第293話
目が覚めたら、隣で黒猫がスマホを抱えて眠っていた。
――正確には隣に黒猫とスマホが転がっていた。
スマホは目覚ましの代わりにはなっていない。なにかに起こされたのではなく、自然に目が覚めた。
「……何時」
ぼそりと呟いて、口から出た言葉が頭にこつんと当たって、覚醒する。カーテンの隙間から太陽の光が入り込んでいる。それは朝が来たということで、私は飛び起きた。
スマホを手に取って時間を確認する。
九時十二分。
私はベッドにぱたりと横になる。
寝坊はしていない。
今日は仙台さんとペンギンを見に行く日だ。
アラームを鳴らそうと思っていた時間よりも遅いけれど、寝坊じゃない。出かけるのは午後からだからまだ時間はある。
でも、朝ご飯がまだだから仙台さんが私を起こしに来て、寝坊だの遅起きだのと文句を言ってくる可能性はある。彼女は連休中も規則正しい生活をしている。
だから、早く着替えて、予定通り起きたという顔をして共用スペースへ行くべきだと思う。
けれど、体が動かない。
眠くて、だるい。
ペンギンを見に行く場所をどこにするのか。
黒猫に相談しながらスマホで検索していたはずなのに、いつの間にか寝ていたらしい。おそらく、迷って、迷って、迷いすぎたのが良くなかった。ペンギンを見られるところなんてたくさんあるのに、どこへ行けばいいのかわからないまま朝になっている。
「……決まってないじゃん」
行き先は未定のままだ。
黒猫を引き寄せて、お腹をぎゅっと押す。
「どうしよう」
初めから仙台さんに任せておけば良かった。
自分で決めるなんて言ったから、こんなことになっている。
今からでも遅くない。
仙台さんに「やっぱり行き先決めて」と言えばいい。
いや、やっぱり駄目だ。
そんなことを言ったら「宮城はすぐ人に押しつける」なんて返されるに決まっている。
頭の中に自分の軽率さを呪う言葉が次々と浮かぶ。そのくせ今日出かけるべき場所は浮かばず、自分で決めるということだけが決まっている。
黒猫を額にくっつけて「どうしよう」ともう一度呟く。でも、仙台さんがろろちゃんと呼ぶ黒猫は、仙台さんのように行き先を決める力を私に与えてはくれない。頭の中が自分を呪う言葉でいっぱいになっていく。
スマホを手に取る力がでない。
ごろりと寝返りを打って、ため息を一つつくと、トントンとドアを叩く音が聞こえてくる。
「宮城、起きてる?」
仙台さんの明るい声がドアの向こうからして、「起きてる」と言いかけた私は黒猫のことを思い出す。これは本棚の番人であって、私のベッドの番人じゃない。
起き上がってベッドから下りると、体がふわふわする。
寝不足のせいかもしれないと思う。
スマホとにらめっこをしている時間が長すぎた。
「宮城? 寝てるの?」
さっきよりも少し大きな仙台さんの声が聞こえてきて、私は黒猫を本棚に戻してからドアを開けた。
「起きてる」
「起きてるならいいけど、着替えくらいしときなよ」
そう言うと、仙台さんがパジャマ代わりに着ている私のスウェットを引っ張る。
「今から着替えるところ。仙台さん、いちいちうるさい」
「うるさくされたくないなら、もっと早く起きなよ。今日の約束覚えてる?」
覚えてる、と答えると仙台さんの手がスウェットから離れる。
「朝ご飯はどうする? お昼ご飯早めに食べてから出かけるつもりなら、朝とお昼一緒にしてもいいけど」
仙台さんは、私が昨日言ったことをちゃんと覚えているらしい。
もう九時を過ぎているし、お昼ご飯を早めに食べるという予定に従うなら今から朝ご飯というのは遅すぎる。彼女が言うとおり朝とお昼を一緒にしたほうがいいと思う。それにお腹があまり空いていないというか、食欲がない。
「……それでいい」
ちゃんと眠っていないことの影響は思ったよりも大きくて、今日の行き先なんて仙台さんに任せておけば良かったとまた後悔しながら答える。
「なんかすごく眠そうだけど大丈夫?」
