第76話

 仙台さんは来なかった。

 昨日も今日も待っていたわけではないけれど、文化祭の二日間、彼女は私のクラスに来なかった。


『宮城を見に行こうかな』


 最後に会った日に仙台さんが口にした言葉は冗談でしかないし、わざわざ私を見に来るような人ではないと知っている。だから、待ってはいない。文化祭が終わって、片付けも済んで、最後の最後に仙台さんが来なかったなと思っただけだ。


 文化祭自体は楽しかったと思う。


 舞香たちと一緒に普段は行かないような一年生の教室にも行ったし、体育館でやっていたイベントも見た。面倒だったけれど、カフェであれこれやらされたこともいつかは良い思い出になるはずだ。そのどれにも仙台さんがいなかったことは、気にするようなことじゃない。


 彼女が変なことを言うからそれが頭に残っていただけで、仙台さんが来ても来なくても関係のないことだ。私は私で楽しかったし、これから舞香たちとご飯を食べて帰ることなっているから仙台さんなんてどうでもいい。


 彼女のことなんて、別になんとも思っていない。今ごろは打ち上げだとか言って、仙台さんも茨木さんたちとどこかで遊んでいるに違いない。


 私は、カフェの制服代わりに身につけていたエプロンを取って、クラスメイトとお揃いのTシャツを脱ぐ。そして、制服を着る。十月に入って制服は合服に替わり、半袖だったブラウスは長袖に替わっている。


 結局、仙台さんのブラウスには一度も袖を通さなかった。クローゼットの中で眠り続けている彼女の制服を着る機会はもうない。


「志緒理、着替え終わった?」


 クラスメイトの半分ほどが帰った教室の片隅、舞香に声をかけられる。


「うん」


 私は仙台さんのネクタイを締めて、鞄を持つ。


「じゃあ、お腹空いたし、早く行こうよ」


 亜美の言葉に、三人で教室を出る。

 文化祭の最中とは違って人気のない廊下を歩くと、ぺたんぺたんと靴音がやけに響く。階段を下りて下駄箱が近づいたところで、鞄の中でスマホが鳴った。


「志緒理の?」


 舞香の声に頷いて、足を止める。スマホを引っ張り出して画面を見ると、そこには仙台さんの名前があった。


『まだ学校にいる?』


 短いメッセージは今まで彼女からもらったことのないもので、ネクタイをぎゅっと掴む。

 今までこんなことを聞かれたことはない。


 学校にいたらどうなるのか。

 いなかったらどうなるのか。


 初めてもらったメッセージからは、その先を想像できない。でも、どれだけ迷ってもその先になにが待っているのかわからないから、「いる」とだけ書いて返事を送る。すると、すぐに新しいメッセージが届いた。


