第292話

 隣同士という距離が、近いのか遠いのかはわからない。


 でも、そう広くもない部屋という制限された空間では、肩が触れあいそうなくらいの距離に仙台さんがいることは自然なことだ。


 あれからタブレットは、それくらいの距離を保っていた私たちの前で、観たかったのかどうかわからない映画を最後まで映し続けた。


 私は、はあ、と息を吐き出し、水面を叩く。


 ばしゃん。


 浴室に水音が響いて、顔が濡れる。

 私は目を閉じて頭を振る。

 そして、「むかつく」と小さく声に出した。


 エンドロールまで映画を観たあと、どちらが先にお風呂に入るかじゃんけんで決めた。勝ったのは私で、浴槽で溺れかけているのも私だ。仙台さんは部屋にいる。


 目を開いて、入浴剤で青く染まった水面を見る。


 キスで中断していた映画の再生ボタンを押したあと、仙台さんの理性は理性という形を留め続け、消えてなくなるようなことはなかったから、私たちの間にはなにもなかった。それは、何事もなく、平穏無事に最後まで映画を観ることができたということで、不満を感じるようなことではないと思う。


 私も映画を観る以上に仙台さんになにかしたいと思ったりしなかったし、なにかされたいと思ったりしたわけでもなかったから、そのことに文句なんてないはずなのに、つまらないと思っている。


「……映画が面白くなかったのが悪い」


 興味を持って画面を見続けることができなかったから、隣にいた仙台さんに意識が向かってしまった。


 仙台さんがペンギンにしていたようなことをされても良かったのかもしれないし、私が彼女にしても良かったのかもしれない。


 なんて、どうしようもないことが私のどこかから生まれかけて、消して、また生まれかけてなんていう繰り返しが続いてしまった。

 今も、あのとき彼女に誘われるまま先へ進んでいたら、と考えかけている。


 私の中にもやもやしたものが残っていて、仙台さんがいないバスルームにいても消えない。それどころか、もやもやはお湯よりも重くて、水面の青よりも濃いものに変わり、私の中にある“仙台さん”に向かっていく。捉えどころのなかった想いがはっきりとした形を持ちそうで、私は頬をぱちりと叩いた。


 仙台さんだったらこういうときどうするんだろう。


 そんなことが頭に浮かんで、慌てて消す。

 これは考えるようなことじゃない。


 だって、仙台さんは一人で――。


 過去に聞いた彼女の秘密を思い出しかけて、慌ててそれを打ち消す。


「ほんと、むかつく」


 私が今考えなければいけないのは仙台さんのことではなく、連休中に二人で見に行くと約束した“ペンギン”がいる場所だ。私が決めると言ってしまったから、連休が終わる前に“目的地”を選ばなければならない。


 仙台さんと一緒に行った水族館。

 仙台さんと一緒に行った動物園。


 ペンギンはどちらにもいたから、そのどちらかにしてもいい。でも、ペンギンはそれほど珍しいものではないから、探せば見られるところはいくつもある。だから、ほかの場所でもいい。迷うようならあみだくじで選んでもいいし、ここから一番近い場所という理由で探してもいい。


 そもそも仙台さんにとってペンギンなんてどうでもいいもののはずで、どこへ見に行っても変わらないはずだ。


 おそらく仙台さんはペンギンがそれほど好きじゃない。


 ペンギンだけじゃない。

 動物も、動物じゃないものも、等しく平等にそれほど好きじゃないように見える。同時に、嫌いなものと呼べるようなものもないように見える。それはどうでもいいと言ってもいいものなのかもしれない。


 彼女が言う“好き”と“嫌い”はふわふわした雲のようで、簡単に形を変えて、消えてしまいそうなものなのだと思う。


 そういう仙台さんと一緒にいると、私もそれほど好きじゃないものの一つで、嫌いじゃないだけのものなのかもしれないなんて気がしてくるときがある。


 そういうときは、当たり前のように私を見て私に触れてくる仙台さんが、なにかの間違いで私を見て私に触れているように思える。


 家庭教師の生徒がそういうものであるのはかまわないけれど、私がそういうものになるのは面白くない。


「……全部、仙台さんが悪い」


 私は青い水面をばしゃりと叩く。

 今は仙台さんの気持ちなんて関係ない。

 私は連休中にペンギンが見たいし、どうせ見に行くのなら調べてから行ったほうがいい。


 バスルームから出てスウェットに着替え、共用スペースへ行く。グラスをテーブルに置き、冷蔵庫からオレンジジュースを出して注ぐ。一口飲んで、仙台さんの部屋を見る。ドアは開かない。もう一口飲んで息を吐く。