仙台さんが柔らかな声で問いかけてくる。
「大丈夫」
「本当に?」
「ほんとに。しつこい」
「まだしつこいって言うほど聞いてないでしょ」
「それでもしつこい」
ぴしゃりと言って、仙台さんの足を蹴ると、彼女の手が頬にぺたりとくっつく。
「キスならしないから」
「そうじゃない」
「だったら、なに?」
頬に押しつけられた手を剥がすと、仙台さんが今度は私の額に手をくっつけてくる。冷たい手が気持ち良くて、体から力が抜けそうになる。
「体温計ある?」
「ないけど、なんで?」
額にくっついている気持ちのいい手が勝手に剥がれる。
ふわふわとした体が仙台さんのほうへ寄りそうになって、ドアノブを掴むと、やけに真面目な顔をした彼女に見つめられた。
「持ってくるから、宮城は寝てて」
「だから、なんで?」
「顔が熱いから」
「熱いとなんなの?」
「熱があるって言ってるの」
「ない」
「熱があるかないかは体温計に聞くから。昨日、髪ちゃんと拭かないから風邪引いたんでしょ。ベッドで寝てなよ」
仙台さんが私の体を押して、回れ右をさせる。
「ペンギンは?」
後ろにいる仙台さんに問いかける。
「熱があったら行けないでしょ」
「ないから行く」
熱があるようには思えない。
大体、私は仙台さんのように風邪を引いたりしないし、自分の体の調子は自分が一番よくわかっている。今日は寝不足のせいで、ちょっとだるくて、食欲がないだけだ。
でも、仙台さんはそうは思わないらしい。
「それは体温計に決めてもらうから、ちょっと待ってて」
背後から気配が消える。振り向いても仙台さんはない。仕方なくベッドに戻って横になっていると、すぐにドアがトントンと二回叩かれ、「入っていい?」と問いかけられる。
「いいよ」
そう言うとドアが開き、仙台さんがベッドの側までやってきて「熱計って」と体温計を渡してくる。
「やだ」
私は横になったまま彼女の手を押し返す。
「計らないと、熱あるかわからないでしょ」
「ないもん」
「……あのさ、宮城って、熱出ると駄々っ子になるタイプ?」
仙台さんが困ったように言う。
「違う」
「じゃあ、大人しく計りなよ」
「熱なんて滅多に出ないし、大丈夫」
風邪を引いて寝込んだ記憶はほとんどない。
大きな病気もしたことがないし、人よりも丈夫だと思う。
「そこまで言うなら、大丈夫だってところこれで証明しなよ」
体温計が差し出され、私はそれを渋々受け取る。
ここまで言われたら、熱がないところを証明してみせるしかない。私は体温計のスイッチを入れて熱を計る。結果はすぐに出て、体温計の数字を確かめようとすると、仙台さんに取り上げられてしまう。
「今日のペンギンはなしね」
体温計を見ていた仙台さんが難しい顔で言って、私の体に布団をかけ直す。
「なんで?」
「三十七度九分。誰がどう見ても熱がある数字だから」
奪われた体温計を渡される。
そこには私が風邪を引いたという証拠が表示されていて、さっきよりも体がだるくなったような気がしてくる。
「……仙台さんだけ行けば」
体温計のスイッチを切って、枕元に置く。
「行けばって、どこに?」
「ペンギン見に」
「行くわけないでしょ」
「なんで?」
「宮城と行かないと意味がないから」
「なんで?」
「一人で見てもつまらないし」
「面白いかもしれないじゃん」
ぼそりと言って、布団に潜り込む。
どうしても行きたいと思っていたわけではないはずなのに、行けないとわかるとどうしても行きたかったように思えてくる。
こんなことなら、自分で行き先を決めるなんて言わなければ良かった。
昨日、仙台さんに髪を拭いてもらえば良かった。
そもそもペンギンを見に行くなんて言わなければ良かった。
後悔だけが私を満たし、倦怠感を加速させる。
だるくて、だるくて、体が熱い。
吐く息まで熱いような気がして、布団から顔を出すと、ベッドの側にいたはずの仙台さんがいない。体を起こしたいけれど、面倒くさくて起き上がりたくない。
