第75話

 首元が落ち着かない。

 ネクタイはきつくもなく、緩くもない程度に締めている。


 たぶん、首に巻き付いているこの布きれが私のものではないからそわそわして落ち着かないのだと思う。


 私は、ネクタイを引っ張ってみる。


 仙台さんのネクタイは、私の物と見た目も手触りも変わらない。舞香も亜美もネクタイが変わったことに気がついていないくらいだから、誰が見ても、誰が引っ張ってもただのネクタイでしかないはずだ。


 私と仙台さんだけがネクタイが違うことを知っている。


「志緒理、ネクタイ見てないで前見なよ。危ない」


 舞香の声が聞こえて、腕を引っ張られる。

 ネクタイに向かっていた意識が外へ向かい、シャットアウトされていた音が一気に流れ込んでくる。


 行き交う人の声。

 車が走る音。


 耳に響く音で頭の中が急に賑やかになって、ショッピングモールに向かっていることを思い出す。


 買い出しに行くんだっけ。


 私はネクタイから手を離して前を見る。

 面倒でしかない文化祭は数日後に迫っていて、気が進まないけれど私もその準備に追われている。今日は誰かが看板をもう少し飾りたいと言い出したせいで、材料の買い出しに放課後を捧げることになった。


「ぼーっとしてると、仙台さんにぶつかったみたいにまたぶつかるよ」


 亜美が笑いながら言って、舞香が呆れたような声を出す。


「人どころか、自転車にぶつかりそうで怖いからちゃんとして」

「ごめん」


 制服やスーツを着た人たちが混じり合うように歩いている歩道には、人を縫うようにして自転車が走っている。そんなにスピードは出していないけれど、ぶつかったら怪我をしそうではある。


 文化祭がどうなろうとかまわないが、自転車とぶつかって病院送りなんてことになったら困る。通院にしても入院にしても、そんなくだらない予定はいれたくない。


 あれから、仙台さんと会えていない。


 文化祭の準備と予備校のせいで、予定が合わずにいる。何度か送ったメッセージの返信は予備校があるからと告げるもので、延期になった予定は文化祭の準備で潰れた。病院に行くなんてことになったら、予定はさらに延びることになる。


「最近、ネクタイよく見てるけどなにかあるの?」


 舞香が私のネクタイを指さす。


「別になんでもない。上手く結べてるか気になって」


 私は大きく一歩踏み出して、胸元に刺さる視線から逃げる。けれど、亜美が逃がさないぞという意思を感じる力で私の肩を叩いた。


「急に身だしなみを気にし出すとか怪しい。今までそんなに気にしてなかったじゃん」

「怪しくない。なんか変な感じがしただけ。それより、なに買うんだっけ?」


 追求されても答えようのない会話を強制的に終わらせる。ついでに、落ち着かない原因になっているネクタイのことも頭から追い出す。


「メモあるから」


 舞香がスカートのポケットから折りたたんだ紙を出す。数十分前にはノートの一部だった紙切れを覗き込むと、なにに使うのかよくわからないものまで書いてあった。全部買いそろえたら結構な荷物になりそうだが、教室で働くよりはマシだと思う。


 私たちはなんだかんだと文句を言いながら、ショッピングモールを目指す。


 真夏に比べれば暑くはないけれど、白いブラウスが背中にぺたりとくっつく。仙台さんのブラウスはなんとなく着られなくてクローゼットの中にしまってあるから、ネクタイと違ってブラウスは気にならない。でも、仙台さんが私のネクタイとブラウスをどうしたのかは気になっている。


 学校の中で、彼女を見かけることはあった。

 けれど、見ただけでは制服を構成するそれが私の物なのか、仙台さんの物なのかはわからない。


 彼女に会って、私の制服をどうしたのか直接聞きたいと思う。


「早く文化祭終わればいいのに」


 ぼそりと呟いた言葉に、亜美が反応する。


「準備は面倒だけど、文化祭自体は楽しいじゃん」

「今年が最後だし、色々見ようよ」

「楽しみじゃないわけじゃないけどさ」


 亜美と舞香の楽しそうな声に、歯切れ悪く答える。


 文化祭というイベント自体は嫌いじゃない。去年はそこそこ楽しかったし、一昨年はほどほどに楽しかった。一部の人が作り出す『イベントを楽しもう』という熱に巻き込まれることが面白くないだけだ。