『この前のところで待ってる』


 この前の一言で通じるほど、私たちは学校で親しくしていない。けれど、その場所はすぐにわかった。


 一度だけ、学校の中で仙台さんと二人きりで話した場所がある。


 音楽準備室。


 彼女が待っているのは、きっとそこだ。


「ごめん、忘れ物。ちょっと取りに行ってくる。あと今日、駄目になった。お父さん、早く帰ってくるみたいだから」


 わざとらしいとは思うけれど、他に適当な理由も見つからないから早口に言って踵を返す。


「ええー、一緒に忘れ物取りに行くし、志緒理もご飯食べに行こうよ」


 亜美の声が追いかけてきて、私は振り向いた。


「お父さん、早く帰ってこいって言ってるから。ほんと、ごめん。二人で食べてきて」


 ぱん、と手を合わせてお願いすると、舞香が迷うことなく言う。


「志緒理行かないなら、今度でいいよ。ねえ、亜美?」

「そうだなー、予定が合う日でいいよ。とりあえず、忘れ物取りにいこ」

「あー、いいよ。悪いし、ちょっと時間かかりそうだから一人で行ってくる」


 ごめんね、ともう一度謝ると、亜美がうーんと唸ってから仕方がないといった顔をした。


「じゃあ、先に帰るけど、志緒理が暇な日っていつ?」

「予定合わせるから、二人で決めちゃって」

「わかった。舞香と決めとく」

「ありがと。ごめんね」


 私は二人に手を振って、旧校舎に向かう。


 生徒の大半が帰った学校は、どこか違う世界に繋がっていそうな気味の悪さがある。太陽は落ちかけているけれど、外はまだ明るくて廊下もそれほど暗くない。でも、旧校舎に近づくにつれ、見かける生徒の数が少なくなっていくからなんだか怖くなって早足になる。ぱたぱたと響く自分の足音から逃げるように音楽準備室の扉を開けると、楽器に紛れるように仙台さんがいた。


 照明の下、彼女に近づくと声をかけられる。


「久しぶり」


 何度か廊下ですれ違っているから、久しぶりというほど顔を見ていないわけじゃない。


「学校では話さないって約束でしょ」

「じゃあ、来なければ良かったのに。行かないって返事すれば、それで済んだと思うけど」


 磨かれた楽器が置かれた棚に寄りかかって、仙台さんが笑う。


「なんか用あるんだよね? 話があるから呼んだんでしょ」


 行かない。


 そう返事をすることもできたけれど、そうしなかった理由は自分でもよくわからない。待ってるというメッセージに返事をするよりも先に体が動いていた。けれど、わざわざそんなことを仙台さんに言いたくはなかった。


「文化祭、一緒に楽しもうと思って」


 仙台さんが作ったような声で言って、どんな音を出すか想像できない楽器を叩く。


「もう終わってるし、こんなところで楽しむもなにもないじゃん。そういう冗談、面白くないから。話ないなら帰る」

「まだ話、終わってない」


 適度に離れていた距離を仙台さんが縮める。思わず一歩下がると、ブラウスの袖を掴まれた。


「宮城と文化祭回りたかったって言ったら、笑う?」


 私が文句を言う前に聞こえてきた声は、それほど真剣ではないけれど冗談とも思えない声で返事がしにくい。でも、黙っていられるほど私たちの間に流れる空気は軽くはなくて、短く告げる。


「笑う」

「だよね。私も宮城が同じこと言ったら笑う」

「……うちのクラス、来なかったくせに」


 一緒に文化祭を回るなんてできないことで、それが実現しないことは仙台さんも知っている。けれど、そんな風に思う気持ちがあるのなら、私のクラスに顔を出すくらいするはずだ。


 仙台さんは来なかった。


 それが答えだと思う。

 今日も、いつものように私をからかっているだけだ。


「約束はしてない」


 素っ気ない声が聞こえて、私の考えが間違っていなかったことがわかる。


「やっぱり帰る」


 ブラウスの袖を掴む仙台さんの肩を押す。でも、私たちの距離は近すぎるままで、仙台さんはブラウスを離してくれなかった。


「羽美奈たちがさ、行きたいところがあるってうるさくて」

「なにそれ」

「宮城のクラスに行かなかった理由」

「理由なんて聞いてないし、どうでもいい」

「知りたいかと思って」

「思ってない。帰るから離して」

「離さない」


 仙台さんが近かった距離をさらに詰めてくる。ブラウスの袖だけを掴んでいたはずの手が私の腕を掴んで、強く引っ張ってくる。


 体を動かすつもりはなかったけれど、バランスが崩れて仙台さんに一歩近づく。それはたった一歩で、数十センチくらいのもののはずだったのに、仙台さんがそれ以上に近づいてきたから唇が触れそうになった。