「仙台さん」
小さな声で呼んでも返事がない。
素直に熱を計らなかったから。
ペンギンを見に行くという約束を守れなかったから。
なにが悪いのかわからないけれど、仙台さんは私に呆れて部屋から出て行ってしまったらしい。
自業自得だと思う。
でも、誰かに側にいてほしくて、それが仙台さんであってほしいと思う。
調子が悪いからこんな風に思うのか、そうじゃなくてもこんな風に思うのかわからない。具合が悪くて寝込むことはほとんどなかったけれど、そのほとんどなかったいくつかの夜になにを考えていたのか思い出せない。いつもよりも一人が怖かったことだけが記憶に残っている。
意識が思い出したくない過去に沈みかけている。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
――トントン。
考えたくない思考の向こうから、明るい音が聞こえてくる。
「宮城、入るよ」
私を助ける声が聞こえて「仙台さん」と呼ぶと、ペンギンとカモノハシを持った彼女が入ってくる。
「はい、どうぞ」
そう言って、仙台さんが持ってきたぬいぐるみとティッシュカバーを私の周りに置く。そして、勝手に黒猫とワニも持って来て、布団の上へ置いた。
「動物園っぽくていいでしょ」
仙台さんがくすくすと笑いながら言う。
「なんで笑うの?」
「ぬいぐるみに囲まれてる宮城、可愛いなって」
「可愛くない」
黒猫を掴んで仙台さんに投げようとすると、手から離れる前に彼女に奪われ、元あった場所に戻される。
「大人しく寝てなよ」
「周りがごちゃごちゃしてて眠れない」
「じゃあ、私とちょっと話そうか」
「話すことないし」
「私はあるんだけど」
仙台さんがベッドの端に腰掛ける。そして、話をしてもいいと言っていないのに話しだす。
「もしかして今までも熱があったの隠してたりした?」
あまりいい話ではなさそうでペンギンを投げようとするけれど、やっぱりそれは彼女に奪われてしまう。
「どうなの? 宮城」
仙台さんがペンギンを抱えて聞いてくる。
「隠してない」
仙台さんは私がなにか言うまで諦めそうにないから、仕方なく答える。
「本当に?」
「風邪引かないし」
具合が悪くても熱は計らなかった。
具合が悪いことに気がつかなければ、具合は悪くならない。知らなければ、調子が悪いくらいでやり過ごせる。
「これからは私のこと頼ってよ」
仙台さんの手が布団を、ぽん、と叩く。
「頼るって?」
「具合が悪いなら悪いって言って。そういうの、当たり前だから。もう隠し事はなしね」
「……私には当たり前じゃない」
「当たり前にしなよ。ルームメイトだったら、具合が悪いことくらい普通に言うでしょ」
「……言うの?」
「言うよ」
「じゃあ、仙台さんも隠し事しない?」
「しないよ」
仙台さんが本当かどうかわからないことを言って微笑む。
私には彼女を信じられるときと、信じられないときがある。それは仙台さんが私に本当のことだけを言っているわけじゃないからだ。
じゃあ、今の仙台さんは――。
頭がぼうっとして考えられない。
「宮城、少し寝たら?」
仙台さんの手が私の髪を梳いて、頬にくっつく。
彼女の手はやっぱり気持ちがいい。
「寝たくない」
「じゃあ、眠たくなるまで一緒にペンギン見よっか」
「どうやって?」
「こうやって」
仙台さんが抱えていたペンギンをベッドの上へ置き、ぬいぐるみたちと一緒に持ってきたらしいタブレットを私に見せてくれる。そこにはペンギンの映像が流れている。
「可愛いよね、ペンギン」
優しい声が聞こえてくる。
今日の仙台さんが信じてもいい仙台さんなのかわからない。
でも、こういうときに仙台さんが近くにいると落ち着く。
だから、今日は具合が悪くても怖くない。
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