 ここにいる意味はないから、グラスを持って部屋へ戻ろうとすると、さっきは開かなかったドアが開いて仙台さんが共用スペースに出てくる。


「お風呂出たの?」


 柔らかな声で問いかけられる。


「見たらわかるじゃん」

「わかるけど、確認」


 そう言うと、仙台さんが近づいてきて私の髪を軽く引っ張った。


「宮城、髪まだ濡れてる。ちゃんと乾かした?」

「大体乾かした」


 仙台さんが言う“ちゃんと”とはほど遠いかもしれないが、お風呂から出たあとに髪は拭いた。いつもに比べれば濡れているかもしれないけれど、拭いてはあるのだから問題はないはずだ。


「大体ってなに。もっと拭くか乾かすかしないと風邪引くよ」


 仙台さんがドラマや漫画で見る口うるさい親のように言う。


「風邪引くの、仙台さんじゃん。私は引かないし」


 この家に来る前も、来てからも、風邪を引いているのは仙台さんだ。私は調子が悪いことがあっても、寝込むようなことはなかった。


「そうかもしれないけど、宮城だって引くかもしれないでしょ。ドライヤー持ってくるからここにいて」

「わざわざドライヤー持ってこなくていい」

「じゃあ、タオルで拭いてあげる」

「タオルもいらない」

「遠慮しなくていいから。待ってて」


 私の言葉は無視され、仙台さんが姿を消す。そして、すぐにタオルを持って戻って来る。


「宮城、ここ座って」


 私がいつも座る椅子を引き、仙台さんがにこりと笑う。


「なんで?」


 じっと私を見ている彼女に問いかける。


「髪拭きにくいから」

「髪くらい自分で拭ける」


 私は仙台さんから視線をそらす。


 今、彼女に触られたくない。


 バスルームで感じたもやもやは消えていない。


 ペンギンがいる場所のことで頭をいっぱいにしようと思っていたけれど、それはあまり上手くいかなかった。今、仙台さんに触れられたらもやもやがもっと大きくなって、ペンギンを押しつぶしてしまいそうだと思う。


「そんなに私に髪拭かれたくない?」


 問いかけには答えられない。

 オレンジジュースをごくりと飲んで、仙台さんに渡す。


「残りあげるからタオル貸して」


 仙台さんはなにも言わない。


 静かすぎてちらりと彼女を見ると、「はい、どうぞ」とタオルが頭の上に置かれた。それを手に取って広げるといい匂いがして、私は仙台さんに背を向ける。渡されたタオルで髪をゴシゴシと拭きながら「明日だから」と小さく告げる。


「明日ってなにが?」

「ペンギン見に行く日」

「急すぎない?」

「行かないならそれでもいいけど」

「行かないなんて言ってないでしょ。で、どこ行くか決めたの?」


 背中をつつかれて振り向くと、彼女が持っているグラスからオレンジジュースはなくなっていた。


「……それは明日教える。お昼ご飯早めに食べて出かけるから、ちゃんと起きて」


 行き先が決まっていないことは言いたくない。

 これから調べることも言いたくない。


 仙台さんに言ったらごちゃごちゃうるさそうだし、これから一緒に決めようなんて言って部屋についてこられても困る。彼女が隣にいたら落ち着いて調べられそうにない。


 明日の行き先を決めるよりも先に、もやもやの行き先が決まりそうで嫌だ。


「宮城のほうこそちゃんと起きなよ。寝坊して、約束キャンセルとかなしだからね」

「寝坊なんてしないもん」

「ならいいけど」


 そう言うと、仙台さんが空になったグラスを私に渡してきて「洗うのまかせる」と付け加えた。



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