が知っている宮城は素直じゃない。
受ける大学を教えろと言っても、絶対に話してはくれないだろう。そして、私は宇都宮の名前を出したくない。出したら宮城は、相談しただけで行くつもりはないと全力で否定してきそうな気がする。
かといって、宇都宮の名前を出さずに今日聞いた話が本当かどうかを確かめることは難しいことに思えた。
それでも諦めたくない私がいる。
でも、宇都宮が昼休みにあったことを宮城に話していたら――。
宮城が宇都宮と同じ大学を受けようとしている。
それを私が知っていることに宮城が気づいてしまっていたら、面倒くさいことになっていそうだ。宇都宮に、やっぱり地元の大学へ行くと話していてもおかしくはない。
足を止めて時計を見ると、ここに来てから十五分が過ぎていた。
「来ない、かな」
待ってもあと五分。
十二月がひたひたと背後に迫ってきているせいか、音楽準備室は少し寒い。ここは、人を長く待つような場所ではないと思う。
大体、いくら宮城でも私を三十分も四十分も待たせたりはしないはずだ。そう思いたい。
楽器が置かれた棚に寄りかかる。
扉を見る。
目を閉じてゆっくりと開くと、扉が静かに開いた。
短くはないけれど、長くもないスカートが私の目に映る。
不機嫌に寄せられた眉。
遅くなったとか、待たせてごめんとか、私を気遣う言葉もない。
宮城が黙って近づいてくる。
肩よりも少し長い髪を揺らして、私の少し前で足を止める。そして、面倒くさそうに口を開いた。
「学校では話さないって約束、どうなったの」
宮城が鞄をこんっと私の足にぶつける。
「守りたいなら宮城は守っても良かったのに。でも、守らなかったってことは、約束なんてどうでもいいってことじゃないの?」
「帰る」
宮城が室温よりも低い声で言って回れ右をしようとするから、私は引き留めるように声をかけた。
「待ちなよ。ちゃんと用があって呼んだんだからさ」
「どうせくだらないことでしょ。ここじゃなくて家でいいじゃん」
文句を言いながらも宮城が鞄を床へ置いて、私を見る。
「命令されたくないから」
にこりと笑って言うと、露骨に嫌そうな顔が返ってきた。
「話があるなら、早く言いなよ」
なにをどう話すか。
未だに考えがまとまっていない。
そして、もう五分考えてもまとまるとは思えない。
宮城のことになると驚くほど頭が回らない私は、結局、いつもと同じようにストレートに聞くしかなかった。
「……志望校ってどこ?」
「用事って、それ聞くこと?」
「そう」
「もう何度も言ってるけど」
「大学って一つしか受けられないわけじゃないしさ。他に受けるところないのかなって」
「受けない」
予想通りの答えが返ってきて、私は磨かれた楽器を指で弾いた。
大学の話は、宮城が私に言わないことの一つだ。
問い詰めたいと思うけれど、答えないことも知っている。
いつも宮城は、私が知りたいことは教えてくれない。
私には、宇都宮の話が本当かどうか確かめる術がない。
「受ければいいのに。今なら、もっと良い大学狙えると思うし。せっかく勉強したんだしさ」
私は駄目だと思いながらも、宮城から聞きたい答えを引き出そうとする。
「仙台さん、しつこい。もうこの話、終わり」
「ここでは命令きかないから」
「命令じゃないから、話がしたいなら仙台さんだけ好きなだけ続ければ。私は話したいことがないし帰る。仙台さん、あとからうちに来てよ」
宮城が一方的に話を打ち切る。
わかっていたことだが、そっけないし、冷たいと思う。これ以上、話を引き伸ばしたところでさらに冷たくされるだけだということもわかる。けれど、往生際が悪い私は宮城をこのまま帰らせたくない。
「友だちと同じ大学に行きたいとかないの?」
具体例として宇都宮の名前を出したくなるが、彼女の名前は飲み込んで胃の中に閉じ込めておく。
「……急になに?」
「よくそういうのあるじゃん。仲の良い友だちと同じ学校に行きたいみたいなの」