 偶然ではなく、意図的な動きに、私は反射的に顔をそらす。でも、仙台さんは逃がしてくれなくて、もう一度顔を寄せてきたから私は彼女の両肩を思いっきり押した。


「こういうのなしでしょ」


 もう唇へのキスはしない。

 そういうルールを決めたわけではないけれど、そういうことだと思っている。


「夏休みは宮城からもキスしてきたのに?」

「夏休みは終わったから。だから、もうキスはしない」


 へえ、と小さな声を返して、仙台さんが私のネクタイを引っ張ってくる。


「これ、私のだよね?」

「だったらなに?」

「私のネクタイとブラウス欲しがって脱がせたくせに、キスはしないんだ?」

「欲しがってなんかないし、脱がせてもない。交換しただけじゃん」


 強い口調で言うと、仙台さんが不満そうに言い返してくる。


「じゃあ、交換終わり。今すぐネクタイとブラウス返して。ここで脱ぎなよ」

「このブラウス、仙台さんのじゃないってわかってるよね? あとでネクタイと一緒に返すからそれでいいでしょ」

「駄目」


 制服は合服になっていて、ブラウスは長袖に替わっている。仙台さんが着ていた半袖のブラウスはここにはない。そんなことは見ればわかるはずなのに、彼女は返事を変えようとしない。


「今、ここで返して」

「命令しないでよ」

「命令じゃない。交換は終わりって言ってるだけ」

「仙台さんだって合服着てるんだから、返せるわけないじゃん」

「ブラウスなら持ってきてる。ネクタイは宮城のだし、すぐに返せる」

「それ、嘘でしょ。文化祭にブラウスなんか持ってきてるわけないもん」

「嘘だと思うなら確かめてみたら? そこの鞄に入ってるから、開けていいよ」


 仙台さんが振り向いて、楽器が置かれている棚を見る。彼女の視線を辿ると、そこに見慣れた鞄が置いてあった。


 開けて確かめるなんて無意味だと思う。

 これだけ強く言うのだから、鞄の中にはブラウスが入っているはずだ。仙台さんなら、こうなることを予想してブラウスを用意していてもおかしくはない。


「……なにが目的なの?」

「キスさせてくれたら、今すぐ交換できないこと許してあげる」

「ずるい。交換するなら、するって教えてよ。そしたら、今日持ってきた」

「宮城だってずるいじゃん。この前、ブラウス脱がなかった」

「あれは、着てるヤツを交換するなんて言ってないし」

「ずるいよ。お互い様だと思う」


 今の仙台さんはまともじゃない。

 こんなことを言う人じゃなかった。


 遠回しに言って私を思い通りに動かそうとすることはあっても、ここまで強引に自分の欲求を突きつけてくるようなことはなかった。なにがどうしてこうなったのかわからない。


 文化祭が終わるまで会えなかったから。


 思い当たる理由なんてそれくらいだけれど、仙台さんがそんなことで変わってしまうとは思えなかった。


「お互い様じゃない。学校では話さないし、こんなこともしない。仙台さん、そういうルール守ってよ」


 じゃないと、私までおかしくなる。


 仙台さんがしっかりしていてくれないと、壊れたコンパスみたいに方向が定まらない。行ってはいけない場所に向かってしまう。そこが後戻りできないようなところだったら困る。仙台さんは数ヶ月後には私を置いていってしまうから、これ以上深く関わりたくない。


「……文化祭、楽しそうにしてた宮城が悪い」


 ぼそりと仙台さんが言う。


「なんで楽しそうにしてたってわかるの」

「見かけたから」

「仙台さんだって楽しかったでしょ」


 去年の文化祭で、彼女が楽しそうに笑っているところを見た。

 今年は見てはいないけれど、きっと変わらなかったと思う。


 でも、返事がない。

 代わりに、私の腕を掴んでいた手から力が抜ける。


「そんなにキスされたくないなら逃げれば。逃げるくらい嫌だって人にキスしたりしないから。宮城が逃げるなら逃がしてあげるし、追いかけないであげる」

「それって、選べってこと?」

「そういうこと。宮城に選ばせてあげる。私はそれに従うから」

「……やっぱり、仙台さんはずるい」


 いつだって彼女は選ばない。

 決定権を私に投げて、様子を見ている。

 そして、与えられた選択肢は選択すべきものが決まっている。


「早く決めて。じゃないと、選べなくなるよ?」


 そう言うと、仙台さんは私から手を離した。

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