 クラスの中心メンバーだけで盛り上がればいいのに、一緒に盛り上がることを強制されている。今日だって買い出しがなければ、仙台さんを家に呼ぶことができた。


 今さら早く帰ってもどうにもならないけれど、早く帰りたい。


 そんな後ろ向きな思考に囚われていると、亜美の前向きな声が聞こえてきた。


「まあ、今日はのんびり買い物して帰ろうよ」

「亜美、今日は個人的な買い物に来たわけじゃないからね?」


 舞香がひらひらとメモを振って見せる。


「買い出しなんて適当、適当。サクッとすませて、時間潰して帰ればいいって」

「また適当なこと言って」

「使いっ走りなんて真面目にやってもしょうがないもん。志緒理もそう思うでしょ?」

「まあね」


 亜美の気楽さを見習うわけではないけれど、どうにもならないことをどうにかしようと考えるなんて無駄なことだ。面倒な買い出しはさっさと終わらせて、二人となにか楽しいことでもして帰った方がいい。


 私は、二人と一緒にショッピングモールの中へと入る。


 それなりに量があるよくわからない材料は、舞香がメモを片手に買い集めていく。荷物持ちと化した私と亜美は、意思のないゾンビと変わらない。舞香のあとをついて回って使いっ走りの役目を果たす。


「なにか飲みたくない?」


 ほぼ舞香のおかげで買い出しが終わると、亜美の一言で次の目的地がフードコートに決まる。


 今度は、亜美が先頭に立って歩き出す。

 エスカレーターに乗って、くだらない話をして、雑貨屋を通り過ぎたところで、私は足を止めた。


 そこは普段は気にすることのないショップで、いつもなら歩く速度すら変わらない。けれど、店頭に並んでいたアクセサリーが目に入った。それはシルバーのチェーンに小さな飾りがぶら下がったネックレスで、仙台さんに似合いそうに見えた。


 思わず近寄ると、舞香の声が聞こえてくる。


「なに? 可愛いのあった?」

「ううん」


 咄嗟に答えると、私を置いていきかけた亜美が戻ってくる。


「もしかして誕生日プレゼント、アクセサリーの方が良かった?」

「そういうのが欲しいなら、言ってくれたら買ったのに」


 舞香が残念そうに言って、私は慌ててそれを否定した。


 先週、二人から誕生日プレゼントとしてもらったペンケースとブックカバーは気に入っている。ペンケースはもらった翌日から使っているし、ブックカバーは読みかけの小説にかけてある。どちらも欲しいと言っていたものだから、アクセサリーの方が良かったなんてことはない。


「欲しいわけじゃなくて、目に入っただけだから」


 そう、たまたま目に入って、仙台さんのことを思い出しただけだ。アクセサリーは彼女に払う五千円があれば買える程度の値段で、買えないものではないけれど、私が買って渡すようなものじゃない。大体、ネックレスなんて渡せるわけがないし、渡すきっかけもない。誕生日を知っていれば渡すきっかけにはなりそうだけれど、私は仙台さんの誕生日を知らないし、聞いたこともなかった。


 ……知ってても、渡さないか。


 よく考えるまでもなく、私たちはプレゼントを渡すような仲じゃない。渡せないなら、彼女に似合いそうなものを見つけても無意味だ。


「中、見てく?」


 舞香に聞かれて、私はきっぱりと答える。


「見ない」

「見ないなら、いこっか」


 亜美が軽い口調で言って、歩き出す。舞香に「本当にいいの?」と尋ねられたけれど、返事は変えない。見たってしかたがないから、変える必要がなかった。

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