「そう言えばさ。仙台さん今日、舞香と話したよね?」
宮城が私の質問には答えず、眉間に薄く皺を寄せて質問を返してくる。
その様子から、宇都宮が私と会ったことを宮城に話したとわかる。となると、宇都宮の名前を聞かなかったことにして話を進めるわけにはいかない。
「宇都宮となら、購買に行く途中に会った」
「舞香となに話したの?」
「前に宮城を呼び出したこととか聞かれただけだけど」
「それだけ?」
「それだけ。宇都宮、なにか言ってた?」
「仙台さんと同じこと言ってた」
「そっか」
どうやら、宇都宮は宮城に大学の話をしなかったらしい。
だったらこれ以上、追求しない方がいい。
話を終わらせてしまった方が面倒なことにならずにすむ。
わかってはいるけれど、まだ話をしたいと思う自分もいる。
「もう気がすんだでしょ。先に帰るから」
宮城が床に置いた鞄を持とうとして、私は反射的に彼女の手を掴む。
「なに?」
「もう少し話、しない?」
「しない。話なら帰ってからでもできるじゃん」
「まあ、そうだけど」
わかっている。
けれど、手を離せない。
私は、掴んだ手の隙間をなくすみたいにぎゅっと握る。
風邪をひいた日に繋いだ手よりも冷たい。
二人でいても音楽準備室は寒いから、手が冷たいのはそのせいだ。きっと私の手も冷たい。だからといって、手を温めたくて握ったわけではない。
「帰るから、離して」
「もう少しこのままでいてよ」
離してしまったら、またしばらく繋げないと思うと離したくない。
手を繋ぎたいとか、もっと触れたいとか。
そういう気持ちを上手く処理できない。
たぶん、宮城ばかりが私に触れてくるからだと思う。
そして、宮城がなにも話してくれないからだと思う。
「宮城」
名前を呼んで彼女に一歩近づくと、手を振り払われる。
「キスはしないし、もう帰る」
「まだなにも言ってない」
過去に私がここでしたことを思い出したのか、宮城の声は冷たかった。けれど、私はもう少し宮城に触れたかっただけでキスをしようと思ったわけではない。
「これから言うかもしれないから、先に言っておいただけ」
「それ、間違ってるから。宮城に触りたかっただけ。宮城もいつも私に触るから」
「も、っておかしくない? 私、仙台さん触ったりしてないけど」
私は、学校では外さないブラウスのボタンを一つ外す。
そして、ペンダントを見せる。
「これ、いつも触るじゃん」
普段はブラウスに隠されているペンダントは、呼び出されるたびに宮城に触られていた。でも、私が同じ場所を触ろうとしても、いつも命令で止められる。
「それはネックレスを触ってるんであって、仙台さんを触ってるわけじゃない」
「でも、これだけじゃなくて私にも触ってるんだから、触らせてよ。いっつも宮城ばっかり触ってずるい」
もう一歩近づいて、宮城の頬に手を伸ばす。
ぺたりと手のひらを押しつけると、冷たかったのか宮城がびくりと震えた。そのまま手を首筋に滑らせて、ネクタイを緩める。けれど、ブラウスのボタンを外す前に腕を掴まれた。
「仙台さんの変態。やめてよ」
宮城が強い口調で言って、掴んだ腕を放す。
「ここでは宮城の命令、きかないから」
「そうだね。私が買ってるのは私の部屋にいる仙台さんだけで、学校での仙台さんじゃない」
「わかってるなら、大人しくしてて」
「でも、仙台さんにだって、学校で私になにかする権利ないから」
「前はキスさせてくれたのに?」
ここであった事実を口にすると、宮城が難しい顔をしながらネクタイを締め直す。そして、感情のこもらない声で言った。
「……触りたいっていうなら、それなりのことしてよ。仙台さん、交換条件好きでしょ?」
「好きなわけじゃないけど。――交換条件ってなに?」
どうせろくな条件じゃない。
それでも、私は宮城に尋ねた。
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